ワカキコースケのブログ(仮)

読んでくださる方ありがとう

ボブ・ディランは人を真剣にさせる ―1974年のライブ録音

2024-10-04 10:33:31 | 日記


久々のブログは、ボブ・ディランについて。
このブログでは、これまでもディランのことを数回書いてきた。また書きたくなったのと、キリのいい200回目の更新がたまたま合ったのはなんとなく嬉しい。

ボブ・ディランの長いキャリアのごくごく一時期である、1974年の活動に焦点を絞って考えを巡らせた内容ですが、そこがひとつのヤマであると読む、ひとつの作家論になっています。よければ眺めてみてください。

 

【はじめに】

ここ数年、エルヴィス・プレスリーとボブ・ディランをほとんど聴かなかった。
それ以前は、このふたりの公式発表曲は全て入手して録音日の順に並べ替えたリストを作る、と決めていて、エクセルにコツコツ入力していた。

しかし、
・リリース量が膨大で、とても追いつけない
・音楽ライターでもないのに、音楽ライターでもやらない作業をしている余裕はない
に負けて、リタイアしてしまった。

理由はもうひとつある。それが、〈上がり〉に近いからだ。
アメリカのロックを中心とした軽音楽の世界では、「やっぱエルヴィスとディランだな!」と言い切ってしまうと、もう先がなくなり、面白くなくなってしまうのだ。それだけの存在だと、少なくとも僕は思っている。

そんなことをだんだん考えている時に、ディランの2020年の来日公演が新型コロナウイルス感染拡大の影響で中止になった。
いったん離れろとお告げを受けたような、憑き物が落ちたような感覚があった。それから、ほんとにスーッと距離を置いたのだった。

そうこうしているうちに今年(2024年)になり、秋になって、凄いライブ録音が発掘リリースされた。
CDでなんと27枚組の『偉大なる復活:1974年の記録』
そのなかから、20曲のサンプラーが配信にあがった。ふと気が向いて気軽に聴いてみたら、これが、ゾクゾクするほどいい。
https://open.spotify.com/intl-ja/album/5x6WnUtS1wQU9MRHQWzPQa?si=ZdsBuEl7Qv-NfEiwKjxlnQ






真心ブラザーズ「拝啓、ジョン・レノン」の一節のようなものである。ディランを聴かないことで何か新しいものを探そうとしていたのに、久々に戻ってみると、やっぱディランだな!とすぐにメロメロになってしまった。

この数年で、ボブ・ディランを聴かなくても別に生活に支障はないのは分かった。ファンではないのだろう。そもそもこれまでだって、オリジナル・アルバムを全て揃えてはいないし、毎日のように聴いていたわけではない。
なのに、なぜ戻るのか。この人じゃないと得られないものってなにか。

僕の場合は、突き詰めるとこういう理由になる。
ボブ・ディランを聴くと、真剣な気持ちになる。人を真剣にさせるものが、ボブ・ディランの音楽にはある。
いつも一緒じゃなくても、定期的にピリッとした気持ちにさせてくれる存在が、人生には必要だ。

そんなことまで考えさせてくれるほど、今回の庫出し品は充実している。
ディランを聴いてきた歴ウン年、ウン十年な人とは「ディランのピークがいつか議論がふりだしに戻ってしまう。困るね!」「困りますね!」とハグし合いたい位だし。
もしも、いちげんさんに近い人に「ベスト盤程度しか通ってないんですけど……」と聞かれたら、「いやいや、これが最初に聴くディランのライブ録音になるなんてステキですよー」と積極的に答えたい。

 

【ディランが1974年に至るまで】

とはいえ、どうして1974年がディランにとってそんなに重要な年なのかを吟味するには、長めの前説がどうしても必要になる。

―1962年にレコードデビューしたボブ・ディランは、瞬く間に音楽業界の麒麟児となり、青年層に支持される音楽の主流がフォークからロックへと変わる最前線に常にいた。
しかし、1966年にオートバイで事故を起こし、休養することになった。
間もなく復帰した後も、コンスタントにアルバムを出し、サム・ペキンパーの映画に出演し、フェスにゲスト出演し……など活動は続けていたものの、本格的な形で人前に出ることはなかったため、半ば隠遁者に近いイメージに変わっていた。

