ワカキコースケのブログ(仮)

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僕の心に(割と)深く~『PERFECT DAYS』の感想

2024-03-07 17:50:14 | 日記


〈まず使用楽曲について〉
学生の頃、マーティン・スコセッシとヴィム・ヴェンダースが監督した映画のなかで流れ、それに村上春樹の小説のなかに登場する1960~70年代ロックの曲名がすぐに分かる文筆家や先輩にあこがれた。自分もそうなりたいと、中古レコード屋によく行くようになった。

そうして今。2月の末にヴェンダースの最新作『PERFECT DAYS』(2023)を見たら、劇中で流れる曲=主人公の平山(役所広司)が主にカーステレオで聴く曲の大部分は、LPやCDで持っている曲だった。持っていなくても、おッ、金延幸子、ああ、ニーナ・シモン……とすぐ分かった。
とても嬉しかった。昔から好きな曲ばかり流れてくれるから、とは逆の意味で。

ここ数年、昔からの愛聴曲はなるたけ控え、新しいのや人に勧めてもらったもの、リアルタイムでも通ってこなかったジャンルやミュージシャンに優先的に触れるよう心がけている。
自分のような平凡な感性はそうでもしないとたちまち錆びる、という警戒心が僕にはある。同時に、ある程度は禁欲的に〈愛聴曲断ち〉をしていたほうが、たまーにザ・ビートルズやボブ・ディラン、山下達郎、オフコースなどに戻った時、それはもう、ほっぺたが落っこちちゃう位に美味しいぞ……ってことに気付いたからでもあるけど。

つまり、平山と僕とでは、生きかたが違うのだ。音楽と向き合う姿勢でそれが分かった。卒業証書をもらえたような気分だった。

アヤ(アオイヤマダ)や、姪のニコ(中野有紗)と交流している間、平山は、彼女達が自分のカセットコレクションを気に入ってくれるのを喜ぶ。しかし、自分から教わる気はない。
せめてオリヴィア・ロドリゴ程度は教えてもらいなさいよ……とは思う。でも、平山にどうしても興味がないのなら、尊重しておこう。

平山が聴くザ・ローリング・ストーンズが『メタモーフォーシス』(1975)収録曲なのには、ついついニヤけてしまった。なにしろこれ、正規のアルバムとは違う。過去のアウトテイクやデモ音源ばかり集めたお庫出し盤で、21世紀に入って初CD化されるまではなかなかのレア・アイテムだった。僕も実は、持っているといってもストーンズマニアの先輩に録音してもらった市販カセットでだけだ。

『PERFECT DAYS』のパンフレットによると、使用楽曲は「平山が聴いているもの」を前提として選曲されたそうだ。パンフレットでは、作り手がいかに丁寧に平山という人物を血肉化し、自分達の隣人としていったかが強調されている。
それを素直に受け止めるなら。かつて「ストーンズに海賊盤ライブがあるようにジョン・フォードにも海賊版が必要だ」みたいなことを言ったり書いたりして、いたいけなシネフィル青年達(僕含む)を存分にケムに巻いていたヴェンダースの好みの反映ではないのだとしたら。
お気に入りのストーンズが『メタモーフォーシス』の「めざめぬ街」だなんて、平山さん、アナタ若い頃はどんだけロック通だったんだよ! と感心させられる話である。

で、そういう人ほど、年齢を重ねてから嗜好を変えたり広げたりするのは極めて難しい。『PERFECT DAYS』は、その難しさが玩味どころの映画だった。





〈電通案件であることについて 1〉
今のところ、『PERFECT DAYS』の評をひとつも僕は読んでいない。ここで自分のまっさらの感想を書いた後、よいものがあったら拝読させていただこうと思っているので、どなたか教えていただければです。
それでも、高い評判と、あまり芳しくない声とが半ばするらしいのは見聞きしていて。僕はといえば、両方の意見がよく分かって、そこを吟味したい気持ちでいる。

