わたしの里 美術館

とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

ダリ

2007-09-20 | 作家の記録

 

 

   


サルバドール・ダリ

Salvador Dalí、ダリ・デ・プブル侯爵 Marqués de Dalí de Púbol(es)

1904511日 - 1989123日  スペインの画家。
シュルレアリスムの代表的な作家として知られる。
フルネームはカタルーニャ語でサルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネク
(Salvador Domènec Felip Jacint Dalí i Domènech)。
「天才」と自称して憚らず、数々の奇行や逸話が知られている。


 

ダリは1904年5月11日、スペインのカタルーニャ地方フィゲーラスで、裕福な公証人の息子として生まれた。母親も富裕な商家出身だった。ダリには幼くして死んだ兄がいて、同じ「サルバドール」という名が付けられていた。このことは少年ダリに大きな心理的影響を与えた。

少年時代から絵画に興味を持ち、画家ラモン・ピショット(ピカソの友人でもあった)から才能を認められた。1922年、マドリードのサンフェルナンド美術学校に入学し、フェデリコ・ガルシーア・ロルカ(詩人)、ルイス・ブニュエル(映画監督)と知り合った。ブニュエルとは、1928年にシュルレアリスムの代表的映画『アンダルシアの犬』を共同制作した。

1925年、マドリードのダルマウ画廊で最初の個展を開いた。

1927年、パリに赴き、パブロ・ピカソ、トリスタン・ツァラ、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴン、アンドレ・ブルトンら、シュルレアリスムの中心人物たちと面識を得た。

1929年夏、ポール・エリュアールが妻とともにカダケスのダリを訪ねた。これが後にダリ夫人となるガラ・エリュアールとの出会いであった。ダリとガラは強く惹かれ合い、1934年に結婚した。

画学生時代には印象派やキュビスムなどの影響も受けていたダリだが、シュルレアリスムに自分の進む道を見出し、1929年に正式にシュルレアリスト・グループに参加した。ダリは1938年にグループから除名されたが、その理由は彼の「ファシスト的思想」が、アンドレ・ブルトンの逆鱗に触れたからであった。1939年にはブルトンはダリの作品が商業的になっていくのをからかって,Avida Dollars「ドルの亡者」というあだ名を彼にあたえた。(これはSalvador Dalíのアナグラムであり,音声的にはフランス語avide à dallars「ドルをむさぼる」と同音である)。しかし彼の人気は非常に高かったため、グループを除名されたあとも国際シュールレアリスム展などには必ず招待された。

ダリは自分の制作方法を「偏執狂的批判的方法(Paranoiac Critic)」と称し、写実的描法を用いながら、多重イメージなどを駆使して夢のような風景画を描いた。第二次世界大戦後はカトリックに帰依し、ガラを聖母に見立てた宗教画を連作した。ガラはダリのミューズであり、支配者であり、またマネージャーであった。

第二次世界大戦中は戦禍を避けてアメリカ合衆国に移住したが、1948年にスペインに帰国。ポルト・リガトに居を定めて制作活動を行った。

1982年にガラが死去すると、「自分の人生の舵を失った」と激しく落ち込み、ジローナのプボル城に引きこもった。1983年5月を最後に絵画制作をやめている。

1984年には寝室でおきた火事でひどいやけどを負い、フィゲラスに移った。

1989年にフィゲラスのダリ劇場美術館に隣接するガラテアの塔で、心不全により死去。85歳没。

ダリは、1936年に制作した『茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)』がスペイン内戦を予言したと称し、「完全なダリ的予言の例」として文字通り自画自賛している。ほかにも自己顕示的で奇妙な言動は多く、講演会で潜水服を着て登壇したはいいが、酸素供給が上手くいかずに死にかけたことがある(1936年、ロンドン)。象に乗って凱旋門を訪れたり、また「リーゼントヘア」と称してフランスパンを頭に括りつけて取材陣の前に登場するなど、マスコミに多くのネタを提供した。しかし、こうした人気取りとも思える一連の行為は同時代の画家達の顰蹙も買った。また政治的な意味での奇行には、パブロ・ピカソら同時代の芸術家たちからも大きな反感を買っていた(ピカソには『フランコの夢と嘘』などの作品がある)独裁者フランシスコ・フランコを公然と支持したことなどがある。