人気者が次々と出てくる世界で、何年間も人前に出ないだなんて、ふつうはキャリアの自殺行為に近いのだが、ディランは休養を奇貨とできた、が定説だ。
半隠遁の間に、
・高額を取るマネージャー(アルバート・グロスマン)との関係を解消し、ビジネス面で身軽になった
・欧州ツアーに雇って意気投合したルーツ音楽指向の強いバックバンドと、何か月も合宿した。そして、フォーク・ブームからフラワー・ムーヴメントへの流れに乗るよりも、自分はカントリー、ブルース、さらにもっと古いバラッドなどに根差したほうがいい、と改めて掴んだ
という実りがあったからだ。

さらに言えば、ウッドストック・フェス前後の音楽シーンの激変から距離を置いておけたことも大きい。フォークのプリンスのイメージが強いままでなまじ第一線にいたら、否が応でも過去の人扱いされてしまう可能性は十分にあった。

そのうちに、一緒に仲良く時流から外れていたバックバンドにもデビューの話が来て、ご祝儀のようにメンバーと曲を共作して提供したら、そのファースト・アルバムが大評判。一躍、カウンター・カルチャーの次を指し示すアメリカン・ロックの牽引者となった。
ここまで読んでくださる方ならば言うまでもなく、それがザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』(1968)。




ザ・バンドの兄貴分、という新しいイメージが加わったのはつくづく、ディランにとってプラスだったと思う。(日本でいうと、ナツメロの人になりかけていた80年代の井上陽水が、バックバンドだった安全地帯のヒットの相乗効果でイメージチェンジできた例に通じるだろう)
そんなディランさんの歌をナマで聴きたい、と飢餓感が高まり、新しいファンが増えてきた1973年。いよいよ、という感じで、ディランとザ・バンドは本格的に一緒にレコーディングすることになった。

『プラネット・ウェイヴス』(1974)は、僕が学生時代に初めて買ったディランのアルバムだ。
もともとは、ザ・バンドの『アンソロジー』(1978)を聴いて、世の中にこんなにシブくて深みのあるロックがあるのか、とびっくりし、彼らにバッキングをさせるボブ・ディランとは一体何者だろう?と興味が湧いたのだった。
当時のディランといえば、超大物扱いされている割には「ライブ・エイド」でも「ウィー・アー・ザ・ワールド」でもパッとしない、まるで魅力のない人だったから。長いキャリアのなかでも最悪の時期だったとは、後で知る話。

だから、『プラネット・ウェイヴス』での張りのあるカッコよさには、ほんとにしびれた。
実はそこまでは映画のサントラ、アウトテイク集、とお茶を濁すようなリリースを続けていたので、ディラン本人にとっても久々にフルスイングしたアルバムだった。これもまた後で知る話だが、初めてのディランがこのアルバムで僕はよかったと思う。

個人的な思い入れはさておきにして。
長い付き合いなのにアルバムを通してのレコーディングはしてこなかったディランとザ・バンドが、1973年に再び組むことになったいきさつは、実は僕、よく分かっていない。
そうは言っても、ディランにその気がなければ始まらない話である。

この時期にディランは、コロンビアとのデビュー以来の契約を更新しないで新しい受け入れ先を探す、プロ野球選手でいうとFA宣言に近いことをしている。
最新の録音を手土産にするのだから、気心が知れた連中と一緒にやりたい。しかも、それが今や大物のザ・バンドなら、どこも文句はないはず。

一方のザ・バンドも、これは歓迎できる話だったみたい。この頃にはもうメンバー間のギクシャクが始まっていたそうだから。
こういう時は「デビュー前からのセンパイに、お前ら手伝えって呼びつけられちゃったよー」と苦笑してみせられる用事があるのは、かえって助かるものだ。

そうは言ってもディランには、自分の値を吊り上げる目的よりも、心機一転したい、60年代のイメージとは違う活動をできるようになりたい気持ちのほうが強かっただろう。超大手のワーナー系とも交渉していたのに、結局は新興レコード会社のアサイラムと契約したことから、その心境の一端が窺える。
今はアサイラムも閉じ、ディランもコロンビア・アーティストに戻り、公式カタログは全てコロンビアから出るようになって久しいので、当時のディランが自分の意志でレーベル移籍していた事実は、つい視点から抜けてしまう。1974年のディランを吟味するには外せないことなので、少しこだわって書いておく。