パンフレットだけを情報源にして、映画の成り立ちを整理してみると。
渋谷の公共トイレを有名な建築家やデザイナーがリニューアルするプロジェクトを、ファーストリテイリング取締役の柳井康治氏が発案し、進めた。
このプロジェクトを紹介する映像作品を、という企画の段階で電通のクリエイティブディレクター・高崎卓馬氏が、世界的に著名な映画監督であるヴィム・ヴェンダースを招いた。
映像作品の企画は、1本の長編映画=ヴェンダースの新作という本格的なものになり……大評判の現在に至る。

ストーリーはどこでも書いてあるので端折るが、劇場の込み具合や客層と映画のパッケージがうまく噛み合っているようすは、『人生フルーツ』(2016-2017公開)がロングランを続けていた時とよく似ていると感じた。
〈ささやかだけれどかけがえのない日々〉という伝わり方を望む人達と、〈ささやかだけれどかけがえのない日々〉というタイプの感動を受け取りたい人達がとてもハッピーにつながっていた。

それ自体は文句のつけようのない、とても結構な話だ。しかも、最近はすっかり過去の栄光の人……の印象が強かったヴェンダースを久々に一線に戻すことにもなった。誰にとってもウィンウィンな映画。

しかし、〈ささやかだけれどかけがえのない日々〉というタイプの感動だけじゃない部分にも目がいくし、考えがめぐってしまう人にとっては。
『PERFECT DAYS』は何かが妙にぎこちないのだ。

さすがユニクロの創業者ジュニアと電通マン、お上手ですね……となる。イヤミのつもりはない。何か別のメディアで展開されていることなら、素直にそう感心している。
ところが、そのメディアに映画が選ばれると、フシギと見ていて居心地が悪いものが滲み出てくる。
このモヤモヤした印象に僕が一番近いと思ったのは、恐ろしいことに、それこそヴェンダースが『東京画』(1985-1989公開)のなかでやけに感心していた、精巧なロウ作りのスパゲティだった。以前はよく喫茶店や洋食屋の店頭にディスプレイされていたやつ。

トイレ清掃員の勤勉で規則正しい毎日を、善き人が誠実に日々を慈しむ姿として描いているのがうまくいっているところも。
そんな主人公が暮らす東京の下町を、魅力的なコミュニティの空間として描いているのがうまくいっているところも。
まるでロウ作りのようなのだ。さすが、まるで本物の映画みたいに見えますよ……と、これこそイヤミな感想になってしまう。精巧に出来ているほど、かえって電通案件のクサ味が出てしまう。

クサ味がいささかガサツな表現だとしたら、キュウクツと言いましょうか。
お客さんが求めるのはこういうものだと計算し、計算通りに事を運び、しっかり満足を与える広告代理店の仕事の進め方と、映画の持ち味はちょっと違う。
いや、多くの映画も(興行に乗せるものだから)同じ目的で企画され作られているのだが、与えられるのが求めているものだけで、それとは違うもの、商売抜きの何か(内田吐夢言うところの「精神的なオマケ」)が付与されていないと、逆に映画らしくない……と不満に感じるところが見る側としてはあるんですね。それなら部屋で、スマホで見られる他のメディアでもよかった、となる。

しかし、『PERFECT DAYS』のそうした難点を指摘するだけで済ませるなら、〈ささやかだけどかけがえのない日々〉系の絶賛と同じようにいささか底が浅い、と感じるのも本当なのだ。

この映画には、難点に感じられる箇所ほど現代の日本の、東京の精神を的確に反映しているところがある。それが、あまり例のない質の妙味・感銘を生んでいる。
ヴェンダースが、注文仕事に喜んで従っているようで実はしたたかに高度な日本批判を行っているのか、それともホントに、企画主旨に心から賛同していたら思わぬ効果が出てしまったのか。どちらかは謎だ。なにしろ僕は今回が久々に見るヴェンダースの映画なので、ちゃんとした分析ができない。

映画評らしいものが書けなくて申し訳ない……と恐縮しつつ、あくまで僕なりに考える『PERFECT DAYS』の、難点にこそ価値がある部分について書いていきたい。
前もって大きな要点を言っておくと、『PERFECT DAYS』は〈これまでの日本では許されてきた男性のための墓碑〉のような映画だ、と僕は思った。結果としてそうなっているところに粘り甲斐がある。


