ワカキコースケのブログ(仮)

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試写で見た映画(19)『わたしの自由について ~SEALDS2015~』

2016-04-16 06:02:48 | 日記



ジャッキー・チェン話のつづきをしたいのに、ブログを書ける時間ができると途端に、マスコミ試写で拝見して、ピンときた映画が入ってきてしまう。ジリジリする。ありがた迷惑だ。
といって、僕がピンときても、特にその映画の宣伝にはならない。監督や配給・宣伝スタッフが押すのを避けたポイントをしつこく書いて、迷惑がられることが時々ある。
申し訳ないけれど、仕方ない。一番確実なのは「若木康輔には今後、試写状を送らない」ことです。


『わたしの自由について ~SEALDS2015~』

2016 sky-key factory配給
監督・撮影・編集・製作西原孝至

5月14日(土)より渋谷アップリンクほか全国公開
http://www.about-my-liberty.com/


たいへん好みの、正統ダイレクト・シネマだった。
ここで言う好みとは、書いて整理しときたいことが色々出てくる映画という意味だ。首を傾げたり、退屈したりした部分も込み。
それに、後で書くが、新作でありつつ過去の映画と背骨がつながっているのが、さらに好み。

前日、やはりマスコミ試写で、オーソドックスなヒューマン・ドキュメンタリーのいいところを(ヒューマン過ぎないかと言いたくなる、いい意味での鈍さまで)受け継ぐ意思を持った『さとにきたらええやん』(重江良樹)http://sato-eeyan.com/を拝見して、その後、映画館で、好対照に才気ウルトラ大煥発、映画的記憶のカタマリのような『ジョギング渡り鳥』(鈴木卓爾)を見た。
そして、この『わたしの自由について ~SEALDS2015~』。2日でこの3本を続けて見た印象だけで言うと、最近の「今の日本映画はつまらない」論議は、よく分からない。同意を求められたら「うーん、そうだねえ。そうかもしれないねえ」とニヤニヤ笑って、適当にやり過ごすのみ。

『わたしの自由について ~SEALDS2015~』は学生団体、SEALDSの2015年春からの活動を追ったドキュメンタリー映画なので、2時間45分の間、実に膨大な量の言葉を浴びた。「アベやめろ」って、何十回聞いた勘定になるかな。

しかし、心に残る、ひっかかる言葉がものの見事なほど、無かった。

高橋源一郎が座談の席でひいたルソーの言葉にオッとなったが、早口なのでやはり、胸に来るまでに至らず。まあ、それだけが残ったとしても〈昔の人(ルソー)はええことを言いなすった〉の範疇なので、作り手の意図とはゼンゼン違うだろう。

あれだけ沢山マイクで訴えているのに、(僕の)心を打つスピーチやコールは無かった。
それを考えると逆説的に、メガネのひとが言う「自分の頭で考えろ」が、説得力を持って迫ってくる。

「映画はあえて答えを用意していません。観客のひとりひとりに感じてほしいと思います」とインタビューで答えるドキュメンタリー映画の監督を、僕は〈あえて系〉と秘かに名づけている。〈あえて系〉は基本、とっても人気がある。僕は逆に、慇懃に隠した尊大さを嗅ぎ取ってしまい、苦手だ。この映画の監督も、取材ではそう答えるかもしれない。読んだらガッカリするかもしれないが、読むより先に気付いて、こうして書く分には、問題はない。

SEALDSに明日のヒントを求めるな。答えはオマエの中にある。そういう映画になっていること、僕はとてもよかった。


皮肉まじりで書いているのではない。僕は基本、マジメの国体があったら神奈川代表に選ばれる位にマジメだ。偏差値が高くて斜に構えたセンスが決まる、アーティスティックな人が僕と会ったら退屈で、5秒で吐くんじゃないか……といつも心配になる程だ。

それを証拠に、僕の政治スタンスを挙げておこう。

1・1988年に成人になって以来、選挙の投票に行かなかったことは一度もありません。

2・自民党に投票したことは、一度もありません。

3・特定のイデオロギーに拠ったこともありませんが、中島岳志氏が以前から説く、「もともとの語源の意味での保守」が一番しっくりきます。人間は不完全であるがゆえに、社会も不完全でもある。過去の経験や伝統を参考にしながら、少しずつ是正していこう、という漸進主義。

4・投票の際は、いちばん公約にリアリティのある人を選びます。例えばいきなり「太陽エネルギーに全転換!」と大きく出るより、「その将来の財源確保のためにも“いま安ければ良い”の発注姿勢を改め、税金を納めてくれる市内事業者を大切にします」なんて言ってくれるひと。

5・ただしリベラル側であっても、『花咲舞が黙ってない』式の「私は正しいことを言ってるんだから、正しいんです!」タイプの方は、ちょっと……。市民の声を汲みつつ、行政の都合やメンツも立てて調整できるようなひとが有り難いです。公僕とは八方美人のプロ、と考えています。

