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おばさんになった帰国子女

帰国して30年になる一昔前の帰国子女です。
もうすっかりおばさんになりました

なわとび

2009年11月05日 | アメリカの学校
昨夜「クイズ!ヘキサゴンⅡ」を見ていて思いだしました。


アメリカの中学の体育の授業でなわとびがあったこと。

後にも先にもその1回きりだったのですが…


いつものようにこの記事の下の方にある妙な体操服を着て 体育館へ。


と 一人一人に縄が渡されました。

普通の縄です。

何をするかと思ったら なわとび。

別に何か先生から指示があるわけではなく
ただただ皆 思い思いの飛び方で飛ぶだけ。


しかし、おもりも何もない普通の縄でのなわとびは
やりにくいったら ありゃしない。

も~ やりにくいなあ、と 前飛び、後ろ飛び、交差飛び
とかいろいろやって 2重飛びをしていたら
周りにいた友人が

すご~い!!」と騒ぐのです。


  何が すごい??


どうも連続2重飛びがすごいらしい。





それって日本の中学生なら ほぼ誰でもできること。

だって、小学生の間に猛特訓されますよね。
2重飛びくらい常識だ!! って言わんばかりに。


どうもアメリカの学校では なわとびって重要視されてないみたい。



こういうところにも教育方針の違いが表れるんですね。



そういえば、このなわとびも1回しかしなかったけど
アーチェリーもこの1回きり

1回だけでもやればOKなのかな?

日本なら最低でも2,3回はして ある程度技術を修得させますよね。

それとも教育基準で 何を何回 って決まってないのかなあ?


これらの1回だけの競技以外に授業でしたのは
サッカー、タッチフットボール。
水泳もありました。

学校に室内プールがあるのです。

でも、水泳は泳げるようになるためではなく
水に落ちた時に 死なないためのもの。

だから 仰向けで出来るだけ長く浮いている
のを修得する授業でした。
(私、これで腰痛めました


サッカーは普通のサッカーです。


タッチフットボールとは アメフトなんですが
体当たりとかすると怪我するので
その代わりに ボールを持って走っていて 
タッチされたらボールを取られた ということになるもの。


でも、サッカーもタッチフットボールも 
それをするグランドは芝生敷きのデコボコだらけの運動場。

私、思いっきり捻挫しました


怪我してばかりの体育の授業でした


非難訓練 in U.S.A.

2009年03月06日 | アメリカの学校
アメリカの中学に通っていた時のこと。

友達から今日は非難訓練(多分そう言ったと…)がある と聞き
『そういえば アメリカに来てから2年以上経つけど
 一度もそういうのなかったなあ。日本なら毎年あるのに』
と思いました。


さて、サイレンがなって非難訓練開始!!

何をどうするのか と思ったら

生徒は皆 それぞれのロッカー
(荷物や上着を入れるのに一人に一つあります)の前に行き
そこで 三角座り(体育座り)をして 足の間に頭を入れ
じっとしているのです。

??? 非難しなくていいの?
これじゃあ 焼け死んじゃうよ~

とりあえず皆と同じようにしましたが 意味不明です。


後で友達に聞いたら 非難訓練は非難訓練でも
竜巻 の非難訓練でした

どうりで校舎から外にでないわけだ。



でも、3年間アメリカにいましたが
竜巻の非難訓練はこの1回だけ。
火事の非難訓練は1回もありませんでした。

日本なら幼稚園~高校まで 毎年ありますよね。

この違いはなに??




国旗に忠誠を誓う

2009年03月03日 | アメリカの学校
アメリカの小、中学校に通っていた頃

毎朝 授業が始まる前に放送が流れ
教室で生徒全員で国旗に忠誠を誓ってました。

右手が左肩前にくるように斜めにして胸にあて
(宇宙戦艦ヤマトの乗組員が艦長にする敬礼と一緒)
皆で放送に合わせて暗唱。


I pledge allegiance to the flag of the United States of America
うんたらかんたら

もちろん渡米してすぐは みんなが何を言ってるのか
全く聞き取れなかったので 口をモゴモゴ動かして言ってるふり。

そのうち 少しずつ聞き取れるようにはなったけど まだまだ。

みんな 正確にはな~んて言ってるのかなあ。 と思っていたら

発見

学校で使うハサミやクレヨンを入れておくスクールボックス
(日本でいうお道具箱ですね)のフタの裏側に全文が!!