〈平山について〉
『PERFECT DAYS』のパンフレットでは、作り手達が、平山が愛すべき善き人物であることを実に周到に、何度も強調している。そして完成した映画でも、その狙いはほぼ成功していると思う。
僕はというと、平山のことは……あまり積極的に好きとはいえない。先に、僕と平山とは生き方が違うようだと書いたが、理由はそこではない。

平山が人に挨拶をしないからだ。「おはよう」もなければ「ありがとう」も「ごくろうさま」もない。
それはねえ、ダメなんである。いくら音楽や読書の趣味がよかろうが、樹々の成長を愛でる感受性を持ち、迷子の子どもに親切にする優しさを持っていようが、いい年をしてまだ人にちゃんと挨拶できないようでは、ダメなの。カンヌ国際映画祭やキネマ旬報が大目に見ても、若木康輔は平山のそういうとこを評価できないのです。

数歩譲れば、トイレ清掃の現場ではおしゃべりな同僚のタカシ(柄本)が煩わしいから無口なのだ、とも理解はできる。馴染みの店では「こんにちは」位はちゃんと言っているので。
それに映画には昔からの伝統というか、評価のクセがあって、極端に無口で自分の律に従って行動する男は、無声映画的な人物として製作国を問わず愛されやすい。黙々と決まった日課や労働を反復し、言葉に頼らない姿には、映画の本質的な魅力が「運動」であることを快く思い出させてくれるところがあるからだ。
僕がもう少し映画にくわしければ、ジャック・タチが自作自演した伯父さん=ユロ氏を重ね合わせたり、タヴィアーニ兄弟の映画に武骨な農民として出てくるオメロ・アントヌッティや、小津安二郎の映画に市井の勤勉な人物として出てくる笠智衆に連なる魅力を探し出したりする、感じのいいエッセイを書けただろう。

でも、どんなに譲っても、タカシが急にやめてしまった翌朝、急きょ配置されてくる女性(安藤玉恵)に対しても無言なのは、やはりダメである。
女性は、前夜に急に会社から、平山のサポートをしてくれと頼まれたのだ。それから慌ててルートを確認し、準備し、早起きした。几帳面な平山よりも先に現場に到着し、いつもと違う作業に臨んだ。
そういう人に対してね、「おはようございます」も「今日はよろしく」もないのは、なんなんだ。

いくら無口であろうが、せめて「では女子のほうからお願いします。僕は男子のほうから……」などの段取りを伝えるのは必要だろう。女性は明らかに真面目な、誠実な人である。そういう人ほど、同じトイレの清掃をスケジュール通りにきちんと回っている平山のところに入っていくのだから、平山の邪魔にならないようにしたいと思っている。そこに対する思いやりがない。
平山さん、アンタそういうとこがいかにも、典型的なこれまでの日本人男性なんだぞ、と言いたくなる。


〈ハードボイルドについて〉
平山の毎日の日課をしっかり守るさまにはある程度は敬意を覚え、無口さには反発を覚える(繰り返すが、常連の店でだったら挨拶するのが可愛くない)うち、僕のなかで別にあった、長年のモヤモヤが解けた。
ああそうか! だからハードボイルドのジャンルってもうひとつハマれなかったんだよなー、という発見である。

ポール・ニューマン演じる探偵リュー・ハーパーは、毎朝淹れるコーヒーを切らしたことに気付き、昨日捨てたフィルターの中の出がらしの豆を淹れ直す。もちろんマズいが、毎朝コーヒーを飲む習慣を変えるよりマシである。
エリオット・グールド演じる探偵フィリップ・マーロウは、いつものブランドのキャットフードを切らしていることに気付き、車に乗って深夜営業のスーパーまで買いに行く。

こういう神経質な拘りが、男のダンディズムとして全面的に肯定されるのがハードボイルドというジャンルだった。
事件も裏組織も出てこないからそういうジャンルとは無縁なようで、『PERFECT DAYS』には、都会の一匹狼をスタイリッシュに描きたい作り手の願望が、けっこうモロに入っている。

