二本足の學者を目指して

賢を見ては齊しからん事を思ふ

平成三十一年三月三十日(土)白神社(廣島市中區中町)の櫻

2019-03-30 13:03:01 | この世を概觀する
白神社(廣島市中區中町)の櫻

けふのお晝に見た白神社の櫻。まだ滿開とも八分咲きとも行かないやうだ。



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平成三十一年三月三十日(土)無私の精神(追記)

2019-03-30 09:03:52 | 文學、精神、そして魂
無私の精神

先日の續きとして、少し書かうと思ふ。

日本では、政治を擔當するのは、勿論政治家で、政治家のトップは内閣總理大臣である。

それでは、道徳を司るのは誰かと云へば、祭祀の長で、日本と云ふ國家の家長であらせられる天皇陛下が倫理の儀表で、道徳的お手本である。皇族の方々も、陛下と同樣、道徳のお手本として、國民の我々を導く必要がある。

皇族の方々が自由に一個人として生きると云ふのは、それでは國民と何らかはらない。

勿論、天皇陛下や御皇室については、血統が大事である。然し、それさへ守られれば、何をしてもいいと云ふわけではない。天皇陛下は、贔屓にしてゐる關取の名前さへ公言してはならないとは有名な話だが、天皇陛下や御皇室の方々には、無私の精神が求められる。

そして無私の精神とは、小林秀雄の生き方(=評論)をとほしても分るやうに、我々日本人の傳統的精神なのである。

追記。ネットでは、詳述はしないが、讓位を退位とする事で、皇統に空位が生ずると憂へてゐる人達がゐる。が、そのやうな制度(政治)の問題よりも、生き方の問題のはうが遙かに深刻だと私は思ふ。
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