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ロココ美術

2012-11-10 | 流派

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ロココ美術 【わたしの里の美術館・流派】 ロココ美術 流派

 

 

 

 

 

 

バロック様式の庭園に見られる、岩で作られた洞窟をグロッタ (Grotta) と言いました。ロカイユとはこの洞窟・グロッタの岩(rocaille)の石組みのことです。それが転じて、室内装飾の優美な曲線様式を、ロカイユ装飾とよぶようになりましたた。

 

 

 

ロカイユ装飾は、イタリアの貝殻装飾に由来すると考えられていますが、植物の葉のような複雑な曲線を用いた様式は、今では極ありふれた装飾の一形態ではあります。(画像を参照してください)。 

  

 

 18世紀ルイ15世統治下のフランスを中心に、欧州各地を席巻したのが優美な装飾様式でした。「ロカイユ(貝殻装飾)」が語源で、曲線を多用した装飾性の高い形体は、今日の装飾界では普遍的な典雅を表す様式です。きらびやかで軽快そのもの、甘美さと豪奢さの横溢する画面には、絶対王制の至福が充ち満ちているようです。その絶頂期の王権を言祝ぐのは、神話に示される、不滅の権威でした。

 肖像、風俗を写したもの、そして可愛らしい日常の誠、静物の絵にも、ロココ独自の様式美があふれています。

 

 

バロックとロココ [編集]新古典主義の時代(18世紀末~)になると、前時代の装飾様式が退廃的であるとして蔑称的に使われたが、その後、時代一般の美術・文化の傾向を指す用語として、広く使われるようになった。ロココ様式(スタイル)、ロココ建築、ロココ趣味などと使う。豪壮・華麗なバロックに対して、優美・繊細なロココともいわれるが、両者の境界は必ずしも明確ではなく、ロココはバロックの一種と考える人もいる。

 

 

 

  モーリス・カンタン・ドラトゥール

 

 



 

ロココの時代範囲 [編集]ルイ15世の愛妾で、才色兼備で知られたポンパドゥール夫人(1721年 - 1764年)を中心とする宮廷のサロン文化の最盛期にロココの華を見ることができる。ルイ15世の晩年の愛妾デュ・バリー夫人の時代でもロココ様式は維持されたものの、ルイ15世の孫ルイ16世(在位1774年 - 1792年)が即位する頃から、装飾を抑え直線と均衡を重んじるルイ16世様式(広義の新古典主義様式)に次第に取って代わられるようになる。しかしルイ16世の王妃マリー・アントワネットが「ロココの女王」と通称されるように、ロココ的な美意識や雰囲気は、宮廷が実権を失う1789年のフランス革命まで継続したと見てよいであろう。

 ポンパドゥール夫人【肖像画】 ポンパドゥール夫人 【ドラトゥール         

スウェーデンでは、1771年に即位したグスタフ3世の治世を「ロココの時代」と呼称されている。特に芸術や文化の面でロココの影響を受けて「グスタフ朝時代」と呼ばれる一時代を築いた(同時代のフランス文化の影響を受けて広義の新古典主義様式も見られた)。スウェーデンのロココ様式の時代は、1792年にグスタフ3世が暗殺されるまで継続した。

  

フランス [編集]ジェルマン・ボフランが建てたパリのオテル・ド・スービーズは手のこんだ建築装飾がほどこされ、この時代のロココ様式を代表する作品として知られる。
ポンパドゥール夫人の命でアンジュ=ジャック・ガブリエルが建てたヴェルサイユ宮殿内のプティ・トリアノン。なおポンパドゥール夫人没後にこの敷地に王妃マリー・アントワネットはイギリス式庭園を造り、「王妃の村里」と呼ばれる農村を併設した。
ルイ15世の義理の父スタニスワフ・レシチニスキによりナンシー(当時はロレーヌ公国)のスタニスラス広場が整備される。

 

フランスのロココ絵画

この時代には、アカデミーのサロン(サロン・ド・パリとも呼ばれ1725年に第1回を開催)が定期的に開催されるようになり、美術品が広く鑑賞されるようになった。
アントワーヌ・ヴァトー、フランソワ・ブーシェ、ジャン・オノレ・フラゴナールなどの画家が知られている。それぞれヴァトーがロココ前期(1710-20年代)、

 ブーシェ 1703 ~ 1770

ブーシェがロココ盛期(1730-50年代)、

ブーシェ

 

 

フラゴナールがロココ後期(1760-80年代)を代表する画家である。
ヴァトーが1717年にアカデミーに「シテール島への巡礼」を出品した際には「雅宴画(フェート・ギャラント)」の画家として承認された。なお1717年の「シテール島への巡礼」は現在ルーブル美術館にあり、それより数年後に描かれた別ヴァージョンはプロイセン国王フリードリヒ2世が1756年に購入して、ベルリンのシャルロッテンブルク宮殿に飾られている。
ヴァトー没後に「雅宴画」の画家として正式に認められた人物には他にジャン=バティスト・パテルやニコラ・ランクレがいる。優雅な男女が集い、恋の戯れや遊びに興じる「雅宴画」には、イタリア喜劇(コメディア・デラルテ)の配役(ジル、メズタン、アルルカン)も登場している。こうした演劇をモチーフにする絵画はヴァトーに先立つクロード・ジロによって先鞭がつけられたものである。
モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールが描いたポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour)の肖像画(右図)が盛期ロココ時代の肖像画として有名。なおこの肖像画が油彩ではなくパステルで描かれていることに注目されたい。パステルの軽妙な色彩は多くの支持者を得、ラ・トゥールの好敵手とされたジャン・バティスタ・ペロノー、静物画で知られる ジャン・シメオン・シャルダンスイス生まれでトルコに赴いてその地の風俗を記録したジャン・エティエンヌ・リオタールもパステルで優作を残している。
サロンでの展示に対し美術批評がなされるようになったのもこの時代のことである。哲学者でもあるディドロはその批評で軽佻浮薄で官能的な刺激の強いブーシェやジャン=マルク・ナティエの作品を批判している。対して感傷的ではあるものの道徳的な教訓が強いグルーズの作品や、静物画や風俗画で活躍したシャルダンの質実な作品には好意的な評価を下している。
「女性の時代」とも呼ばれる18世紀のロココ時代だが、1783年にはフランス王立アカデミーに二人の女性が入会を認められた。アデライド・ラビーユ=ギアールとエリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランである。特に後者ヴィジェ=ルブランは王妃マリー・アントワネットの肖像画家としても知られ、そのよき理解者でもあった。宮廷の崩壊に立ち会ったという意味ではロココ最後の画家と言ってもよいだろう。

 

 

 
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