先述の探偵達のような平山の毎朝のルーティン。決まったところに置いてある腕時計や鍵束を一つずつ見に付けていく、そのガジェット感覚とリズムが心地よさそうなのは、大藪春彦の小説みたい。
中古レコード屋のなかで、タカシが持ち出したカセットコレクションを、返せ、と平山が無言で手を差し出した時は、そのポーズがやけに決まってしまう。新宿鮫かと思った。ロケされている店は下北沢の有名店だけど。

それにハードボイルドというジャンルではよく、無口で神経質で周囲に無関心な男なのに、それでも美女のほうから好意を持ってくれ、勝気な美少女のほうから助けを求めて部屋に転がり込んで日常をスリルあるものに変えてくれる奇跡が起きる。
『PERFECT DAYS』は、見事にその都合の良さを踏襲している。

大衆芸術のサービスなんだから都合がよくても構わないのだが、問題は、受け取る側である観客や読者がその心地よさに慣れ、軽く中毒化してしまうことにある。自分の内面に文学的な、芸術的な、繊細なもの(過去に心に受けた傷も含まれる)を湛えているのであれば、無口でも、人に挨拶しなくても許される、と思うようになる。
その慰安の構図を保つために、むっつり右門の代わりに岡っ引きのおしゃべり伝六は聞き込みや状況説明を人一倍しなくてはいけないし、見せ場で活躍する以外は何もしないケンシロウのためにバットはまだ少年なのに、口八丁手八丁でその日のねぐらと食事を用意しなくてはいけない。
タカシもまた、絵に描いたような軽薄な若者像を振る舞って、平山を立てなくてはいけない。

世間と没交渉でも、しゃべらなくても、世間のほうから相手をして合わせてくれる幸運。
まるで俳優の役所広司そっくりな雰囲気のある外見なら、なおさらである。現代の、電通が情報伝達の多くを仕切る日本社会では一番か二番ぐらいにアドバンテージになる要素に平山は恵まれている。そして、その恩恵にあぐらをかいて、世間の情報も一切仕入れない。
ヘタしたら彼は、ロシア軍がウクライナに侵攻したことも、安倍前総理が銃撃されて亡くなったことも知らないし、興味がないのではないだろうか。
平山さん、アンタそういうとこもいかにも、典型的なこれまでの日本人男性なんだぞ、と言いたくなる。

要するにハードボイルドには、現代日本の男性が生活習慣病のように抱えている、成熟を拒否して繭(好きなものだけに囲まれた部屋)のなかで自閉していたい願望を肯定してくれる危うさがあるのだ。藤沢周平的な市井の剣豪小説も、異世界に転生したら勇者だった系のライトノベルや深夜アニメも根は同じ。
スナックやアルコールみたいなものです。おいしいけどね、摂り過ぎには気をつけましょう。

平山の行きつけの居酒屋で、店主(甲本雅裕)が、プロ野球観戦で熱くなった客同士の口論をなだめながら、「酒場で野球と政治の話はなしだよ」といった意味のことを言う場面がある。
これは、けっこうなショックだった。動揺したので正確なセリフまでは覚えていない。

酒場で、野球と政治と宗教の話は御法度。
1980年代には、これから社会人になる者に、大人のルールのように伝授されていた言葉だ。僕も初めて目上の人に教えられた高校生の頃は、そういうもんなんだな、と何の疑問も持たなかった。

1970年代の、学生運動が退潮してからの先鋭・過激化や、新興宗教の集金システムの拡大が深刻な社会問題になった影響があってのことなので、社会全体のアレルギー反応としてやむを得なかった面はある。
しかし、政治と宗教の話をオープンにするのがまるでタブーに近くなったことが、どれだけ日本人の討論や他者理解の能力を伸ばす障害になったかは想像を絶するほどだし。ふつうの暮らし=政治や宗教に関心を持たずにおとなしく上司の指示に従い、休日には消費生活を安心して楽しむこと、というコンセンサスの醸成が、どれだけ与党と、与党とつながる産業にとって有利に働いてきたかもまた、想像を絶する。

