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試写で見た映画(23) 『TOCKA [タスカー]』

2023-01-19 17:24:26 | 日記


デザイナーの千葉健太郎(最近は奇想天外映画祭や粂田剛の『ベイウォーク』のビジュアルを手掛けた)から、このところ顔を合わせるたび、試写を見てほしい映画があると言われた。宣伝美術で参加しているそうだ。
今、アルバイトを定期的にしたいと考えているので、面談日などが試写の日にぶつかったらごめんなさいねーと穏当に答えていた。

どんなに売れない物書きだろうとアルバイトは兼ねない、と痩せ我慢をずっと続けてきたが、最近になってとうとう、刀折れ矢尽きた(矢折れ刀尽きたかな? どっちでもいいね)、自分はメジャーになれるタイプではない、と実感するようになり、試しに短期のバイトをしたり探したりしてみると、かえってサバサバするものがあって、今、そっちにけっこう気がいっている。

なのに千葉健は、「16ミリで撮影された画面の質感と、モノラル音声を味わってもらうには、オンライン試写でなく劇場がベスト」と言葉を重ねる。
うるさいなー……と思いつつ、結局は試写の日に予定が立たなかったので、出かけた。


『TOCKA[タスカー]』

2023年2月18日よりユーロスペースほかで公開
監督 鎌田義孝
https://tocka-movie.com/





16ミリフィルム撮影・モノラル仕上げというポイントは、見ている途中ですっかり忘れる。それだけ、話のなかに引き込まれる。
いや、厳密に言うと、前半はどんよりと停滞した状態が続いて、ちょっとしんどい。それが、ある地点からグッと引きずり込まれるのだ。登場人物が急に近しくなる。最近つきあわなくなった、連絡のとれなくなった人の消息を知った時のような気持になる。
そうして見終わった後、しんみりと映画を反芻してみれば、登場人物の人生の一部に触れたような見応えと、アナログの制作にこだわった意図は確かに密接だったのだな、と気付かされる。千葉健、しつこく推薦してくれてありがと。

まず、妻を失い、強い抑うつ状態になり、商売も破たんしたすえに、自分を殺してくれる相手を探す男―章二(金子清文)がいる。
生きていてもしかたない、という気持ちで無気力に沈む女―早紀(菜葉菜)が、章二の依頼を引き受ける。
鬱屈を抱えて働き、不法なこともしている青年―幸人(佐野弘樹)が、二人に協力することになる。

章二が自死を選ばず、「殺してほしい」と望むのには、説明すれば理屈は通る種の理由と、人にはとても言えない、言ったところで理解はしてもらいにくい種の理由があり、両者がまざっている(具体的なところは、見ていただければです)。
早紀は、前者の理由を章二から事務的に伝えられているうちは、戸惑い、逡巡するのだが、後者の理由 ―章二という人間の生き方と愛情がもたらした、のっぴきならないもの― に触れた時、ストンと、最後まで章二に付き合うことを決める。
幸人は、偶然に出会った章二と早紀に巻き込まれてしまうのだが、ふたりの切迫したようすに触れた時、やはりストンと、能動的に力を貸すようになる。

ここらへんの、損得ではとても納得できない行動のほうを選ばせる話の組み立ては、物凄く細やか。三人のどんよりと停滞した状態を描く前半は、この飛躍のためのバネになっている。バネをギリギリまで押さえつけている。

私を殺してくれ、と依頼される。
そういうストーリーは、往年のミステリーものの小説・映画ではよくあったと思う。僕も『ヒッチコック劇場』や星新一のショートショートなどで、同じような筋立てで、皮肉な笑いを含んだエピソードに複数触れた記憶がある。それに、ヴィム・ヴェンダースやアキ・カウリスマキの類似作を参照していく評は、識者によって、これからきっと出てくるだろう。僕もそれを読んで勉強させてもらいたい。

そう、実はユーモアミステリーと言ってもよい興趣は、『TOCKA[タスカー]』の憂鬱な前半のなかにも隠されてはいるのである。
それがなかなか前には出てこない。日本のインディペンデント映画ではとても多い(そして正直、またか……ともなる)、ふさぎの虫に取り付かれた人々をしんねりむっつりと描くタイプの典型的な1本だな、と見る人をやや退屈させ、油断させる。

だから、三人が行動に移り出した途端の、ギュッと締まる感じには、オッとなる。
それがまた、人を喰った展開にさらに転がるところでは、試写室の場内でドッと笑いが起きた。僕もすっかりたのしい気分になった。