6・僕が投票したひとが当選したことは、旧社会党の岩垂寿喜男氏が引退した後は、一度もありません。しかし、自分の一票がムダになったと感じたことも一度もありません。

以上のように、20歳の時からシンプル&ストレートのまんまなので、SEALDSの登場に影響され、政治や社会に対する意識が変わった点もまた、ひとつも無い。もうちょい彼等に刺激を受けたかった。おじさんは、そこらへんが残念。

去年の夏、国会前に一度、行くことは行ったのだが、昔ながらの……労組の方々ばかりだった。よくデモに参加する仕事仲間にぼやいたら、「SEALDSがやる日は、ネットでチェックしとかないとダメですよ」と言われ、それには少なからず感動した。“あの手の活動”に、ロックフェスに行ったらどこのステージを見るか、みたいな選択肢が生まれたのだ。僕はそれだけでも充分、SEALDSが誕生した意義を感じた。


去年の夏のことがもう映画としてまとめられ、振り返ることが出来るのは有り難い。年はまたいだが1年は過ぎていない、絶妙な時期の公開だと思う。
監督の西原孝至は基本的に、SEALDSのメンバーに好感を抱き、伴走するように撮っている。そうでないと、ここまでしつこく付き合えないだろうし、仲間意識は自ずと滲み出ている。

なにしろ、映画の中で一番退屈な映像は、構成上のクライマックスのひとつに据えている、奥田愛基さんの中央公聴会出席の引用なのだ。
世間的にも、奥田さん並びにSEALDSを全国区にした大きな節目の映像なのに、映画の中では最もダレていた。これによってやはり逆説のように、西原監督がいかにヴィヴィッドな気持ちで撮っていたか分かった。

ハートは、高崎大学闘争の記録『圧殺の森』(67)を撮り、自分のプロダクションを構えてからは「映画班」の腕章を付けて三里塚闘争を撮った初期の小川紳介を思わせるのだが。
全体のルックスはドキュメンタリーというより、よく出来たアーティストやバンドのメイキングっぽい。ソニーとかがアルバムの初回特典DVDとして付けるビデオに、時々びっくりする位見応えタップリのものがあるでしょう。あの感じね。

その上で、同調し過ぎては後でまとめられなくなる、と自制しながら撮っていたろうこともよく伝わる。編集の上手さから、それが判断できる。

基本は、準備、国会前などでの活動、準備、国会前……の繰り返しだから、実は動きの要素としては地味な部類に入る題材だ。ここまでの長尺に出来る技量は、並ではない。「僕も彼等と同じ、熱い思いでカメラを回しました」と嬉しそうにアピールするのが好きなタイプなら、あの、ただでさえカーッと血が騒ぐはずの現場でここまで寄り・引きの素材を揃えられず、ガタガタになっていただろう。

冒頭のミーティングで、喫緊の目標は安全保障関連法案を阻止するためのアクションである、「コールは(政権への)ネガキャン一本でいこう」といった内容を話し合う場面が、撮影されている。
このおかげで、そうか、去年の夏のSEALDSは、カウンターであることに活動を絞ったのかと知る事ができ、コールがなぜああも一本調子だったのか、理解できる。

こういう楔の打ち方も、全体に効いているので、実に周到だ。監督がふだんはTBS系『情熱大陸』を手掛けているディレクターだと、見終ってからプレスの資料を読み、たいへん納得した。
紙媒体のみで活動している批評家や映画ライターの多くは、こうした作り手の工夫に気付いたとしてもすぐ、テレビもやっている人は手際がいい、なんてカンタンに、無自覚の(映画はなべて高尚でテレビは一段下に置く)差別意識丸出しな書き方でまとめやすい。
手際がいいのは、そりゃあそうなんだけど、そうじゃない。社内試写、局プレビューと二段階で揉まれる苦労を知っている、ということなんだ。

と、言っておいてナンだが。僕はこの数年の『情熱大陸』、ほとんど見ていない。
キャストは若い人気者中心、なにがしかの新作発表に(露骨にタイアップに見えないように)合わせて、の方向になってからは、別番組になったという解釈。たまに意欲的な演出の回があって、これも立派にドキュメンタリーである、と言えるフンイキを与えているだけタチが悪い、位に思っている。

西原監督はおそらく、もし『情熱大陸』でSEALDSを、のお題を受けたらオレはこう撮る、というプロ意識を持って作っている。そして、本当にそうだったら、編集の最初の段階でオミットしただろう部分を、とても丁寧に扱っている。

奥田愛基さん以外の、中心メンバーが面白い。そこが、『わたしの自由について ~SEALDS2015~』の一番の魅力。番組なら物理的にも、奥田さんひとりに編集の流れを寄せざるを得ない。

虚心で見ると、メガネの男性のほうが、どうかするとリーダーに思える時がある。
名前が分からないので、ここでは以降、メガネさんと書く。調べれば分かるだろうが、団体の主旨に照らして、あくまで「声を上げた若者のひとり」ということで。奥田さんは、いやでも名前がよく出て、もう覚えてしまったので、奥田さんのママでいく。