日本のメジャー会社が作る映画や、キー局が作るドラマを見ていると、登場する家族や夫婦の大半は、選挙があっても投票に行きそうにはとても見えない。そしてそのことが当たり前のようになっていて久しい。
それは、作るのに必要なお金を集めたり回したりするところの人が、市民=消費者にはなまじ政治や宗教に関心を持ってもらわなくていい、と思っているからだ。

その価値観が、平山が通う居酒屋の店主のセリフを通して、スルッと出ている。
電通のクリエイティブディレクターで脚本・プロデュースの高崎卓馬氏としてはおそらく、しまった、不用意だった……という意識はないだろう。平山のような〈ささやかだけどかけがえのない日々〉を送るためには、野球はともかく、政治と宗教の話は不要で無粋だと本気で思っているだろう。
言質は取りましたからね……!となった。まさか、こんなセリフが無批判に飛び出すとは想像もしていなかったというショックにおいて、『PERFECT DAYS』は僕のなかで、戦後の日本映画史に残る。





〈電通案件であることについて 2〉
とはいえ、高崎卓馬氏を全面的に批判したいわけではない。逆に、僕が想像するよりもずっとずっと優秀な方だと思う。
渋谷の公共トイレを有名な建築家やデザイナーがリニューアルするプロジェクトを、ウェブ動画か何かで紹介するのはどうかしら、という話から、ヴィム・ヴェンダースに監督を任せるアイデアを生んで、ある程度は好きに作ってよい条件で口説き落とし、現在の大成功まで持って行ったのは……これはもう、並大抵のプロデュース能力ではない。

もしも高崎さんが次に抱える案件が〈戦後80年プロジェクト〉で、一方で水木しげるの従軍体験漫画リバイバルの話があったりしたら、それはもう見事なまでに両者を絡めて、改めて平和の大切さを多くの人に実感させるものにしてくれるだろう。
第一線の電通マンが誠実に仕事をするとは、そういうことだ。

それでも、ここまで書いてきたように『PERFECT DAYS』には、見る人が見ればどうもスカッとしない、本来は異質なものを組み合わせた建て付けの悪さから来る違和感は残ってしまっている。
ここにこそ、しっかり噛んでおきたい感慨がある。

高崎氏も、クライアントである柳井康治氏も、良かれと思ってこの映画の計画を進めている。
公共トイレをきれいに使う意識の周知が街や人の精神衛生につながり、一度はコロナ禍で沈んだインバウンド消費の再拡大にもつながり、ニッポンの将来に寄与することを心から望み、信じている。決してビジネスだけの気持ちではない。エッセンシャルワーカーへのリスペクトだって、ちゃんとある。

そもそも、トイレ清掃員が主役で便器を磨く場面が多くを占める映画が、メジャーの企画として成立する可能性の難しさを想像してみてほしい。家庭で見ることが前提のドラマなら、なおさらだ。
(ちなみに、1961年に『トイレット部長』という池部良主演の東宝映画がある。国鉄の駅のトイレ改善に取り組んだ人が書いてベストセラーになった本の映画化。僕は未見で、『PERFECT DAYS』のおかげで急に気になっている)

『PERFECT DAYS』でトイレの映画が可能になったのは、クライアントと大手広告代理店から始まった企画だからだ。通常なら資金を出したり集めたりを渋る側のほうが、「あり」の前例を作った。そこは素晴らしい。ちゃんと評価しなくてはいけないところだ。

にも関わらず。平山には、裕福な家庭の出身で、思うところがあってあえてトイレ清掃員をしているのだという、貴種流離譚の伝統につながるエクスキューズが用意されてしまう。
先に書いた、それなりの美意識や教養を隠し持っているというハードボイルド・ヒーローのような設定もエクスキューズのうちだ。
平山は並みのトイレ清掃員ではないのですよ、と言わんばかりの用意をしてしまうところに、無自覚なものがある。長者番付に名前が乗る人の息子と、エース電通マンが企画していることの限界がどうしても出てくる。