で、新しくレコードを出す先を決めるのと同時に、せっかくならニューアルバムに合わせてディランとザ・バンドの合同ツアーを、という話も進んでいたのである。
これがアサイラムからの提案だったのか、超大物プロモーターであるビル・グレアムからの提案だったのかは、僕は裏打ちがとれない。ウィンウィンの商談がトントン拍子に進む時は、顔合わせしている時にどちらともなく決まるなんて場合が多いんだから、どっちが先でもいいとも言える。

いずれにしても演者側も受け入れて、明けて74年になってからの『プラネット・ウェイヴス』リリースと、北米主要都市をまわるツアーが決まった。
売りはもちろん、ボブ・ディランの8年振りの大規模ツアーであること。それに、ザ・バンドがバックでありつつ彼等の単独ステージもある、かつてのNHKの音楽番組風なら〈ふた組のビッグショー〉であること。
結果的には大成功で、この年のアメリカでいちばんお客が入った音楽興行だったそうだ。

このツアーの模様は、『プラネット・ウェイヴス』に続くニューアルバム、2枚組ライブ・アルバムとしてさっそく同じ年に発表されている。邦題が『偉大なる復活』
なんでこんなに大げさなタイトルなんだ、と首を傾げた記憶がある方はいるでしょう。昔は僕もそうだった。なので、凄い邦題が付くに至るまでの経緯、期待感が醸成されていった経過を粘っておさらいしてみた。




【サンプラー20曲の内訳】

さて、やっと本題にたどり着く。
『偉大なる復活』は、ツアー中の数日間からディラン&ザ・バンド、ディランのみ、ザ・バンドのみと万遍なく収録されたハイライト構成になっている。
しかし、他の日の公演も録音されていた。
公式サイトによると、今回の『偉大なる復活:1974年の記録』は、ツアーの現存する録音全てを収録している。ただし、ザ・バンド単体の演奏は外されている。
それでも、全431曲。そのうち今回が初庫出しは417曲。

https://www.110107.com/s/oto/page/BobDylan_and_the_Band1974?ima=3040

どうも、サンプラーで聴ける20曲だけでは済まない気がする……のだが、それは後で考えるとして。
まずは、小出しの割にはかなり気前がいい20曲をありがたくしゃぶらせていただこう。

 

1 我が道を行く MSG1月30日

『偉大なる復活』の収録(2月)と甲乙つけがたい。ザ・バンドと一緒の面白さがいきなり際立つ。
ギター、ベース、ドラムス、キーボード、ピアノが各自、自分の好きな演奏をしている(としか思えない)のに一丸となっている。今回のツアーはディランさんを立てるのが俺達の仕事、そこさえ外さなければ好きな音を出してよいのだ、と腰の据わった、気楽に集中できているものを感じる。要はすっごく溌剌としている。
それは逆に、主役に言い訳を許さない厳しさでもある。

このツアーのディランは「歌い方が強引」と識者に評されてきたし、僕もそう言われたらそうかなと思ってきた。でも、60年代のブーイングを浴びる期も隠遁期も知っている仲間に思ったより強くお尻を叩かれ、少し慌てて気合が入っている(またそれが嬉しい)さまがドキュメントされているのだ、と考えれば楽しい。
もっと素直に考えても、プロの歌い手がこんなにノセてくれる演奏に囲まれて歌うことになったら、誰でも気持ちよくて前のめり気味になるんじゃないかな。

2 親指トムのブルースのように MSG1月30日

これも、正調60年代ディラン節みたいな曲がディラン&ザ・バンドでしか聴けない変化、アレンジになっていて魅力的。後半のロビー・ロバートソンの伸び伸びとでかい音を出すソロなんか、座長と対等にリハーサルで意見交換していないとやれないものだろう。
しかし、このテイクの影の主役はリチャード・マニュエルのピアノだと思う。ファッツ・ドミノのような鳴り方なのだ。みなさん、ここでの共通言語は、50年代のロックンロールですからね。分かっとるね? 分かっとる分かっとる、という感じ。
イースターの季節に旅をして、各地でさんざんな目にあう男の歌。「もうたくさんだとニューヨークに帰ることにしましたとさ」と歌うと、MSGのお客が大ウケ。

3 ミスター・タンプリンマン カリフォルニア州イングルウッド 2月14日

歌い手とバッキングの共通言語は50年代のロックンロール。
ディランとザ・バンドの場合、この裏打ちがどれだけ深いかが、ガース・ハドソンのヒラヒラしたアコーディオンを前に出した軽やかな演奏で分かる。
ザ・バンドはこのツアーの時点ですでにアラン・トゥーサンと組んでいて、ロックンロールのベーシックな土壌を探求すればニューオリンズまで遡ることになるし、クレオール音楽に通じていくことになる、と示しているからだ。この曲がガースの伴奏によって、シャンソンにさえ聴こえてくる面白みよ。

