ワカキコースケのブログ(仮)

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アイヌの聖地、アフンルパロ またはアフンルパルをたずねるの巻

2013-11-04 09:48:24 | 日記


久しぶりに、ブログ書きおろし。

9月に北海道登別に帰省して、地元にあるアイヌの聖地「アフンルパロ」、または「アフンルパル」に行ってきた話をします。

呼び方が統一されていないのは、もともとアイヌが口承文化だから。採譜と同じで、ロとルのあいだの発音をカタカナで表記するひとによって、表現が変わるのだ。
もともと、この場所を僕は、まったく、知らなかった。
映芸ダイアリーズ~neoneoと付き合いのある(正確には、相手にしてもらっている)金子遊が編著しておととしに発行した『フィルムメーカーズ―個人映画のつくり方』(アーツアンドクラフツ)を読んだら、吉増剛造が、登別にあるアイヌの聖地、アフンルパルを訪ねたことがある、とインタビューのなかで話していて。そんな場所が自分の生まれ育った町にあったのかと驚き、恥ずかしい思いがした。

アイヌに関しては、こういう思いの連続だ。
『アイヌ神謡集』の知里幸惠、弟でアイヌ言語学者の知里真志保は小学校の先輩にあたるので、こどものころは素朴に〈自分のまちにある固有の文化〉として、したしみを持ってきた。更科源蔵のアイヌ民話集なんかは、あたりまえのように家にあったし。

しかし、登別を離れて、全共闘世代の先輩にいろいろ言われながらいろいろ勉強するうち、ちょっと詰まってしまった。
差別されてきた少数民族、と捉えて学び直そうとすると、どうしても、北海道がかつてはアイヌモシリ(アイヌの国土)であったことから逃げられない。
アーサー・ペン『小さな巨人』などのニューシネマ西部劇にゾクゾクし、ゲバラの『ゲリラ入門』に燃えてカルロス・マリゲーラの『都市ゲリラ教程』にまで手を出し、沖縄の八重山や台湾の少数民族のことも調べ……と、一時はのめりこもうとしたのだが、結局どこか、なりきれなかった。
自分は収奪した土地を故郷と呼んでいるのだ、世界の歴史上まれにみるほどスムーズに植民地化を成功させた土地の出身者なのだ、と考えると、マイノリティの側に自己投影して血が熱くなるような思いを味わうことが、自分自身に対して恥ずかしくなるのだ。

この頃だったか、「三里塚に行って機動隊に石を投げたら金を払う」とアルバイトを持ちかけられたことがある。いま思うと、1991年の成田空港問題シンポジウムと円卓会議の前。僕をこっそり呼んで誘った年上の彼が、反対運動を先鋭化させた派とつながりが本当にあったかどうかは、わからない。
生返事をして、結局いかなかったからだ。自己欺瞞のなやみの最中でもあったし、それにやはり、怖かった。
あそこでエイッといけなかった自分も含めて、さらに詰まったのだった。
少し後で出た、ブランキージェットシティの「わるいひとたち」は、すごい歌だと思った。ブランキーにはあまり縁がなかったけど、この曲(シングル)だけはひところ散々聴いた。

ただ、数年前から親しくさせてもらっている、須田茂さんという人がいて。企業に勤める傍ら、偉星北斗、鳩沢佐美夫らのアイヌ文学をこつこつと読み、解読しては札幌の文学同人誌「コブタン」に発表している。
http://www.city.sapporo.jp/shimin/bunka/dantai/d_1382.html

須田さんはやさしい先輩なので、そんな人が汗を流して書き続けている作家論、社会評論はちゃんと読まなくちゃなのだ。そのおかげで、アイヌのことはいつも頭の片隅にあったし、そのたびに、バツの悪いような思いをしてきた。


寄り道をしたが、とにかく初めて、アフンルパルを知った話に戻る。

いったんは2年前、場所を調べて行ってみたのだが(登別の町の中心から少し離れて、国道36号線から札内町へと登る坂のあたり)、藪がすごくて長靴と鎌を用意しないと、とてもたどり着けない状態で、あきらめた。

ところがその後、地元の幼馴染が、アフンルパルではなく、アフンルパロならネットでいろいろ情報が見つかる、という。
僕の町に、それは2ヶ所あった。
今回行ってきたのは、正確には白老町のアフンルパロ。僕の感覚ではまったく登別のエリア。自転車で数分で行ける、子どもの頃からの遊びエリアなのだが、登別漁港の防波堤から向こうは、隣町の白老町の管轄になるのだった。


アフンルパロは、「あの世の入り口」と言い伝えられ、ふだんはむやみに近づいてはいけない場所とされている。
白老町が最近になって立てていた看板の伝承説明を、そのまま書きおこしてみる。

「昔、奥さんに先立たれた一人の老人が、ある日の朝浜まで昆布拾いをしていたところ、遠くの方で自分の奥さんも昆布を拾っていた。そこで声をかけようとしたところ、そのおばあさんは浜辺にある大きな穴の中へ入って行きました。おじいさんも追いかけようとしましたが、穴はすぐ行き止まりになり、人間は入ることができないのに、亡くなった人は出入りするのを見て、この穴があの世への入り口だとわかったそうです。」

さんざん遊び場所にしてきた(こっそりタバコを吸ったりエロ本を見たり…)ところに、こんな由来の場所があったとは! ひとりでフラフラ見に来て、大丈夫だろうかと緊張しつつケータイ(ガラケー)で写真を撮った。