今日ではダリの上向きにピンとはねたカイゼル髭と目を大きく見開いた顔は、「アート」そのものとして認知されるほどの人気であり、スペインのシンクロナイズドスイミングチームが水着の柄に採用して競技会に出場したことがある。口ひげの形をどうやって維持しているのかと質問された際に「これは水あめで固めているのだよ」と答えたという。

 

     

 ダリはペットとして Babou という名前のオセロットを飼っていたことがある。彼は旅に出るときもよくこのオセロットを連れて行った。このオセロットといっしょに撮ったポートレイトが何枚か残っている。 ( オセロットとは、同じ地域に生息するジャガーネコやマーゲイと類似した外観をもつが、オセロットの体長は65-120 cm、尾の長さは 27–61 cm、体重9-16 kg とより大型である。体毛は短く、四肢は頑丈。黒い斑紋で縁取られたオレンジ色の斑紋(梅花紋)。種小名pardalisは「ヒョウ」の意。地色は灰白色や黄色、濃褐色など個体によってさまざまで、体前方から後方に向かって黒く縁取られた斑が並んでいる。虹彩は褐色。名前の由来は、ナワトル語の「ocelotl」 )

 

 

 実際にはダリは根っからの奇人というわけではなく、本当に親しい友人の前では非常に繊細で気の行き届いた常識人だったとされている。つまり彼のこうした「アート」は現実世界と対峙するための鎧のような物であり、顕示される自己が必ずしもダリ本人そのものではないことは重要である。

自伝『秘められた生涯』には、若い頃、鉛筆と紙を買いに出たのに魚屋に行ってしまったとか、地下鉄の乗り方・降り方を知らず、友人が先に降りていってしまったとき泣き出してしまったとか、作品を持って移動する際、作品を紐で体にくくりつけていたといったエピソードが書かれている。

絵画だけではなく彫刻やオブジェなど、さまざまな作品を残した。2004年はダリの生誕100年に当たり、世界各地で展覧会が開かれた。

ダリの描いたタロットカードが存在し、今も世界中で販売されている。

 

代表作


聖アントワーヌの誘惑【ダリ】 聖アントワーヌの誘惑 ダリ


1926年 パン籠
1929年 大自慰者(El gran masturbador)
1931年 記憶の固執(柔らかい時計)(La persistència de la memòria)
1930年 不可視のライオン、馬、眠る女
1933年 ミレーの≪晩鐘≫の古代学的回想
1936年 燃えるキリン
1936年 茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)
1936年 秋の人肉食
1937年 眠り(El somni)
1937年 ナルシスの変貌
1938年 果てしない謎 (L'enigme sense fi)
1944年 目覚めの直前、柘榴のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢
1945年 パン籠(恥辱よりは死を!)
1947年 ビキニの3つのスフィンクス
1950年 ポルト・リガトの聖母
1964年 蝶と葡萄の風景
1965年 "ポップ、オップ、月並派、大いに結構"と題する作品の上に、反重力状態でいるダリを眺めるガラ、その画面には冬眠の隔世遺伝の状態にあるミレーの晩鐘の悩ましげな二人の人物が認められ、前方にひろがる空は、全宇宙の集中するペルピニャン駅のまさに中心で、突如としてマルトの巨大な十字架に変形するはずである
1969年 チュッパチャプス(商品デザイン)
1972年 ラ・トワール・ダリグラム(ファッションや革製品のデザイン画)(
1980年 宇宙象(彫刻)
1984年 時間のプロフィール(彫刻)
( wikipedia より抄出して画像を添付、若干の編集をくわえた。 )

 

crucifixion 1953–54

 

 

 

 

 

わたしの里 美術館 シュールリアリズム スペインの画家
 
わたしの里 美術館    わが郷 HOME 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。