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試写で見た映画(5)『選挙2』

2013-05-16 02:12:27 | 日記


見た当日の夜中に書くため、やや駆け足で。


『選挙2』
2013 日本=アメリカ 監督 想田和弘

6月よりシアターイメージフォーラムほかロードショー
配給・宣伝 東風
http://senkyo2.com/


ほぼ1ヶ月振りに、ドキュメンタリー映画を見た。プチ復帰作が、これで良かった。はじめて、想田和弘作品と噛みあうことができたので。
『選挙2』はいいよー、と言えるのがうれしい。

ただし前段として言うと、僕はこれまでの監督作5本のうち、2本しか見ていない。

『選挙』 未見。
「生態観察的おもしろさなんですよねー」と酒席で喜んで語る奴のことがなんか急にカンにさわってしまい、「人間はなー、付き合ったり撫でたり触ったり悪口を言ったり言われたりフラれたりフラれたりするもんだけど、観察だけはしちゃいかん。観察というのはついつい、してしまう哀しい行為なんだ」と依怙地な持論を張ったばっかりに見なかったまま現在に至る。

『精神』 見た。
まず、つめたい、という印象を持った。そこに、「観察映画」をまるで無印良品のように讃える声の多さへの反発が重なり(こんなに編集の整理と誘導が巧いもののどこがナチュラルなんだよ)、映芸ダイアリーズ時代にワーストに推した。
あとで『歓待』の監督・深田晃司が「若木さんの『精神』批判には予断が混ざっているのでは」といった意味合いの疑義を書いており、それを読んで、ウーン、図星かも、と思った。

『Peace』 見た。
ネコばっかり撮ってもしょうがないだろ、いかにも過渡期という風情だなあと、こっちのほうがクールな気持ちで見た。でもイヤな気持ちにはならなかった。子どもが歩道で転んで泣き出し、通り過ぎた(フレームアウトした)おばさんが心配してもどってくる。こういう「観察」はいいなあ、と快かった。

『演劇1』『演劇2』
どちらも未見。
スナオに見たかったけれど、タイミングが合わないままだった。ただ、ちょっとした予定なんかズラしてでも……というだけのモチベーションは高まらなかったのは事実。


で、見てよかった『選挙2』。
『選挙』のDVDをお借りしたので、本来ならちゃんとそっちを見てから丁寧に書かねばならないところだが。なんか、以上に書いたように、見てないことも含めて今の自分でスミマセン、と晒したい気持ちが(特に個人ブログだと)起きてしまい、前作にあたるものを見ないでこのまま書き通してみる。
(なもので、文章はコラムの延長です。クリティックとしての信頼度・強度は全く保障できません)


2011年の春、市議会選挙に無所属で立候補した「山さん」こと山内和彦氏の、投票日前日までの数日間である。

見ているうちに、山さんは再出馬であることが分かってくる。以前は与党の公認で当選したらしい。でもって、途中で関係は解消されたらしい。山さんが費用をかけない、選挙カーにも乗らないと「反ドブ板」にこだわるのには前回の経験が(少なからずネガティヴな作用で)影響しているらしい。想田の撮影を硬く拒む与党公認の候補が出てくるが、前回はそんなことは無かったらしい。山さんが完全フリーで再出馬したこととその豹変には、因果関係はあるらしい。

この「らしい」の気配付けがとても(さすがな編集の腕で)周到なため、『選挙2』からが初見なひとでも、ぜんぜんオッケー。
むしろ、他人のうわさ話から昔の事情を推量するような隠微なたのしさを享受できるようになっている。どうも、DVDをすぐに見る気にならないのにはそれもあるようだ。せっかく今、『選挙2』から発展している僕の妄想のなかの『選挙』は、モノスゴイことになっているので。
だから、実物の『選挙』を見ている人からすれば、この周到さがややまだるっこしくて、尺が長く感じられる原因になっているようだ。

そういうわけで、僕の『選挙2』に対する好感には一部、〈パート1を見てないから余計に面白い〉という、フィクションではなかなか難しいベクトルの付加価値のおかげもある。ドキュメンタリーではそういうことが起こり得るんだね。これは期せずして発見。