写真1 左手のほうが登別漁港。この石山(ロッククライミングの練習に利用する人がたまにいる)の並びにアフンルパロがある。




写真2 ここがアフンルパロ。おもいきって奥まで入った写真も何枚か撮ったが、アップはやめておきます。ここまで砂を掘り出したのは最近で、僕が住んでいたころは大部分が埋もれていたらしい。気づかなかったわけだ。




写真3 逆サイドから見た砂浜。僕にとっていちばんなじみぶかい、おもたい青色の海。


だがしばらくその場にいて、強烈な霊気が漂っているとか、そういうオカルト/ホラーが好きなひとが期待するようななにかは、特にないのだった。
実のところは、伝承のはなしを読んで、なんかアイヌらしくないと感じた。妙に筋が通りすぎているというか。日本神話の、イザナギとイザナミの黄泉の国ばなしに、そんなにキレイにオーバーラップするものなのかと。

帰省する前に、やはり近所にあり、父が親しくさせてもらっている「知里幸惠 銀のしずく記念館」にあいさつに出向いた。
(↓ 登別温泉に旅行に行く方、ぜひお立ちよりください。小さいけれど、とてもフンイキのよいたてものです)
http://www9.plala.or.jp/shirokanipe/

館長・知里むつみさんの旦那さんで漫画家の横山孝雄さん(この人は赤塚不二夫のスタッフを長年勤めた人で、なんとあのトキワ荘ゆかりの人物でもあるのだ。という話はまた別の機会に)に、「ようやっとアフンルパロの場所がわかって、いってきました」と話したら、意外なことを教えてもらった。
「あの世の入り口うんぬんは、ウソである可能性があるんだよ」

アフンルパロはアイヌの聖地だが、別の意味合いを持つ場所。シャモ(和人=いわゆる日本人)に近づいてもらいたくないために、シャモが畏れるような由来を伝えた。こういう説があるというのだ。

説はあくまで説ではあるけれど、感覚だけでいうと、こっちのほうが非常に腑に落ちた。
黄泉の国→死者の世界のものがたりに付随する、古代からのケガレの観念に、僕ら和人は、理屈抜きで直截に反応する。だから今も、〈呪いのビデオ〉系のタイトルにアフンルパロが使われたりする。禁忌のムードだけが独立するようになる。
だが、その観念というやつを、長い時間をかけて社会に固定された構図と捉えれば、動物も自然もみな神として共に生きてきたアイヌの民族感覚とはやはり微妙に違う気がするのだ。

では、もしもアフンルパロは「あの世の入り口」という伝承が一種の情報操作によるフィクションだったとしたならば、真の意味合いは何か。なぜ、このような横穴を(登別の石はとても柔らかいことで知られるのだが)掘ったのか。
これが、分からないのである。
アフンルパロを市の記念物・史跡に指定している登別市のホームページでの説明、「名称や付随して語り伝えられている伝説や信仰から、祭祀関係の遺跡と考えられていますが、本来何であったかは分かっていません。」以上のことは。

スッキリしない思いは持ったのだが、1ヶ月以上たってみて、わからなくていいのかな、という気持ちにもなっている。
むしろ、わからないってことが答えであってもいいのではと。
谷川健一の「日本人を照射する異質文化」という1972年の文章を読んだら、「アイヌがおくれた文化の持主ではなく、ちがった文化の持主であること」という一文があり。
そういうことは、少数民族文化を理解する心構えの基本中の基本として、多少意識を高く持つひとなら言わずもがなのようであるけれど、でもやはりこうして念を押されなければ、うっかり抜かしてしまうことだと思った。

ちなみに、「日本人を照射する異質文化」は、『原風土の相貌』(1974 大和書房)に収録されている。
近代の日本人のアイヌ差別は、異質な文化であることがハッキリしていたゆえに直截だった。差別は支配層による作為だった、とものすごく端的かつ明解に書かれてある。
「天皇にまつわる宗教的な神聖観念を維持するために、天皇制の神聖不可侵を最底辺から映す鏡として、の存在は必要とされたからである。したがっての真の解放は天皇の神聖観念からの解放が社会的におこなわれないかぎり困難なことは明らかである。」

この考え方は、僕の先輩にあたる世代のリベラルな文化人の、基本的なコンセンサスだった(と言っていいだろう)。
で、(先に書いた左派かぶれ青年だった時代の)僕もまっすぐ受け取りつつ、正直、天皇制を権力の発生装置とみなし天皇打倒をなすことで社会悪がぜんぶ消えるのか、理屈が先に立っていないか、という疑問をついに消すことができなかった。
どちらかというと、そういうものを利用したがる(支配層を自分達のほうで作りたがる)習性のほうにこそ、日本人の宿屙があるんでないかと。

アフンルパロから話が逸れているようだが、先の、園遊会でのお手紙騒動がモヤモヤしていることも、僕のなかではどこかつながっているのだ。あれはものの見事に、いまの世の中でいいこと/わるいこととされている隙間、空白地帯(猪瀬直樹の『ミカドの肖像』で言えば「空虚な中心」)を浮かびあがらせた。天皇制はまさに制度として語ることができても、天皇そのものとは何かは、アイヌの聖地と同様に僕はまだまだわからない。

でも、説明書きの看板がなければ、ただの穴。そう書いてしまった途端に答えはぜんぷそこに内在される、という気もしてくる。


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1 コメント

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アイヌ文学の探求者 (根保孝栄・石塚邦男)
2014-06-04 04:58:34
「札幌の同人雑誌「コブタン」はアイヌ人鳩沢佐美夫文学の研究者で知られる須貝光夫氏の個人誌として昭和五十年前後に出発。以降現在まで37号まで続いている。

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