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ポンパドゥール夫人

2009-11-05 | 肖像画

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ポンパドゥール夫人【肖像画】 ポンパドゥール夫人 【ドラトゥール 

 


 

 

 

 

モーリス・カンタン・ドラトゥール

 

 

 ルイ15

 

ポンパドゥール夫人

ジャンヌ=アントワネット・ポワソン・ド・ポンパドゥール(仏: Jeanne-Antoinette Poisson de Pompadour)とは、ある関西(兵庫県西宮市)在住の女子高生に対し、江原啓之が示した「ヨーロッパの宮廷で愛された貴婦人」という前世に当てはまる者の中では、最も生き写し、もとい生き写されたと言える人物である。

生い立ち
 
今の日本で言うところの、中の上の暮らしが出来るサラリーマン一家、つまり民間の裕福な家庭の娘として生まれる。ウィキペディアにあるように両親は教育熱心で、彼女自身もそれに応えた優等生であった。日本ならば神戸女学院あたりで10代の学校生活を送り、成績もトップクラスであったに違いない。
 
芸術にも明るく、当時はまだどうしようもなく先鋭的な概念であったロココ趣味を愛した。今の日本における萌えのような位置づけにあったものである。その上常人を超越した合理的な思考の持ち主であった。これは父が銀行員であったことに起因しており、端からは不思議ちゃんにしか見えなかった。公務員と結婚したもののそのあまりの合理性に呆れはてられ、程なくして別居している。
 
[編集] 運命の時へ
 
夫との生活に飽き飽きしていた頃から、彼女はかつてソレナンテ・エ・ロゲも居たようなフランス中の変人奇人が集うサロンなる場所へ足繁く通い始めた。そこでは常人が見聞きすれば泡を噴いて卒倒してしまうような奇々怪々とした理論が繰り広げられていた。しかし彼女はその状況を大いに楽しみ、この世界とは何か、そして自身に課せられた宿命とは何たるかを適当に自覚していった。
 
そして彼女が21歳のこと―時の王ルイ15世と出会った。彼女の優れた容姿と放たれる不思議なオーラに六感を魅了されたルイは「君はお花畑だね。」と口説き、すぐに彼女を我が物にした。そして1年経つか経たないかの内に、彼女は公的に認められた国王最愛の妾となったのである。
 
なおその際、彼女は以下のような発言をしている。

「私の時代が来たわ!」
〜 当時の世界 について、ポンパドゥール夫人


その後の半生
 
宮廷社会の一員となったジャンヌことポンパドゥール夫人(- ふじん、仏: Madame de Pompadour)は、専らフランス王室の財政を破綻させた浪費家として知られる。しかしその真意は彼女自身の享楽と権力の誇示とは別の所にある。
 
それはやはりサロンでの種々の思想―当時は気違いの妄想と片付けられたものであった。彼女はサロン仲間であった宇宙人ヴォルテール、強引に連れてきた未来人ディドロを自身が作らせた別荘に毎日のように招き入れ、ヴェルサイユでは禁則事項としか言えなかった種々の会話に花を咲かせた。このような行いにルイ15世は「忌々しい。」と呟いたかどうかは知らないが、行動の上では彼女を心から愛しているように見えた。また超能力者ケネーを主治医とし、同類の者であったショワズールと共に国家戦略に深く関わらせた。自身もフランス王室団長を自称し、勅令の発布や税の徴収、はては他国との非公式会合に至るまで、あらゆるまつりごとは彼女の承認なしには執り行うことが不可能であった。
 
七年戦争の際には軍事オタクの始祖であるプロイセン王フリードリヒ2世に激しく反発した。両国とも宿敵としか言えない存在であったオーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエリザヴェータ女帝と意気投合する程であった。この際、マリア・テレジアの娘である世界初のゆとり、マリー・アントワネットを気に入り、重度のオタク気質を矯正してくれるのではと義理の息子の嫁にしている。マリーが一時実践していた毎日髪型を変える習慣は彼女の発案によるものである。
 