問題は、僕らが―いや、僕が、その皮肉な事態をどう受け止めるかだ。

僕はずっと昔、養豚場でしばらく働いたことがあり、その間は古い設備のためにブタの糞まみれになりながら豚舎の掃除をしていた。
でもその経験を笠に着て、便器の周りに飛び散った小便や、便器にこびりついた大便が映らないことを批判する気にも妙になれない。
それよりも、トイレ清掃員を敬意を持って描こう、と真摯に思った結果、汚物はわざわざ映らないようにした(つまり、演者さんが個室に入れる状態かどうか、撮影前にそのつど確認した)判断に至ったことに、エリートの苦衷を思う。

彼等に限界があるように、僕だって、長者番付に名前が乗る人の息子や電通のエースとして生きるとはどんなことか、想像してもしきれない。お互い様なのではないかと思うし、そう思うことが平山の弱点である、他者理解を拒む生き方を打破するきっかけになるはずだ、とも考えたい。


〈平山の背景について〉
平山は後半、しばらく部屋で預かっていたニコを迎えに来た母親=自分の妹(麻生祐未)と久しぶりに再会する。
運転手がいる高級車と短い会話から、平山の家が裕福なことと、父親がもう長くはないらしいこと、そして、平山がその父と絶縁状態にあること、平山がトイレ清掃員をしているのが家族に動揺を与えているらしいことが実に端的に示されていく。エリートの同族同士の場面になると高崎氏の脚本はうまい。

ここまでしつこめに書いてきた僕の平山に対する反発は、この場面でかなり氷解した。
連想したのは、『傷だらけの山河』(1964)という映画に出てくる青年・有馬秋彦(高橋幸治)と、佐藤泰志の短編小説「草の響き」(1979初出)だった。

『傷だらけの山河』は、しゃにむに都市開発事業を拡大する財界人の有馬が家庭や周囲を犠牲にしていく姿を描いたもので、西武鉄道創業者の堤康二郎をモデルにしている。
その有馬の息子が秋彦。秋彦は父親とは対照的に芸術を愛し繊細で、父親の支配下で生きることに苦しみ、心を病んでいく。
「草の響き」は、心を病んだ主人公「彼」が治療目的でランニングを始め、毎日決まったコースを黙々と走ることが生きる手応えになっていく過程を描いたもの。
(映画化された『草の響き』(2021)は、短編にはない妻が登場して夫婦の関係の話になる、いい意味で別物になっているので、ここでの連想とは違います)

つまり僕のなかで、平山は、一度は精神のバランスを崩したことがあるのだ……という解釈が走った。

もちろん、映画の中で明示はされていないのだから、うつ病か自律神経失調症かなど決めつけるのはあやうい。そこは気をつけなきゃ。
ただ精神疾患と診断されないとしても、うつ病の症状とよく似た、うつ状態になって苦しむことは誰にでもある。
平山がそこから時間をかけて回復していく日々を描いたのが『PERFECT DAYS』だった。あくまでも僕だけの解釈だが、そう解釈したら、映画や平山に対する僕の違和感はたちどころに逆転する。

孤独だけど充足した日々も、雰囲気のよい東京も、便がこびりついていない便器も、まるでロウ作りのスパゲティのように感じられたのは当然なのだ。それらは全て、一日一日を必死に生きている平山の主観であり願望だから。
そう考えると、一転して、ものすごく大きな懐を持った映画だという気がしてくる。

さらに僕だけの解釈を進めれば、平山は、自分の中の繊細な壊れやすさを自覚しているがゆえに、強く精神のバランスを崩してしまうことを恐れている状態にあるのだ、と考えたほうが理解が近いかもしれない。

だから、人と密に協働したり交渉したりしなくて済むトイレ清掃の仕事を選び。
挨拶は、人と世間話や雑談をするきっかけになってしまうから可能な限り避け。
テレビやインターネット、ラジオでいきなり心臓を打つような言葉にぶつからないよう近づけず。
そうして毎日のルーティンをしっかり守っているのかもしれない。