それからは 毎朝その箱のふた裏が見えるように開けておいて
それを見て一語一語確認しながら みんなに合わせる。

すぐ、全て暗唱できるようになりました。


全文は 

I pledge allegiance to the flag of the United States of America
and to the Republic for which it stands, one Nation under God,
indivisible, with liberty and justice for all.

「私はアメリカ合衆国の国旗と、その国旗が象徴する共和国、
 神のもとに統一され全ての人々に自由と正義が約束された
 この国に忠誠を誓います」

ま、もちろん意味なんてどうでもよかったのです。

毎朝言わなくてはならないんだから 言えないと困っただけで…

でも、よく考えると すごいこと言ってたんですね。


あれから30年近く経った今でも
私、この忠誠を誓う文を全て暗唱できます。
記憶にしみこんでるようです。

なんの自慢にもなりませんが

でも、アメリカ国歌は歌えないんです
国歌を歌うことは ほとんどなかったので
覚える必要がなくて…




ハイスクール・ミュージカル

2009年02月05日 | アメリカの学校
今、テレビでよくCMを見るのが 映画 「ハイスクール・ミュージカル」

ストーリーはよくわからないけど
そういえば 私が通っていたアメリカの高校(Maine South High School) でも
生徒出演のミュージカルがありました。

演目は 「南太平洋(South Pacific)」

高校のホールであったのですが

出演者はみな同じ高校の生徒だったけど
とても学生とは思えない演技と歌声でした。

セットもすごく本格的で やっぱりやることが違う! と思いました。

毎年同じ演目だったかは 残念ながら1年しか通ってないので不明です。

イヤーブック

2008年08月28日 | アメリカの学校
スタジャンは持てなかった私ですが
イヤーブック(Year Book) は持ってます。

私が通っていた高校は
日本のように 卒業時に卒業アルバムを作るのではなく
毎年 全ての学年、部活や様々な活動、先生方の写真をいれた
イヤーブック というものを発行していました。

体裁はかなり良く、日本の卒業アルバムと同じようなものです。

ただ、一つ違うのは 全学年が載っていること。

ということで、私が持っているイヤーブックには
高校1年生だった私も載っているのです

この記事を書くのに 久しぶりに見てみましたが
懐かしいです。

バレーボール部に ちゃんと私も写ってます!

もちろん ホームルーム写真(日本でいうクラス写真)にも!


そうそう
このイヤーブックを見て思い出しました。

私が通った中学、高校の体操服は 奇妙なものでした。

半袖、半ズボンなんですが
上下がつながっているんです

こんな風に…

  イヤーブックから写しました

  
しかも、このツナギの体操服
高校のスクールカラーが赤だったので上下真っ赤

なかなか すごいでしょ。

でも、みんなで着れば怖くない ってね

上下つながっているので 
どんなに動いてもお腹が出なくてよかったけど
トイレがねえ

つながっているから 全て脱ぐことになるんです



アメリカの高校の違い

2008年08月26日 | アメリカの学校
以前の記事にも書いた通り、アメリカの高校は4年間ありました。

2年間だった 中学校では
各学年は 9年生 と10年生 と呼ばれていましたが
高校は全く違う名前で呼ばれていました。

1年生は フレッシュマン(Freshmen)

2年生は ソフモア(Sophomore)

3年生は ジュニア(Juniors)

そして

4年生は シニア(Seniors)   でした。


入学当初はこの呼び名がわからず 苦労しました。

実は、各ホームルームには 全ての学年が入っていました。

なので、各学年の生徒に用事があると その学年だけ呼ばれるのですが
その時の呼び名が 上記のものになるのです。

全くそういう呼び名を知らなかった私は
フレッシュマンが呼ばれても ボー っと座っていることもあり
もしかすると いくつかの用事を飛ばしていたのかもしれません


それって 知ってて当然 なんでしょうね。

だって、誰も「高校に入ったら そう呼ばれるのよ」
とは教えてくれませんでしたから

関西の大学では 1回生、2回生、3回生、4回生 と呼ぶのと同じ?

でも、数字もなにも入っていない呼び方が分かるわけないですよね。



また

その学年ごとに年度での呼び名がありました。

でも、入学した年ではなく 卒業予定の年!

