シュールリアリズム
芸術運動としてのシュルレアリスムのはじまりは、シュルレアリスム宣言が発せられた1924年であるが(なお、それ以前でも、アルフレート・クービン(Alfred Kubin)などシュルレアリスム的な作品は存在する)、その終わりには諸説ある。例えば、第二次世界大戦が終わった1945年までとする説、シュルレアリスム運動のリーダーであり「帝王」であったアンドレ・ブルトン (André Breton, 1896年-1966年)が他界した1966年までとする説があり、さらには、ブルトンの死以降も続いていたとする説もある。また、第二次世界大戦以降も続いていたという説の中には、大きく分けて、第二次世界大戦以前の運動に参加した者の戦後の活動のみをシュルレアリスムと認める説と、戦後に活動を開始した者も含める説の2つがある。後者の説については、いわゆる幻想絵画との境界線につき、さらにいろいろな説がある。
シュルレアリスムは、思想的にはジークムント・フロイトの精神分析の強い影響下に、視覚的にはジョルジョ・デ・キリコの形而上絵画作品の影響下にあり、個人の意識よりも、無意識や集団の意識、夢、偶然などを重視した。このことは、シュルレアリスムで取られるオートマティスム(自動筆記)やデペイズマン、コラージュなど偶然性を利用し主観を排除した技法や手法と、深い関係にあると考えられることが多い。
シュルレアリスムを先導したのは詩人である。アンドレ・ブルトンはもちろんのこと、ルイ・アラゴン、フィリップ・スーポー、ロベール・デスノス、ポール・エリュアール、ベンジャマン・ペレ、アントナン・アルトー、ルネ・シャール、ルネ・マグリット、ジャック・プレヴェール、レイモン・クノーなど一度はかじるものという時代の雰囲気だったといえる。
なお、ダダとシュルレアリスムの関係であるが、ダダに参加していた多くの作家がシュルレアリスムに移っているという事実からもうかがえるように、既成の秩序や常識等に対する反抗心という点においては、思想的に接続している。
日本におけるシュルレアリスムの詩人として有名な人物に瀧口修造がいる。瀧口は美術では池田龍雄、音楽では武満徹と親交をもっていたが、まだまだ日本のシュルレアリスムが語られる機会はすくない。
シュルレアリスムに属する主たる画家としては、マックス・エルンスト、 サルバドール・ダリ、ルネ・マグリット、イヴ・タンギー、ポール・デルヴォー、エドガー・エンデ などがいる。ダリはルイス・ブニュエルのシュルレアリスムの代表的映画で、二人が実際に見た夢をモチーフにした 『アンダルシアの犬』 (1928年)にも参加している。ピカソも後にシュルレアリスムに傾倒している。
ダダにも参加しているシュルレアリスム写真家・画家・オブジェ作家として、実験映画も作っているマン・レイ(Man Ray, 1890年-1976年)も挙げられる。画家でもある写真家のアンリ・カルティエ=ブレッソンもこの頃シュルレアリスムの影響を受けているとも言われる(後には構成主義の影響も見られる)。ドイツ出身のハンス・ベルメールも自身の手による球体関節人形を撮影した写真集を1934年に発表し、ブルトンらパリのシュルレアリストに高い評価を得た。
シュルレアリスム絵画には大きく二つの画風がある。
自動筆記やデペイズマン、コラージュなどを使い、自意識が介在できない状況下で絵画を描くことで、無意識の世界を表現しようとした画家たち。彼らの絵画は具象的な形態がなくさまざまな記号的イメージにあふれ、抽象画に近づいてゆくことになる。マックス・エルンスト、ジョアン・ミロ、アンドレ・マッソンら。
不条理な世界、事物のありえない組み合わせなどを写実的に描いた画家たち。夢や無意識下でしか起こりえない奇妙な世界が描かれたが、彼らの絵の中に出てくる人物や風景はあくまで具象的であった。サルバドール・ダリ、ルネ・マグリットら。
無意識を偶然性の強い手法で造形化するというエルンストらの実験的な手法は美術関係者に大きな影響を与え、後に抽象表現主義などに受け継がれた。一方、奇妙な世界を写実的に描くダリやマグリットらは、見るものに強い混乱を起こす内容と、対照的に親しみやすい写実的な画風から一躍人気作家となった。特にダリはアメリカで大人気を博し、後にかつてのシュルレアリスム関係者から『ドルの亡者』と非難されるに至った。
一般的にシュルレアリスムの中で知名度の高いものは後者であり、後に続くイラストレーターや広告美術によって多くの模倣が行われているほか、「シュール」という言葉の表すものの起源となっているとも考えられる。
ドイツにおいては、シュルレアリスムは、芸術都市ミュンヘンを中心に展開されたが、ナチスはこれを頽廃芸術として嫌い、弾圧を受けることになる。