自分の歌はギター伴奏でもなくてもハマる、というここでのディランの手応えは、数年後、ヴァイオリニストを立ててジプシー音楽風、中東風の曲に取り組むことにつながるだろう。身軽なタンバリンおじさんは海を越えてどこへでも行けるのだ。

 

4 君の何かが MSG1月30日

ニューアルバム『プラネット・ウェイヴス』がツアーと同時発売だったのは前述した通りだが、『偉大なる復活』ではここから1曲も収録されなかった。
なので、『プラネット・ウェイヴス』収録曲のライブ録音が聴けるのは、今回の目玉のひとつだ。できたてホヤホヤの曲を同じメンツでやっているので、スタジオ録音と比べて大きなアレンジの変更はないけれど、個々の演奏の手数自体はついニヤニヤしてしまうほど増えている。改めて、地味だけど、地味だからいい曲。フォークのプリンス時代とは違う必然で、ディランはハーモニカを熱心に吹いている。


5 ラヴ・マイナス・ゼロ/ノー・リミット カリフォルニア州オークランド 2月13日

フォークのプリンスでいることがキュウクツになり、エレキを持ち出した頃の曲で、オリジナルのスタジオ録音は試しすがめつのフォーク・ロックなサウンドが初々しい。ここでは、弾き語りによってそれがさらに瑞々しくなっている。

6 シー・ビロングス・トゥー・ミー カリフォルニア州オークランド 2月11日

引き続いての、単独での弾き語り。
ディランひとりのコーナーは、じっくり聴くとやはり感慨がある。このツアーは、60年代の曲を今のものとして演れるかどうかが大事なテーマだったろうからだ。
隠遁している間にすっかり、ロックを演奏する=商業主義だとブーイングを浴びる、は昔話になっていた。時代の変化をステージで実感できたことは、当時のディランにとっていかに大きかったか。2曲ともギターはすごく単純に弾き、あっさり歌っていることで独特のコクが出ている。
『血の轍』(1975)まであともう少し、となっている。

7 ウェディング・ソング シアトル 2月9日

『プラネット・ウェイヴス』のなかで、唯一の弾き語り録音だった曲。5、6と違い、ここではライブ初披露なぶん、演奏が尖っている。まるで長渕剛の「巡恋歌」みたい。まっすぐな、烈しいラブソングに新人のようなひたむきさがこもっているのだ。
昔は何を歌っても社会状況の反映などを求められることにこの人はイライラして、それでロックに「転向」したのだから、同じ弾き語りでも大きな変化だ。

ディランが同世代のシンガー・ソングライター、ゴードン・ライトフットをかなり好きで、単に曲をカバーしたことがある以上の敬意を持っていたのを、僕は今年(2024年)になって初めて知ったのだが、それは、こういう個人的な歌をひとりで歌う場合のお手本をもらえたからではないかと推察される。


8 あなたのほかは シカゴ 1月3日

これも目玉のひとつかな。『プラネット・ウェイヴス』のレコーディングで生まれたけど、不採用になった弾き語り曲なので。後でブートレッグ・シリーズのなかで公式発表されているけど、ボツ曲をツアーの初日から演っているのが面白い。
ディランとザ・バンドが久々に組むアルバムのテーマとはそぐわなかったけど、曲自体には手応えはあったのだろう。やはり、もう『血の轍』の予告を聴いているような味わいがある。

 

9 悲しきベイブ カリフォルニア州イングルウッド 2月13日

ザ・バンドとの演奏に戻る。
あれ、これは『偉大なる復活』と同じ日の録音かな?
CDを買ったのは90年代アタマ。もう30年以上の付き合いになる。そのせいもあるのか、『偉大なる復活』と同じかほぼ同じに聴こえる演奏になると、急にまったりと、スリルがなくなる。贅沢なことを言っているんでしょう。ここまでの8曲が出している圧が特例的なのだ。

ただ、『偉大なる復活』を通っていない人が初聴きしたら、あの醒めた訣別の歌が楽しそうなアップテンポになっていて面食らうだろうし、やはり面白いはず。
アレンジに関しては、明らかにザ・バンドがイニシアチブをとっている。ディランが、自作を人にいじってもらうと自分でも発見になることに味をしめている気配がある。