メガネさんは、ミーティングでも、高橋源一郎との座談の場でも、主体性を持った個々人の自主的な集まりです、と強調する。
彼の中で、それは明確な信念のようだ。冒頭で、言葉の数の多さの割に心に残る言葉が無い、と書いたものの、メガネさんの言わんとしていることはよく届いた。部屋の壁にはアイス-Tが監督したドキュメンタリー『ART of RAP』(12)のポスターが貼られ、本棚には思想関係の書籍が並ぶ。両者を自分の中で結びつけているのが、SEALDSでの活動なのだ。

ただ、フロントマンの奥田さんも100%、メガネさんと信念を共有しているかというと、これがよく分からないんだよね。
高橋源一郎が、あなたはスピーチで結局は(カウンター以外の)何を言いたいのか、と問うた時、奥田さんは、詰まる。少し考えて「個人であるべき」云々と返すのだが、メガネさんのように、明るく滔々と、とはいかない。

実はメガネさんのほうが深く物事を考えているのでは……と思わせつつ、しかし奥田さんが壇上に立ち、たくさんの人に向けてマイクを持つと、パーッとスター性が現れる。自然と韻を揃えてしまえる言葉の反射神経、声の強弱によるメリハリの付け方、きどらない若者らしさと愛嬌を織り込むタイミングに、抜群のセンスがある。
座長としての奥田さん。参謀としてのメガネさん。長所をシェアし合う関係は確かに、主体性を持った個々人の自主的な集まり、を裏打ちしていると言える。

しかし、現実には、主体性を持った個々人の自主的な集まり、は少数精鋭を選択しない限りは難しい。
リーダーのいない組織であることが重要なんです、という美しい考えと、次回は○人を国会前に集めよう!と“動員”にこだわる姿との間に、僕はどうしても、目に見えない矛盾を感じる。
去年、身内の市議会議員選挙を手伝った時、一にも二にも集めた票がすべての戦いであることを、いやというほど知った。数のパワー・ゲームの土俵に上がった人は、僕には、政治家も、自主的行動から団体を作った学生も、同じに見える。
実際、これだけ自制して回したカメラによっても、カリスマ性を持った中心メンバーと、サポートするメンバーという具合に、グラデーションは出るのだ。テロップの「〇〇人」、次の週はさらに増えて「〇〇人」という数字は、途中から見るのをやめた。

しかし、しかし。主体性を持った個々人の自主的な集まり、だからこそ、そりゃあアイデアが出たり、小沢一郎の事務所に直接交渉の電話をする度胸があったり、「誰もやってくれないから」と文句を言いつつTシャツのデザインが出来てしまえるメンバーと、補助的な動きが得意なメンバーの色合いも違って当然だ、と納得もできる。

そこらへん、この映画はとても両義的だ。
中心メンバーの奥田さん、メガネさんや男性たちはみんなカッコよく見えるし、女性たちはみんな輝いて、キレイ。僕が同級生だったら、きっと秘かに恋していたと思う。いや、恋する位じゃないとさ、かえって不自然でしょ。
そして、彼女ほどには力強く「アベやめろ」と叫べない自分に、苦しんだだろう。苦しんだあげく、敵を求める共依存になるなよ、それじゃあまるで『ぼくらの英雄主義なんだぜ』だぜ、なんてイジワルを言ってしまい、修復不可能な位、嫌われるだろう。

なんとなく感傷的な気持ちで聴きたくなったのは、ボブ・ディランの「ラモーナに」という、1964年の曲。
当時、ディランは社会的・政治的な歌を重んじるニューヨークのフォーク界隈と距離を置くことになり、人間関係が激変する最中にあった。女性との別れを歌った、否、仲間との決別を歌った、どちらとも解釈されている曲だ。

すべては過ぎるし、すべては変る

やりたいことをしなよ
いつか君の前で泣くのは、僕かもしれない
(意訳)

そんなことを思いつつ見ていたから、雨の夜のデモ終わり、空のペットボトルなどのごみを拾うメンバーがいることに、フード付きのレインコートを着ているので、どんな表情なのかも分からない姿に、虚をつかれて鼻の奥がツーンとした。
誰かが捨てたごみでも、そのままにしておけば何がしかの制限をかける口実にされる、という戦略的理由かもしれないが。
ごみ拾い係になったメンバーに、おもしろくない作業が当たった的な不満など無いかもしれないが。

コールの撮影が終わった後も、そんな裏方の姿に気が付く監督に、血の通ったものを感じた。
繰り返すが、集団の熱狂に一緒にのぼせていたら、その後の片付けにまで目は行かないだろう。

それに、高揚の後のごみって、あれ、『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』(70)の、皮肉なラストを思い出させるでしょう。
1969年、ウッドストックに集まった若者は、大量のごみを捨てて帰った。2015年、国会議事堂前に集まった若者は、ごみを持ち帰った。
自分達の価値観や願望に照らしてSEALDSを持ち上げたり叩いたりする年長者(僕もその一人かもしれない)への、みごとなアンサーだ。


 


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