平山の場合、毎日のルーティンは、生活しているうちにいちばん効率がよくて快適な導線や動作に辿り着いたというより、一度そうしたものは変えられない、強迫観念に近いものではないだろうか。
毎朝、水で口をゆすがずに歯を磨き出す。缶コーヒーを必ず飲む。自炊は一切しない……ていねいな暮らしの実践とは、やはり少し違う。
タカシが急に来なくなって、清掃が夜になるまで終わらなかった時、平山は怒る。
思えばあれは、仕事が増えたことより、毎日のペースが乱れてしまったことへのショックだった気がする。

今日も、誰にもイヤな思いをさせられずに済んだ。今日も、人並みにやれることをやれた。そう思える日の少しずつの積み重ねが、どれだけ貴重か。
むしろ、平山の生活に当初は自閉の幼さばかり感じていた僕のほうが、平山という他者への理解を拒んでいたのだ。

そんな平山が後半になると、ニコという闖入者にペースを合わせるようになり、休日に必ず行くバーに入れなくても苛立たなくなり、重い病気が進行している男(三浦友和)に、自分のほうから励ましの言葉をかけるようになる。たいへんな変化だ。

それまでの平山の“PERFECT DAY”は、自分だけの納得のものだった。
しかし、姪のニコに信頼され慕われていることをしみじみ感じ、他人を気遣うことができるようになって、人と近く接しても精神のバランスを崩さずに済むどころか、温かいものが心に育つことを実感できた時、真の意味での“PERFECT DAY”がやってきた。

終盤のあたりは、そういう風に解釈したい。「一遇を照らすはこれ国宝なり」最澄である。
海外ではこの映画、“ZEN MOVIE”と称されているようなので、せっかくなので仏教の言葉を引いておこう。社会の片隅にあって職分に忠実で、存在が周囲を明るく照らす人こそが国の宝だという意味。
世の中、すぐによくはならない。せめて一遇を、身の回りをほんのりとでも照らせるようになりたい、と願う人が少しずつでも増えていくのが、一番まだるこしくて、しかし一番確実なのだと思う。

最澄が開いたのは天台宗で禅宗ではないんだけど……まあ、そこはいいじゃないですか。仏教に多くの宗派があるのは、それぞれの人の環境や能力などに応じた教えの違いなだけであって、仏が説く真理の道はひとつですから。





〈ヴェンダースについて〉
ここまで粘ったので、やはり、監督についても書いておきたい。

ヴィム・ヴェンダースの映画を見るのは、かなり久しぶり。なんと『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(1999-2000公開)以来だ。1980年代後半、ヴェンダースやジム・ジャームッシュが映画の世界の花形作家だった時代と、僕のシネフィル青年時代は密接に重なり、あまりにも重なり過ぎていた。なにしろ部屋の壁にずっと貼っていたのは『パリ,テキサス』(1984-1985公開)のポスターですからね。思い出すと、むず痒くなりますね。
見なくなったのはその反動で、この人がずっといい作品を作ってきたのか、それとも低調な時期が長かったのかは、まるで判断できない。

その程度の認識なのを前提で言うが、『PERFECT DAYS』のヴェンダースは、相当いい関わり方が出来たのだろうな、と感じる。
なにしろクライアントがユニクロの発注仕事ですよ。都市とモードがどうとかに昔からうるさいカッコマンの先生に、企画に対する心からのシンパシーが、あるわけないじゃん。失敗しても俺のせいじゃねえや的なリラックスした距離感と、客人として日本のスタッフが最高級に遇してくれる居心地の良さがあり、それがまるで、初期の作品をデッサンし直しているような素直な良さにつながっている気がする。

そう、『PERFECT DAYS』を見ると、初期~世界的ブレイク期にかけてのヴェンダースの映画に濃厚だったメランコリックな雰囲気は、ニュー・ジャーマン・シネマの文脈とは実はあまり関係がなく、どこまでもこの人自身が性分として抱える憂うつの反映だったのだと、改めて察せられるところがある。