1980年に入学した私の学年は 1984年に卒業する予定だから

84年のクラス(Class of '84) と呼ばれていました。

卒業予定年度というのが面白いですよね。

部活のチームのスタジャン(スタジアムジャンバーと呼ばれる上着)には
各学年この数字が入るのです。

でも、この上着。
作れるのはなぜか2年生から。
なので、1年生しかいなかった私は持っていません
欲しかったなあ~

 

日本人補習校 いろいろ

2008年08月25日 | アメリカの学校
アメリカに渡って日本人補習校に入学してすぐのことです。

授業中に皆で何かを決めることになり私が書記をすることになりました。
黒板に皆の意見を書くのですが ちょっと漢字が分からず先生に聞いたところ
「●○の●」と説明されました。
(内容が思い出せないのですが、例えば「技術の技」みたいに)

そう言われて「あ、そうか」とすぐ漢字を思い出した私に
クラスのほかのみんなから「すご~い!!」と驚きの声。
その反応に私のほうがビックリしましたが
1年もすると 私もみんなと同じになりました

漢字って使わないと忘れます



日本人補習校がスコーキーに移って全日校ができたのですが
その後聞いた話。

全日校は補習校と違い 先生は
日本から正式に派遣されてきた先生方ばかり。
もちろん その中には英語の先生もおられました。

ところが、できたばかりの全日校の生徒たちは 
今まで現地校で英語を日常的に使っていた子供たちばかり。
もちろん みんな英語がペラペラです。

ということで、英語の先生がことごとくノイローゼになって
帰国されたとか… 

帰国されるほどだったかどうか 真偽のほどはわかりませんが
日本でしか英語を勉強しておられなかった英語の先生が
困られたのは事実のようです。



日本人学校は毎週土曜日にありました。
その日は通学時間を入れると朝から夕方遅くまで他には何もできませんでした。
(通学は近くの何人かが集まって、その親が交代で車で送迎していました)

でも、現地の学校はお休み。
だから 友達から遊びのお誘いが入るのです
現地の友達には理解できない日本人学校を理由に
いつも泣く泣くお誘いを断っていました。

日本人学校を休んだのはアメリカにいた3年半で1回だけ。
それは帰国間際にあった父の会社のバーベキューパーティーのためでした。
今まで参加したことがなかったので最後に参加しよう ということで。

日本人学校 3

2008年08月20日 | アメリカの学校
日本人学校2 の続きです。


社会を教えてもらっていた小谷先生は
私が中3の秋に突然来られなくなりました。
噂では体を壊して入院されたとか…
(私に関わる先生はよく入院されるようで

もちろん現地校と同様に代わりの先生が来られたのですが
なかなか専任の先生が見つからなかったようで
毎週違う先生が来られました。

当時、私たち中3は日本史の勉強をしていたのですが
新しく来られた先生に
「今、どの辺やってる?」と聞かれるたびに
悪い子だった私たちは「大化の改新!」と答えていたので
授業は大化の改新より先にはほとんど進まないまま
中3が終わったのでした

そのせいで日本の高校で日本史をやった時は
大化の改新以降はチンプンカンプン
ちゃんと勉強しないとダメですね。


でも、日本人学校は日本語を勉強する場ということもあり
皆、授業より日本人の友達と日本語で話しをすることに夢中で
話が盛り上がると授業中、先生を無視して話し続けることもありました
先生、ごめんなさい。


中1で入学した時には2クラスあった私の学年も
年をおうごとに少なくなり、中3になる時には1クラスに。
それも10人以下でした。

でも、楽しかったです。

昼休みにバレーボールをしたり、トランプしたり
日本語で思いっきり話しました。
ま、皆、結構英語交じりでしたが。

そうそう、バレーボールといえば…

ある昼休みに男子の一人と私でバレーボールをしよう!
ということになったのですが、肝心のバレーボールが見当たりません。
それでも どうしてもバレーボールがしたかった私たちは
仕方なく目に付いたバスケットボールでバレーボールをしたのですが…

やっている間はなんとかなりましたが問題はそのあと。
手がしびれて午後の授業はノートをとることもできませんでした

バスケットボールでバレーボールしてはいけませんね。



当時同じクラスだったみんなも もういいおじさんとおばさん。
みんな、どうしているのでしょう?