 

10 ホリス・ブラウンのバラッド MSG1月30日

これは面白いというか、問題テイクというか。オリジナル録音は一家心中の事件をシリアスに歌うものだが、不穏な響きで巡回するギターのコードが、ここではかっこいいロックンロールのリフになっている。題材に対する、おそろしいような醒め方だ。
深刻な社会の断面の歌を、思い切り享楽的なサウンドに仕立てる。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの先輩のようだ。

 

11 ハッティ・キャロルの寂しい シアトル2月9日

また弾き語りに。
これが、ここまで募ってきた感慨―ディランはこのツアーで、60年代の弾き語りを忘れ、新しいスタイルを掴んでいるのだなあ―をひっくり返すようなものだ。
フォークのプリンス、新しきプロテスト・ソングのリーダーだった頃の代表曲を、噛みしめるように歌っている。
50歳を過ぎたウェイトレスの黒人女性ハッティ・キャロルが、注文した飲み物が遅いという理由で白人の議員の息子に殴り殺された1963年の事件を、レコードデビュー2年目のディランがすぐ歌にしたもの。

その時のディランには、2つの必然があった。
事件に心が動いたならば、社会の不正、不公平をまっすぐ訴えるトピカル・ソングを作り、歌わなければいけないと考える、当時の若者としての責任感。
もうひとつ。事件に心が動いたならば、そこにある普遍的な哀しさとは何かをよく考え、後世に歌による記録として残さなければならないと考える、伝承音楽研究家としての責任感。

結果、ディランは、事件や災害などを新聞やテレビが普及する前の時代から歌にしてきたフォーク・バラッドの〈現代版〉〈新曲〉を作れる男、という異例で破格の才能を示すことになった。
短期的には、そういう曲ばかり求められるようになってイヤになり、ロックバンドを率いて演奏するようになったらブーイングの嵐でますますイヤになり……と先ほどと繰り返しの話になるのだが、長期的には、伝承音楽研究家であり実践者であるワン&オンリーのスタイルを掴んで、今なお現役でいることになった。

市井の人々の生活のなかから生まれた〈作者不詳〉〈詠み人知らず〉の歌の世界を引き継ぐ、が終生のテーマ。
だから、ノーベル文学賞の受賞が決まったりすると、市井の人々の代表としてはありがたく頂くけど、式典に出席などの個人としての名誉はちょっと困る、ということになる。
なかなか本音を見せない伝説的カリスマのようで、自分の作った設定にずっと苦労されている方ですよね、とも僕は感じている。

ともかく、そういうディランの長期的姿勢はこの頃に定まったのだなと窺える、素晴らしい「ハッティ・キャロルの寂しい死」だ。ただ、同じモチベーションで作られた10がかなり人の悪いアレンジになっているので、しんみり歌う=誠実、と簡単に解釈もできないのだが。
押しも押されぬロック界の超大物と遇されるようになると、こういう曲を歌えば逆に、客席のほうがまるで観劇のように、音も立てずに聴き入るようになる。そう、この録音は満場の静けさもあわせて感動的。


12 時代は変る カリフォルニア州イングルウッド 2月14日

ところがこの、昔の名刺代わりみたいな曲では、わッ、やるんだ!と歌い出しから客席が湧く。
味のあるギターと歌だけど、正直、「ハッティ・キャロルの寂しい死」ほどはガツンとはこない。曲自体があまりに1963年の精神を背負っているからだ。
でも、しっくりくるかどうかは演ってみないと分からないわけで。ディランがこのツアーで「時代は変る」を歌っていた、どの曲が70年代も残るのかを試していた事実こそが重要かな。

 

13 エデンの門  MSG 1月31日

この曲になると10や11とは好対照。
この世にはエデンの門のなか以外に真実はない、エデンの門をくぐれた者は誰もいない―と歌う(たぶん)、大人のためのマザー・グースみたいな抽象的な歌詞で、リアルタイムではファンを戸惑わせた曲が、堂々と披露できるものになっている。

むしろ、センパイ、こんな曲を60年代から作り歌っていたんですか!という当時の驚き、歓迎がディランのカリスマ化を促進させた気がする。ウディ・アレンの映画に、ディランの歌詞を語る女の子が街のスノッブの一景として出てくるのはこのツアーの直後。
歌と演奏自体は、こういうものはアッサリとやったほうがいい、と考えている感じ。そっけないので、妙に残る。