『パリ,テキサス』と『PERFECT DAYS』は似ている。
ロード・ムービーとは、場所を移動さえすればそう呼ばれるにふさわしいものになるわけでもない。主人公が内面の憂うつを抱え、外との交渉を断ち、変化を選ばないままなら、実はどこまでいっても引きこもりと変わらない。
北米大陸を寡黙に旅したトラヴィスはその点において、都内の部屋と仕事場を巡回し続ける平山とほとんど同じ質の男だ。逆に言えば平山も、心のなかでずっとさすらいを続けている。
そういうトラヴィスが、平山を通してやっと笑えるようになった。

ヴェンダースが東京で撮る、という話になると、今でもフシギな位に過剰に小津安二郎が引き合いに出される。
そこに関しても、ヴェンダースは大いに歓迎しつつ(欧米の文化人にとって過去の偉人を参照されるのは名誉なことだ)、いい意味でのクールな距離感があったと推察される。
ヴェンダースはとっくの前に『東京画』で、ああ、小津の映画にある東京はもうないのだ、と幻滅を味わっている。その分、常にうつろいゆく街としての東京は面白いと思っているだろう。

僕はむしろ、『PERFECT DAYS』に市川準を濃厚に感じた。広告代理店のコマーシャル仕事を膨大に手掛けながら、常に変わり、なのに何かが残る東京を探し、それを映画にした市川準と、今回のヴェンダースの目線はとても近い。

ただ、こういうところは小津だな、と僕なりに感じた点がある。
昭和のドキュメンタリー・レコードを〈聴くメンタリー〉と称して紹介する活動を細々とやっていて、その一環で数年前、『小津安二郎の世界』(1972 ビクター)というLPについて書いた。
http://webneo.org/archives/48481

小津本人の肉声や関係者の証言とともに、代表作の名場面の音声が幾つも収録されているレコード。
これを聴いて、映像のほうをいったん忘れてポンポンとリズミカルな会話の快さのみを楽しんでいると、小津の映画にはサウンド面である法則があるのに気付いた、と書いている。

「小津の戦後の映画にはこのように、快いリズムとともに進んでおいて、クライマックスになると「世の中そんなものだよ」式の建前/断念の人生観が開陳され、相手が諦めたように口を噤むと、それを合図にして終盤に入る場合が多い。法則に近いものがある」
「戦後の小津映画の多くは、紋切り型のお説教に対して相手が黙るという、残酷なほど明快なディスコミュニケーションの図が露わになるのを合図に、関係の解体が促進される」

小津の映画はよく、家族の離合集散を描いてきた。そして、家族がバラバラになるきっかけは、リズミカルな会話が途切れ、一方が黙るようになってからだ……と、レコードに教えてもらった。

この指摘に即せば、平山の極端な無口にも、また違う解釈が与えられる。
平山はおそらく、父親との分かり合えない関係から言葉を失い、離れて暮らすようになった。『PERFECT DAYS』は、小津映画が描いた家族の別離の、その後の物語なのだ。
小津の後を描く、というかたちでヴェンダースは小津安二郎にコミットしている。深川生まれの小津にとって戦後の東京は、ロケはするが暮らす気にはなれなかった街だった。そんな東京も、小津の後を描く気持ちでなら入っていけるし、小津が見たものの名残を探すのは楽しい。

今さらのように思えば、別れた妻と息子を引き合わせるために旅する『パリ,テキサス』には、ジョン・フォードの西部劇の精神的リメイクみたいなところがあった。
『ことの次第』(1982-1983公開)の主人公が、劇場の看板だけ見る映画。ガンマンが姪を探して家族のもとに戻すための旅を続ける『捜索者』(1956)。

平山もまた姪を母親=妹のところに戻して、またひとりの暮らしを選ぶ。『捜索者』のガンマンやトラヴィスのように。
『パリ,テキサス』がそれこそ「ジョン・フォードの海賊版」だったとしたら、『PERFECT DAYS』は、「ジョン・フォードの海賊版」であると同時に「小津安二郎のアウトテイク」なのだ。



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