しかし全体には、実はとても神経のザラついた、トーンの暗い映画だ。

まず、出馬の理由を、他の候補が誰も1ヶ月前に大事故を起こした原発の是非を問わないことへの「怒り」だと笑顔で繰り返す山さんが、ザラついている。
「脱原発」を唱える主張の至極まっとうさと、なのに選挙活動マシーンに徹するのはもう繰り返したくない本音との間に矛盾がある。自論を町の有権者じゃなく、あらかじめな友人知人ばかりを相手に話している壁打ち状態に、山さんはおそらく早くから内心気づいている。

前半の白眉は、車内での山さんと友人の会話。落語「長短」の現代版翻案かというぐらいおかしくて、また、そこはかとなく哀しい。
友人の、のんびりした床屋政談に、政治のクロウトとして現在の政界事情を答えながら、だんだんせっかちに、早口になる山さん。完全無所属の前市議会議員が国政を大上段で語ったりすると、シロウトのツイッターと変わらなくなりそうになって、あぶなっかしいのだ。なのにいたって善人らしい友人は、少しイラッときつつある山さんを察せず、高い放射線が関東に及んでいる危機意識や不安だけは鋭く、遠慮なく疑問としてぶつける。

ここ、ホントわかるんだよなー。僕の友人Yは昔から完全に天然で、会うと「どうしてシネコンでやる日本映画はつまらんもんばっかりなんや」なんて不毛なことを聞いてくる。それで僕もついつい「観客のニーズが変わってしまったのさ」とか、一応専門家っぽく答えてしまう。Yはすかさず「どうしてニーズが変わると映画までしょぼくなるんや」とキョトンとした顔で畳み掛けてくる。一発で答えられないもんだから、「いや、だからそれは!」とカリカリきてしまう。その時の僕と、車内の山さんがそっくり。
そうしてこの場面は「長短」風でありつつ、優れて平田オリザの演劇の会話そっくりでもあった。「日常の中にある平田オリザ的時間」を逆抽出するのが想田和弘の「観察映画」のエッセンス、なのかもしれない。ウーム、ようやく『演劇』2部作をすごく見たくなってきたぞ。


ともあれ、だんだん、山さんの型破りな「活動しない選挙戦」が、鋼鉄の信念と勝算に基づくものでなかったことが、察せられるようになってくる。
再出馬はむしろ、やらないと不安で落ち着かなかったため、自分は少なくともアクションは起こしたとセルフ・エクスキューズの足跡を残したかったため、という印象を受ける。いつも笑顔の山さんから発せられるザラつきは、どうもそういうことのような。

そして、『選挙2』で特にオッとなるのは、山さんと別に、想田和弘自身が主観を露わにすることだ。
「有名な監督」になったことで「観察」撮影がしにくくなった、与党の候補にとっては、警戒すべき存在になった、ことが分かる一連のシークエンス。ここで想田は、直接的には山さんと関係ないところで自論に基づく実践を通す。(ここで「観察映画」の枷が外れたとは捉えず、「参与観察」に変化したのだとプロダクション・ノートで解説するあたり、頭のいい人だなーとも、実はファニーな頓智がある人かもなーとも思った)
ここは、本作のもうひとつのヘソでありつつ、実は、『選挙2』のみを見る分には「そんなに無理してまで見せてもらう必要は感じない」部分でもある。にも関わらず、山さんと想田の、神経のザラつきの共鳴現象として、長尺になっても落とせない部分になっている。

街いく人たちのマスク、マスク、マスクと、食事する店を探して歩いた時の都心の暗さ。山さんの奥さんがラーメン屋で垣間見せる、穴が開いたような表情の暗さ。
1年半手をつけなかった(編集しなかった)という素材の、ザラつきの集積の向こうに、本作の凄みが見えてくる。

あの春、日本は、国全体が鬱だった。
もう治ったのか(だから「311を忘れない」とか「忘却に抗して」とか大きな声でもう言ってもよいのか)。まだ治っていないのか。それとも、完治はあきらめずっと抑えながら付き合っていくべきものなのか。見る人の自己診断によって、評価は変わる映画だ。

ここまで書いて、改めて、あんまり続編であることを意識せずに見てよかったと思う。
『選挙2』は、もしもタイトルが『精神2』だったとしても、なにも不自然ではない映画だからだ。

 


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