 

14 イッツ・オール・オーバー・ナウ、ベイビー・ブルー
カリフォルニア州イングルウッド 2月14日

ところがところが、この曲になるとディランの弾き語りに気合が入っているのが分かる。

1965年、ニューポートで開かれたフォーク・フェスの大トリだったディランは、人前で初めてロックバンドを率いた演奏をして大ブーイングを浴び(とにかくまあ、場にそぐわなかったのでしょう)、一度ひっこんだ後にギター1本で戻り、この曲を―「全ては終わった」と、ガチガチのフォーク信者との決別宣言など、どうとでも解釈できる曲を歌った。軽音楽史、ロック史に必ずといっていいほど記載されているエピソードだ。

そんないわく付きの曲を、このツアーではやっていた。ケリを付けた、ということなのだろう。
気合が入っている、とさっき僕は書いたが、どうだ、ブレずに我が道を行った俺の勝ちだぞ、とねじ伏せている印象はない。ある種の倦怠を歌っている曲なので、攻撃的になりようもない。
どちらにしても年月は経った、歌っている俺も客席のあんた達もお互いこうして生きている。これからも生きていかなきゃね。……そんな、しみじみとした真心が伝わってくる歌声なのだ。

 

15 マギーズ・ファーム カリフォルニア州イングルウッド 2月14日

ディラン&ザ・バンドに戻る。これはもう、もともとフォーク時代からロックンロールに合っていた曲なんだからどうとでも、な風情。
こういう曲になると、全体には控えめに聴こえるリック・ダンコのベースがモコモコバチバチと爆ぜる。ではリヴォン・ヘルムのドラムスは? 全編、この人のマシーンのように正確なのに粘っこいリズムが抜群なのが大前提なので、いちいち書いていられなかった。

ただ、ここまで聴いていくと正直、ディランのみのほうが読み応えはある。彼自身の来し方行く末がそこにあるので。
ザ・バンドとの演奏はもちろん面白いけど、その面白さは演奏、アレンジの工夫の妙を楽しむ意味合いのほうが強い。言ってみれば、すでにできあがった同士の巡業相撲なので、これから一緒に新しいものを作り、共有していこう、という時期の空気には勝てない。

書きそびれてきたが、実はこのツアーのことをディラン自身は「ずっと苦痛だった」と後でケチョンケチョンに語っているのだ。
ザ・バンドとやるとまとまり、自然といい感じに仕上がってしまうことが、ツアーの途中でつまらなくなったのだろうことは想像される。
また、どこも大きな会場で、大きな声で歌わないといけないのも、いい思い出ではない要因だったみたい。

まあ、しかしこれも、やってみないと分からない話だ。ディランの第一線カムバックにはそれだけの規模と協力が必要だったし、それが成功したからこの後ずっと長持ちできるようになった。ただし、大会場でのエンタテインメント・ツアーも自分は向かないと初めて分かった、ということだ。
それでもディランは、ツアーの楽日だからか、珍しく長めのMCをして、仕切ってくれた「ミスター・ビル・グレアム」を立てている。

 

16 見張塔からずっと MSG 1月30日

このテイクも、ザ・バンドがリードしているところに興趣。
しかし驚くのは、ロビー・ロバートソンだ。「自分のよりいい」とディラン自身が認めたジミ・ヘンドリックスのカバーに全く影響を受けていない、まるで独創的なギターを弾く。しかも間奏はガースのキーボードに任せてしまう。
「デビュー前からベックやクラプトンよりうまかった」という当時のミュージシャンのロビー評と、愛され方の落差を改めて考えてしまう。

あくまでコンポーザー、プロデューサーであり、その曲を構成するためにギター「も」弾くという意識の人は、どんなに腕が立ってもその道一筋の人よりも評価されにくい。人生の難しさだ。

 

17 追憶のハイウェイ61 MSG 1月31日

ああ、これはいい。ディランとザ・バンドが五分に噛み合って、バタバタした雰囲気の曲だったのに、まるでもともとクラシックな格を持っているようなブルース・ロックに育てている。

 

18 ライク・ア・ローリング・ストーン カリフォルニア州オークランド 2月11日

これも「我が道を行く」同様、『偉大なる復活』収録(2月イングルウッド)と甲乙つけがたい。
ディランがこのツアーで感じていた「苦痛」は、カムバックがうまくいった手応えと、昔のヒット曲をショーパッケージのようにやらなきゃいけない負担感との間のズレにあったと想像される。