かようにして自らの絶頂を謳歌していたのにも関わらず、彼女の有り余る合理性が衰えることは一切無かった。30歳には自身のおっぱいが垂れてきたということで、より巨乳であった下僕に王のお相手を任せ、自らは完全に夜の相手役から引退した。この際王のロリコンすら更生させた、合理主義に基づく自身の秘儀パイズリを伝授したと言われている。さらに次から次へと変化する王の嗜好に応えてハーレムを作らせた。このような理由あって交わりが途絶えても王は最大の理解者であった彼女を死ぬまで愛し続け、彼女は王にとって妻かつ恋人かつ側近かつ親友であったのである。

 

手足20本の指に入る世界を代表する悪女であるとされるポンパドゥール夫人であるが、これは余りに近視眼的で、重度のユーモア欠落症患者が壊れたラジオのように繰り返すステレオタイプな思考である。
 
ポンパドゥール夫人の最大の功績は、何度も申し上げている通り当時は人間ならざる破綻者の思考とレッテルを張られていた啓蒙思想を、自ら奪取した権勢でもって思い付いたままに奨励し、無理やりフランス王室が公認する偉大なる思想としたことにある。これらはみな民主主義、社会主義、資本主義、共産主義、そして自由の源流となる思索である。「ポンパドゥール夫人も認める所だ。」という台詞はフランス革命時の三部会において、革命派が自らの存在意義を王党派に対して簡潔に説明するために極めて重宝された。さらに革命こそ国提とした第三共和制以降、ポンパドゥール夫人の別荘のひとつであったエリゼ宮はフランス大統領官邸として用いられている。もちろん彼女の偉業にあやかってのことである。
 
つまり、この世界はポンパドゥール夫人によって作り変えられたといっても過言ではない。

なお、以下は彼女の晩年の発言と伝えられている。

「私たちの後は、地獄だけよ。」
〜 次の新しい世界 について、ポンパドゥール夫人
( アンサイクロペディア )

 

 



 ブーシェ

 

 

 

壮大すぎる詐欺は、誰も気づかない。

 

彼女の一生を美人局と云ったならば、多くの信奉者に何と罵られることだろう。

 

 
'Odalisque', another painting by Bourcher

オダリスク・ブルー

 

彼女の父親は銀行員だった。

 

そして彼女は、弟を建築関係の要職に付けた。

 

このチームで作った建築物をあげればきりがない。

 

 

人気ブログランキングへ 快楽に奉仕するブーシェ  わが郷

この作品はブーシェ(François Boucher, 1703年9月29日 - 1770年5月30日)の作品で
1752年に14才のマリー=ルィーズ(Marie-Louise O'Murphy )をモデルにして描かれたものです。全裸でベッドの中で刺激的な、放埒なポーズを採っているのは、ある目的があったからでした。この絵は ルイ15 を誘惑するために、淫らな意図の下に描かれたのでした。彼女は靴製造会社役員の五番目の娘で、見事王の愛人となり子供までもうけています。この絵の溢れ出る妖しさは、描かれた目的が少女を王に見初めさせようとする、精一杯の企ての賜です。

美しき女社長の野口美佳女史は、いくつもの部屋を六本木に用意して何をなさりたかったのでしょう。押尾学容疑者の逮捕で彼女もたいそう有名になりました。株式会社ピーチ・ジョンも知名度はダントツになりました。これからこの会社の下着は一層妖しさが加わってどれだけ売れるのでしょう。快楽に奉仕するブーシェ  わが郷

 


 

 1721年パリの銀行家の娘として生まれる。 (was born on 29 December 1721 in Paris to François Poisson (1684-1754) and his wife Madeleine de La Motte (1699-1745) . )平民という身分ながらブルジョワ階級の娘として貴族の子女以上の教育を受けて育つ。成績は非常に優秀であった。1741年に徴税請負人のル・ノルマン・デティオールと結婚、タンサン夫人やジョフラン夫人の超一流サロンに出入りするようになり、ヴォルテールやフォントネルら一流の文化人と知り合い、1744年にはその美貌がルイ15世の目に留まった。彼女はポンパドゥール侯爵夫人の称号を与えられて夫と別居し、1745年9月14日正式に公妾として認められた。

