私の生き方に就いて(追記)
今逸りの「保守」と云ふ言葉にせよ、昨日取上げた「自由(主義)」や「個人(主義)」と云ふ言葉にしても、その言葉を用ゐる人によつて、その意味する處は區々である。それゆゑ、昨日は私の自由(主義)や個人(主義)と云ふ事を書いた。
そして、私に關しては、「良心に基く自由」と云ふ事が大事な訣だが、何ゆゑ、文學をやるのかと云へば、自らの人格を陶冶する爲である。その爲、松原正氏の云ふ「人の上の人」に近附かうと努めてゐる。そしてその「人の上の人」の具體的な在り方としては、近代日本以降の「二本足の學者」を理想としてゐる。
と、かう云へば、學問をとほして人格形成に努力する教養主義を貴方は奉じてゐるのですかと云はれさうだが、さうとばかりも云へない。成程、名著や古典をとほして、偉人賢人に學ぶと云ふ事も大事だし、それも大事な人との附合ひではあるものゝ、私はそれだけでは不充分だと考へる。それのみならず、矢張り、實際の社會に於て、人々と關はる事も大事と考へる。無論、私も含めて「多數は愚」であるから、中々、これと云ふ人物には出會へないのが現實である。それゆゑ、限られた人生、有意義に過ごさうと思へば、名著古典に當るのが最も効率が良い訣だが、實際に糊口を凌ぐに當つて、その日々からも何かを學ばうと努めるのが、誠實と云ふ事だと私は考へる。
御會ひした事はないけれども、實際、福田恆存や松原正氏と云ふやうな人達も、學問のみにとゞまらず、日々の暮しに於て、そのやうな事をして來たのではないかと思ふ。眞の教養とは、生活と智識とを有機的に結び附ける過去の慣習や常識に相違無い。
今逸りの「保守」と云ふ言葉にせよ、昨日取上げた「自由(主義)」や「個人(主義)」と云ふ言葉にしても、その言葉を用ゐる人によつて、その意味する處は區々である。それゆゑ、昨日は私の自由(主義)や個人(主義)と云ふ事を書いた。
そして、私に關しては、「良心に基く自由」と云ふ事が大事な訣だが、何ゆゑ、文學をやるのかと云へば、自らの人格を陶冶する爲である。その爲、松原正氏の云ふ「人の上の人」に近附かうと努めてゐる。そしてその「人の上の人」の具體的な在り方としては、近代日本以降の「二本足の學者」を理想としてゐる。
と、かう云へば、學問をとほして人格形成に努力する教養主義を貴方は奉じてゐるのですかと云はれさうだが、さうとばかりも云へない。成程、名著や古典をとほして、偉人賢人に學ぶと云ふ事も大事だし、それも大事な人との附合ひではあるものゝ、私はそれだけでは不充分だと考へる。それのみならず、矢張り、實際の社會に於て、人々と關はる事も大事と考へる。無論、私も含めて「多數は愚」であるから、中々、これと云ふ人物には出會へないのが現實である。それゆゑ、限られた人生、有意義に過ごさうと思へば、名著古典に當るのが最も効率が良い訣だが、實際に糊口を凌ぐに當つて、その日々からも何かを學ばうと努めるのが、誠實と云ふ事だと私は考へる。
御會ひした事はないけれども、實際、福田恆存や松原正氏と云ふやうな人達も、學問のみにとゞまらず、日々の暮しに於て、そのやうな事をして來たのではないかと思ふ。眞の教養とは、生活と智識とを有機的に結び附ける過去の慣習や常識に相違無い。