その笑いは、緊張からの急な緩和によってもたらされたものでありつつ、実はこの映画がユーモアミステリーの系譜につながる質を併せ持っていたことに気付かされる、してやられたな、というカタルシスでもある。
この時にはもう見ている人は、三人のよるべない状況を寒々しいリアリズムでずっと見せられてきた反動で、すっかり三人に愛着が湧く。作り手の筋運びの工夫にうまく乗せられた、と感じるよりも、あたたかい気持ちのほうが上回る。これぞ芸、という感じだ。

といって、技と計算を凝らした、ストーリーづくりの腕前をお見せしようという映画でもないのである。面白さのために、逆算で三人に抑うつ状態を求めているのではない。

心の曇りがいつまでも晴れない、苦しんでいる人はいる。その姿を丁寧に描いて、見る人に届けたい、彼らのことを隣人のように感じてもらいたい。そのためにはどうすればよいか……と作り手がこの三人のことをよく考え、好きになり、好きになったからには何がしかの希望を見つけてほしい、と願った結果として組まれ、転がっていく話になっている。
技術とこころが一体だから、芸、という言葉が出てくる。

もう少し客観的な言葉で評するとしたら、『TOCKA[タスカー]』は、近年の日本映画では少し稀少になっているトラジコメディの良作だ。

トラジコメディ (tragicomedy) とは、悲劇と喜劇の要素がないまぜになった劇のこと。
僕はこの、イギリス演劇発祥の言葉を学生時代、ザ・キンクスのレイ・デイヴィスの詞を解説した文で初めて知り、そういうの、いいなあ……とお話づくりの理想のように感じていた。
「友達がいなくたって ウォータールーの夕焼けを見ていればしあわせ」
「セルロイド(映画フィルムの素材)の英雄は 痛みを感じることがない」
(意訳です)

試写の資料によると、タイトルとなったタスカー(Tocka)はロシア語で、憂鬱や憂愁をさすと同時に、郷愁、あこがれといった意味も含んでいる言葉。
とても多義的なので、他の言語に翻訳するのが難しい言葉らしい。やはり資料に載っていた阿部嘉昭のレビューで、チェーホフの短編のタイトルにもなっていると知ると、よく分かっていないなりに、スッと腑に落ちるところがある。ナマイキで恐縮だが元シネフィル青年としては、さすが阿部嘉昭と思う。

以前、日本でも安楽死を認める法案を成立させようと活動している団体の代表にお話を聞いたことがある。
団体の主旨に、僕はまずはたじろいだのだが、会社経営者でもある代表のお話には彼なりの筋が一本通っていた。
難病の闘病期間が長かった少年時代、ただ死なないことだけを目的に、病気や治療の痛みに耐え続けるのは絶望的で、死ぬよりも辛かった。もういやだ、自分の人生の区切りは自分で決めよう、と決意した時に初めて、毎日を充実させる意欲を湧かせることができた―。そういうお話だった。

『TOCKA[タスカー]』とすぐ関係づけられることかどうかは、何ともいえない。
ただ、嘱託殺人・同意殺人の成功に向けて、三人は必死にがんばる。憂愁にひたる暇もなくなる。
つまり三人はその時、凄く、凄く精一杯に生きてしまうのだ。そこが面白くて、鼻の奥がツンとくる。

かたや『幸福の黄色いハンカチ』は希望に向かった春の北海道ドライブ映画で、こなた『TOCKA[タスカー]』は死に向かう晩秋~冬の北海道ドライブ映画。意匠をいちいち鉛色に裏っ返しているようで、この映画にも、人情がある。

大きなヤマを迎えたあともしばらく映画が続くところに、僕は特に作り手の人情を感じた。
映画がそろそろ上映時間のおわりを迎えようとも、登場人物は生きる。そうして、そう簡単には、死にたい、生きていてもしかたない、という重たい気持ちが晴れるわけではない。そこは映画の都合でスパッと切り上げたくない。

監督は鎌田義孝。初めて監督作を見た。1990年代にピンク映画の新鋭のひとりとして評判になった時には近寄らないでいて、すみません……と恐縮してしまう。
その鎌田の久々の映画に、脚本に関係するクレジットだけでも、井土紀州、加瀬仁美、中野太と、その方面では(どの方面かと問われると困るのだが)名うての人達が集まっている。
どの人も、僕より精神年齢が上に感じられて、まぶしい。


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