いちばんクリアな解決法は、マンネリだと自分が感じず、いつも新鮮にやれる形にすればよい、だ。「ライク・ア・ローリング・ストーン」はそれがかなりうまくいっていると思う。
ディランも、ザ・バンドも、みんな好きな音を出している。「どんな気持ちだい?」とハモる時だけは一緒。そうして大きなスケールを出している。
ディラン自身がどう思おうと、このツアーでの「ライク・ア・ローリング・ストーン」が示した大会場ならではの盛り上がりは、スタジアム・ロックへの道を拓いた。

 

19 いつまでも若く シアトル 2月9日

待ってました!となるニューアルバム『プラネット・ウェイヴス』収録曲。
ばっちりとハマっていたり、少しギスギスしていたり、マンネリの空気を感じたり……と、ここまで曲ごとに緊張感が違い、グラデーションがあるディランとザ・バンドだが、一緒に作ったできたての新曲を一緒に抱いて披露する時は、気持ちがひとつになっている。同じ目的で集中できている。

もう両者は今後、がっぷり四つに組むことはないとお互いに察しているのだ。
後の『ラスト・ワルツ』のゲスト出演は、あれはあくまでゲストですからね。楽屋も別。ディランは打ち上げも参加していない(これはたぶんですが)。
とにかくもう、一緒に地下室で夜を明かして音を出し合ったり、同じ皿のものを食べたり雑魚寝したりすることはない。
それが分かっているから、他の演奏と比べるとグッとテンポを落として、いつまでも若くいてよね、お前こそ、お互いにね、と音で挨拶し合っている。

半ば妄想が走っているが、それだけの感傷に引きずり込まれるテイクである。つまり僕は、これを繰り返し聴きながらグスングスンと泣いてしまった。
サンプラー最大のハイライトかな。

 

20 風に吹かれて シアトル 2月9日

これは……オマケである。この曲をやらないと帰してもらえないから、以上の理由はないんじゃないかしらん。

ところが非常に、そこにこそ味のあるテイクだ。もうこの曲に関してだけはディラン自身も、最初の録音に勝てないと諦めている。どうにか料理し直してやろう、という気持ちがなく、ただお客さんのためにやっているフンワリとした良さ。
曲の終わりに、「ありがとう、お休み」とディランは神妙な感じで言う。らしくないものまで聴けて、こちらこそどうもありがとう。


 

【結論 1974年はディランの第二のいやいや期】

以上が、『偉大なる復活:1974年の記録』サンプラーの、とりいそぎの感想。

結論は、これがディランのライブ録音の最高ではない。しかし、これ以上に次へのステップを捉えた記録はなかなかない、ということになる。
〈ボブ・ディラン第二のいやいや期〉とも言いましょうか。

しつこめに書いてきたようにディランは60年代、ディランと言えばフォーク、とレッテルがべったり付くのに耐えられなくて、いろいろと抵抗したり隠れたりした。これが〈第一いやいや期〉。
そして、カムバックはしたけど、ニューアルバム発売に合わせて大都市を回り、新曲とヒット曲をバランスよく披露する大物ロックスターになるのも気持ちが落ち着かない、とさっそくグズり出してしまった。これが〈第ニいやいや期〉。

ただ、この人の場合、いやいや期の訪れは脱皮の胎動である。
1974年の初頭にこのツアーをした後、ディランは一転して、無名に近い初顔合わせのミュージシャンを集めてニューアルパムを制作した。そして、次のツアーは旅芸人一座のように小規模な会場を回り、詩人や作家も同行させて同時進行で映画も撮影したりする、気ままなものにしようと構想した。
それはそれで振り回されて大変だった……ということは、同行させられた作家サム・シェパードの回想録にヴィヴィッドに書かれているわけだが。

1974年のツアーの反動で、その年のうちに粗っぽさ、アマチュアっぽさを強く求めたことが、キャリア屈指の代表作『血の轍』と、やはり屈指のライブとなった〈ローリング・サンダー・レヴュー〉を生み、大物バンド達をどんどん古色蒼然たるものにした恐るべき次のムーブメント、パンクの波からディラン自身を救うことになったことまで考えると、いやいや期の嗅覚は凄い……となるのだ。


 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