プラド美術館では、シュルレアリスム絵画と抽象主義絵画のルーツをベラスケスやエル・グレコ、ゴヤなど、スペインの宮廷画家に求めている。ベラスケスはすでに17世紀に、背景を大胆に省略した肖像画を数多く残している。肖像画の背景は肖像人物の地位や経済力を表す重要なアイテムで、画家の嗜好で省略できるものではない。背景の省略は当時のスペイン人の気質による一種の表現主義的な描画だが、当時の人々にとっては十分に超現実的な視覚表現であった。左のベラスケスによる肖像画では床と壁の境界まで省略され、人物はあたかも宙に浮かぶがの如くである。(フランスでこのような表現が見られるのは、19世紀末から始まるジャポニスム以降である。)
右のゴヤの絵は「運命の三女神」という伝統的な神話のモチーフによっている[3]が、それと説明しないと分からないほど伝統的な絵画表現からかけ離れた絵となっている。ぽっかりと宙に浮かぶ、さして美しくもない人物群の表現は、それまでの神話絵画と一線を画し、確かにシュルレアリスム的なインスピレーションを与える。これが描かれた年代は19世紀初頭で、パリではロココや新古典主義の流行が続いており、印象派など影も形も無い時代である。
シュルレアリスムの巨匠ダリ、抽象主義のピカソ、ミロも共にスペイン出身であり、スペイン絵画におけるこれらのシュルレアリスムと抽象主義の系譜は、フランスを中心とした写実主義~印象派~抽象画とは異なる流れとして捉えることができる。
もう一つのシュルレアリスムの源流としてフランドル、ドイツを中心とした流れがある。16世紀のベルギーの画家ヒエロニムス・ボスは、カトリックの説く天国や地獄を具象的に描いた。農民をユーモラスに描いたことで知られるピーテル・ブリューゲルらブリューゲル一族も、神話や死後の世界を具象的に描いた。これらは当然シュルレアリスムではないが、現実には無い光景を具象的に強調して描き出す画風は、同じゲルマン系の画家であるマグリットやポール・デルヴォーに色濃く見ることができる。
19世紀後半になると、アカデミズムへの反発運動として、パリを中心に従来の作画技法や画面構成を刷新した印象派が起こるが、その一方で古典的技法を継承しつつも新しいモチーフに挑む象徴主義や新古典主義が生まれる。これらの画風がシュルレアリスムに影響したこと、あるいはシュルレアリスムそのもの、またあるいはその一部であったことは絵を見れば説明無用だろう。1924年のシュルレアリスム宣言は単にシュルレアリスム的表現の再発見をしたに過ぎない。写実主義から現代絵画の潮流の起点として印象派だけが強調されがちだが、シュルレアリスムの静かで力強い系譜を知れば、印象派が決してその中心ではないことが分かるだろう。
その他シュルレアリスムの画家 [編集]マックス・ワルター・スワンベルク
ポール・ナッシュ
ピエール・ロワ
ドロテア・タニング
レメディオス・バロ
マックス・ブカイユ
レオノール・フィニ
シュルレアリスム(フランス語: Surréalisme, シュレアリスム)は、芸術の形態、主張の一つ。日本語で超現実主義と訳されている。シュルレアリスムにおける「超現実」とは巖谷國士の自説によると「絶対的現実」「過剰なまでに現実」という意味とされている。[1][2]。シュルレアリスムの芸術家を「シュレアリスト(仏: surréaliste)」と呼ぶ。「シュルレエル(スュレール)」(仏: surréel; 超現実)と「イスム」(仏: -isme; 主義)からなる語であるが、日本においては和製英語流に「シュールリアリズム」(英語圏においてもスーパーリアリズム(Super realism)ではなく仏語に沿って発音している)、また日本語において省略して「シュール」と呼称する場合もある。
巖谷國士の意見によると、シュルレエルで一語であり、途中で切るべきものではないとされているが、「シュール」は事実上、日本国内においてシュルレアリスム自体を意味する場合が多く、国語辞典にも正式に記載されている。ブラックジョークの一種として扱われることもある。なお、テレビのコメントなどでよく用いられるシュールの応用については後述する。
巖谷國士の自説に沿うなら、(約束事などにとらわれた日常世界)に隣接した世界、またはその中に内包された世界で、現実から離れてしまった世界ではなく、夜の夢や見慣れた都市風景、むき出しの物事などの中から不意に感じられる「強度の強い現実」「上位の現実」と解釈され得る。コラージュや自動筆記といった偶然性の強い手法で作る作品などは一見非現実的だが、彼らは、主観や意識や理性が介在できない状態で偶然できたものや、そもそも意識の介在から解き放たれた夢の中からこそわれわれの普段気付かない現実=超現実が出現することを信じていた、と巖谷説では説明されている。
(wikipedia より抄出、画像を添付して、わたしの里にて編集をくわえた。)