帰国してから聞いた噂では 
私が一緒にバスケットボールでバレーボールした男子は
お父さんの帰国が決まって帰国したくないと家出したとか… 
彼はその後どうしたのか。

今でも交流のあるのは(といっても年賀状くらい)2人だけ。
他のみんなはどうしてるのかなあ。

日本人学校 2

2008年08月11日 | アメリカの学校
毎日 脳みそが溶けそうなくらい暑いので、現実逃避して過去の話を続けます。


この記事は こちら のつづきです。

日本人学校は幼稚園年長さんから高校3年生までのクラスがあります。
私がいた頃は やはり、上の学年になるにつれ人数が少なくなっていました。
子供が大きくなるとどうしても将来の進学を考えてしまいますから
あまり大きい子を伴って渡米される方はおられませんでした。


さてさて、私が入った中学1年生は2クラスありました。
でも、1クラス15人くらいだったでしょうか。
その年 新たに中1に入ったのは私だけでした。

授業は土曜日の朝から 1日5時間授業。
教科は数学、国語、社会の3教科のみ。
数学2時間、国語2時間、社会1時間でした。

海外子女教育振興財団からもらえる教科書にそって
授業は日本と同じように行われました。
が、週1回しかないので 細部まで細かく教えてる時間はなく
かなりはしょった授業だったと思います。

補習校ということで教えてくれる先生は
日本から派遣された正規の先生は少なく
ほとんど現地の大学に留学されている学生さんや
ご主人の転勤で渡米された主婦の方でした。
それらの方は皆、ワーキングビザを持っておられたと思います。
でも、教員免許は必要なかったようです。

しかし、学生さんとはいえ、皆さん 一度日本の大学を卒業してから
留学されていたので、そう若くはありませんでした。
それに、留学されている学生さんなので 
期間を終えて帰国となると先生が変わります。

何人かの先生に教えてもらいましたが
最後の2年くらいは同じ3人の先生に教えてもらいました。

数学は主婦の荒木先生。
国語は留学生の落合先生(男性)。
そして、社会は留学生の小谷先生(男性)。

荒木先生と落合先生は私が帰国してからも
クリスマスカードのやりとりをしていましたが

荒木先生は残念ながら10年ほど前に突然心臓発作で亡くなられました。
ご主人から訃報を聞いた時は本当にショックでした。
まだ、そんなお年ではなかったはずです。
とても厳しいけど良い先生でした。

落合先生は今もクリスマスカードを送っています。
かわいい娘さんのお話など聞かせていただけるのを楽しみにしています。
あ、先生はまだアメリカにおられますが もう学生ではないはず。
そういえば、どんな仕事をされているのか聞いたことないですね

日本人学校よく見ると & メイン・サウス高校

2008年08月08日 | アメリカの学校
前回の記事の中で紹介したシカゴ双葉会日本語学校補習校 ホームページ

この中の「双葉会40年のあゆみ」の「校舎のあゆみ」をよく見ると
スコーキに移転したのは1978年となっています。

あれ?

1966年早生まれの私が渡米したのは小学校を卒業した年1978年。

ということは、私が日本人学校に入学した年に移転したの?



 人の記憶っていい加減。

在米最後の1年だったような気がしてたんだけどなあ。



というように、いろんなところで記憶違いがあるかもしれませんが
ご勘弁ください





と こ ろ で

なにげなくネットでMaine Southと検索したら
ありました!

私が通ったメイン・サウス高校のホームページ!!

それはこちら

そうそう、この鷹(Hawk)のマークがシンボルなんです。

え? 
Maine Township High School South なんて正式名称はどこにもないって?

それがですね、このホームページ右上のQUICK LINKSの
District 207 (207学区という意味です)をクリックしてみてください。
この207学区のホームページトップにある名前
Maine Township High School というのが正式名称なのです。

メイン・サウス高校は207学区に入っていて
207学区には3つの高校があります。
メイン・イースト、メイン・ウエスト、そしてメイン・サウス。
で、それぞれ 正式名称が
Maine Township High School East
Maine Township High School West
Maine Township High School South  となるのです。

各高校のホームページものぞいて見てください。
それぞれにシンボルマークが違って面白いです。