フランス国王の公式の愛妾となったポンパドゥール夫人は、湯水のようにお金を使って、あちこちに邸宅を建てさせ(現大統領官邸エリゼ宮は彼女の邸宅のひとつ)、やがて政治に関心の薄いルイ15世に代わって権勢を振るうようになる。ポンパドゥール夫人に推されて1758年外務大臣となったリベラル派のショワズールは戦争大臣なども兼務し、およそ10年にわたって事実上の宰相となった。フランスの重農学派ケネーも彼女の主治医であった。ベッドの上でフランスの政治を牛耳った「影の実力者」といえる。ポンパドゥール夫人の有名な言葉は「私の時代が来た」。

 
ポンパドゥール夫人(モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール、1755年、ルーヴル美術館蔵)1756年には、オーストリアのマリア・テレジア女帝、ロシア帝国のエリザヴェータ女帝と通じ反プロイセン包囲網を結成した。これは「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる。特に宿敵オーストリアとの和解は外交革命と言われるほど画期的であり、和解のために後年マリー・アントワネットがフランス王室に嫁ぐこととなる。Wikipedia より一部、ご紹介 )

 


wikipedia   Abel-François Poisson の肖像

アベル=フランソワ・ポワソン・ド・ヴァンディエール (仏: Abel-François Poisson de Vandières, marquis de Marigny, 1727年[1] - 1781年)は、18世紀フランスで活動したブルジョワ階層出身の貴族。ポンパドゥール夫人の弟である。のちに父に贈られた領地を相続し、マリニー侯爵 (marquis de Marigny) となったが、後にメナール侯爵 (marquis de Menars) と称した。

アベル=フランソワはフランソワ・ポワソンとその妻ルイーズ=マドレーヌ・ド・ラ・モットの息子。姉にジャンヌ=アントワネット、のちのポンパドゥール夫人がいた。父が疑獄事件に関わってフランスを追放されてからはシャルル=フランソワ・ポール・ル・ノルマン・ド・トゥルネームの保護を受けた。彼らの家族同様の交際は父フランソワの帰国後も継続した。
 
姉と同様に、彼は豊かなブルジョアの息子として優れた教育を受けていた。姉がルイ15世の愛妾として国王の寵愛を受けるようになると、彼もその恩恵に預かり、トゥルネームが王室造営物総監に任じられるのと同時に、いずれ彼がトゥルネームの後継者としてその職を引き継ぐと決められた。また、彼は姉の夫シャルル=ギヨーム・ル・ノルマン・デティオールとも仲がよく、デティオールが姉と絶縁してからも交友関係は続き、姉の死後まで付き合いがあった。
 
1749年から2年間、彼は姉の後援を得てイタリア遊学 (いわゆるグランドツアー) に出た。この旅には建築家ジャック=ジェルマン・スフロー、銅版画家シャルル=ニコラ・コシャン、評論家アベ・ルブランらが同行した。これにより彼は、もともと備わっていた文化と芸術に対する教養をより深め、のちの業績に活かすこととなった。
 
1751年にトゥルネームが亡くなるとマリニーは王室造営物総監の役職を継いだ。これは国王の指示した建造物の建設実行を計画、監督するという職務であったが、彼が実際に建設進行を監督したもののなかには、姉が国王に建てさせた城館も多く含まれていた。トゥネームがその職にあった間に、その組織や経理について改善を行っており、彼は恵まれた状態で仕事を行うことができた。彼の手がけた案件のうち、姉のために建てられた城館のほとんどは革命時代に取り壊されてしまったが、現在でも複数のすぐれた建物が現存している。また彼は姉の様々な調度品や美術品の収集や制作依頼にも関わり、優れた手腕を発揮した。
 
マリニーは基本的に姉にとても従順だったが、二つのことでは姉の意見に逆らって自分の考えを通した。一つは、姉が彼を大臣の職に就けようとした際に、それを拒否したことである。ポンパドゥール夫人はその愛妾の座にあった後半期には政治全般にきわめて深く関わっており、信用できない今の大臣たちに代わって、身内であるマリニーを入閣させようとした。しかし彼は、自身に政治家としての力量がないことを自覚しており、自分が大臣になって失敗したら政敵に恰好の攻撃材料を与えることになり、また逆に成功しても彼らは巧みにそのことを姉から切り離してしまうだろうといって、彼女にとってメリットにはならないと、これを断った。
 
