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マグリット Magritte

2007-06-29 | 作家の記録

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マグリット Magritte【作家の記録】 マグリット Magritte ベルギーの作家
 Le Chateau des Pyrenees

 

 

マグリッ  Magritte

ルネ・フランソワ・ギスラン・マグリット (René François Ghislain Magritte,
 18981121日 -1967815日) は ベルギー のシュルレアリスムの画家


Magritte was born in Lessines, in the province of Hainaut, in 1898, the eldest son of Léopold Magritte, who was a tailor and textile merchant, and Régina (née Bertinchamps), a milliner until her marriage 

 Lessines

マグリットは、20世紀美術のもっとも重要な運動の一つであるシュルレアリスムを代表する画家である。マグリットの作品においては事物の形象はきわめて明確に表現され、筆触をほとんど残さない古典的ともいえる描法で丁寧な仕上げがほどこされている。しかし、その画面に表現されているのは、空中に浮かぶ岩、鳥の形に切り抜かれた空、指の生えた靴といった不可思議なイメージであり、それらの絵に付けられた不可思議な題名ともども、絵の前に立つ者を戸惑わせ、考え込ませずにはいられない。

マグリットの絵画は、画家自身の言葉によれば、「目に見える思考」であり、世界が本来持っている神秘(不思議)を描かれたイメージとして提示したものである(デペイズマン)。この点は、夢や無意識の世界を描き出そうとした他のシュルレアリスムとは異なっている。

「言葉とイメージ」の問題を追求したマグリットの作品は、(ミシェル・フーコー)のような思想家にも発想源を与え、広告やグラフィックアートの分野にもその影響が見られるなど、20世紀の文化に与えた影響は大きい。日本においても1971年の回顧展をはじめとしていままで5回開催され、宇都宮美術館、横浜美術館、豊田市美術館などに作品が収蔵されている。 ( Wikipedia )

 

 

 

 

                        
                           Le château de Quéribus

 

  空中に浮かぶ城

 そのリアルなイメージは、このように峻険な尾根に、打ち付けられた古城のこと。マグリットの 『 ピレネーの城 』 を始めて見たのは、中学生の頃だった。もちろん作品の現物のではない。ポスターであり、それは印刷物であった。それがこの年にもなれば、彼の作品 『 大家族 』 などは、そのものが日本国内の美術館で見ることが可能なった。


 絵を説明的に見る。

 その画像の中に秘められた、「 寓意 」 を読み解く。絵画評論家がよくやる、画論の手法ではある。しかし是、その絵のことを語っているのではなく、その絵に言寄せて、論者の内的世界を吐露している場合が多い。それは其れで由とする。ならば私が中学生の時、見た絵を、その心象を描いてみる。


 まさに日本の精神状況が、そこにあると感じた。

 日本のとは大げさで、実際は自分のおぼつかない、「 精神 」 いやそれほど硬いものではなく、精神のようなものが、この絵には投射されていた。そのように思えたのだ。その後高校生になって、サルトルとかも読むのだが。今になって思えば、あの絵はやはり、当時の精神状況を端的に、鋭く表現していた。そして、其れは今も同じこと。人間の主体性は、「 無の投射 」 だとサルトルは云う。欠落の発見。たとえば其れを、われらの 2~3年先輩が、絶対的平和、つまり反戦の闘いを行っていた。日本の若者たちは、無の中に日本国の虚偽を観ていた。日本は足を失って虚空にただよっている。


 戦後民主主義は、虚空の中のいつわりの空。

 

 

 

 

生涯
マグリットは1898年、ベルギー西部のレシーヌに生まれた。一家はマグリットの生まれた翌年にはジリという町に移り、1904年シャルルロワ近郊のシャトレに移る。マグリットは1913年の一時期シャルルロワに住んだこともあるが、1904年から1916年まで、少年時代の大部分をシャトレで過ごした。1912年に母が原因不明の入水自殺をとげるという事件があり、これは少年マグリットにとっては当然のことながら大きな衝撃を与えた。

1916年ブリュッセルの美術学校に入学。1910年代後半から1920年代前半はマグリットが画家として自分の様式を模索していた時期である。この時期にキュビスム、未来派、ダダ、デ・ステイルなどの運動を知り、また、ピエール・ブルジョワ(詩人)、E.L.T.メセンス(詩人、画家、音楽家)らの前衛的な芸術家と交際するようになった。マグリットは生活費を得るためにグラフィックデザインや広告ポスターなどの仕事をしつつ、抽象画や、キュビスムの影響を感じさせる作品を描いていた。1922年には幼なじみのジョルジェット・ベルジェと結婚。彼女は多くのマグリット作品に登場する女性像のモデルとなる。1923年(1925年とする説もある)ジョルジョ・デ・キリコの作品『愛の歌』の複製を見たマグリットは「涙を抑えることができない」ほどの感銘を受け、これがきっかけでシュルレアリスムの方向へ進む。

 

Le jockey perdu- 1926 Collage


ブリュッセルのマグリット美術館1926年の 『 迷える騎手 』 が最初のシュルレアリスム的作品とされている。1927年、ブリュッセルのル・サントール画廊で初個展を行う。以後3年間パリに滞在し、フランスのシュルレアリストたちと交流する。しかし、マグリットはシュルレアリスム運動の理論的指導者であったアンドレ・ブルトンとはうまが合わなかったらしく、1930年ブリュッセルへ戻り、以降ベルギーを離れることはほとんどなかった。

 

 

マグリットの生涯は、波乱や奇行とは無縁の平凡なものであった。ブリュッセルでは客間、寝室、食堂、台所からなる、日本式に言えば3LDKのつつましいアパートに暮らし、幼なじみの妻と生涯連れ添い、ポメラニアン犬を飼い、待ち合わせの時間には遅れずに現われ、夜10時には就寝するという、どこまでも典型的な小市民であった。残されているマグリットの写真は、常にスーツにネクタイ姿で、実際にこの服装で絵を描いていたといい、「平凡な小市民」を意識して演じていたふしもある。彼は専用のアトリエは持たず、台所の片隅にイーゼルを立てて制作していたが、制作は手際がよく、服を汚したり床に絵具をこぼしたりすることは決してなかったという。 (Wikipedia より抄出のあと編集して画像添付 )


Lost Jockey- 1948 gouache on paper
 25 1/2 x 19 7/8 in. (64.8 x 50.5 cm.)

 

Quand l'heure sonnera【マグリット】  Quand l'heure sonnera (When the Hour Strikes) 1964-65

 

 

  はて ? 、林檎のリアリズムが……。スーツの質感も

 

 


 大家族 (宇都宮市美術館)

 

 

 

2012 03 30 極めて強力な磁力線によって 【わが郷

 

 

 

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