もう一つは、マリニーの結婚問題であった。ポンパドゥール夫人は弟に有力な家系の娘を娶らせることで、自分の家を貴族として栄えさせることを望んでいた。しかし弟は、結婚相手は自分で決めるといって、姉の提案した縁談をすべて拒否し、姉をしばしば怒らせた。
 
1764年、姉のポンパドゥール夫人が死去したとき、マリニーは国王に辞職願を出し、宮廷を去ろうとした。しかし国王は、マリニーに引き続きその職に留まるよう命じたため、結局1773年まで在職し続けた。
 
姉の死去により、彼は複数の城館と大量の工芸品、美術品、家具その他の遺産を相続した。ある程度の数の品々はその後、売却された。マリニーはポンパドゥール夫人が晩年に建てさせたメナールの城館に住み、のちにマリニー侯爵でなくメナール侯爵と称するようになった。1767年に彼は、自分で見つけた相手と結婚したが、結局この結婚はうまくいかず、別居に至った。
 
1781年にマリニーが死んだあと、財産はポワソン家の従兄弟に引き継がれたが、その際遺品の数々は売りに出されたため、最終的にポンパドゥール夫人のコレクションは散逸した。

 

ポンパドゥール夫人  【ヴェルサイユ宮殿】

芸術を庇護した愛妾 (1721年-1764年)


ポンパドゥール夫人はルイ15世の愛妾、友人そして助言者として国王が1764年に亡くなるまで側に付き添った。.縁故により宮廷に出入りするようになった彼女は、やがて国王の目に留まり、愛妾の地位を獲得した。 ルイ15世は彼女のために安らぎの場として小トリアノンを建設させた。


後にポンパドゥール侯爵夫人となるジャンヌ=アントワネット・ルノルマン・デトワル(旧姓ポワソン)は、1745年にヴェルサイユでルイ15世と出会った。ルイ=フェルディナン王太子の結婚式の大仮面舞踏会でのことであった。王は彼女に夢中になり、その同じ年、ヴェルサイユ宮殿の自分の居室の上の階に彼女を住まわせた。秘密の階段により、ルイ15世は人目を引かずに彼女の居室に赴くことができた。7月、王にポンパドゥールの領地を与えられた彼女はポンパドゥール侯爵夫人となり、1745年9月に宮廷で公式に人々に紹介された。しかし、貴族の出ではなく、銀行家の娘というブルジョワ階級出身であった彼女は、間もなく貴族たちの間で批判の対象となった。しかし彼女は、自分の弟であるマリニー侯爵を王用建築物監督官に任命させることに成功した。

1750年代になると、彼女は王の公妾ではなくなったものの、王への強い影響力はそのまま保持した。中央棟の1階に居室を移した彼女は、若い娘たちを宮廷に呼びよせ王に紹介し、また、新しい建築物を監督し、特に芸術愛好家としての役割を果たした。1756年にはセーブル焼き磁器工場を作るよう働きかけ、ルイ15世広場(現コンコルド広場)の整備を奨励し、弟のマリニー侯爵の支援を得て、王に小トリアノンの建設を承諾させた。トリュフを使ったスープ、チョコレート、シャンパンなどの食べ物を好んだポンパドゥール夫人は、精神的な糧も同様に好んだ人物であり、1751年にはディドロとダランベールの編纂した「百科全書」の最初の2巻の出版を促した。

その2年後の1752年、ルイ15世は彼女のパリでの滞在のために、エヴルー邸(現エリゼ宮)を買い与えた。その後、ポンパドゥール夫人は、彼女のムードンにあるベルヴュー城とパリとの間を行き来して過ごすようになった。しかし、1764年、42歳のポンパドゥール夫人はヴェルサイユにて、肺充血により亡くなった。王はこの「20年来の友人」の死を悼んだ
http://jp.chateauversailles.fr/jp/history/court-people/louis-xv-time/madame-de-pompadour

 

モーリス・カンタン・ドラトゥール 1704 ~ 1788

 

 

 

 

 

 

 

 

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