ワカキコースケのブログ(仮)

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『かぐや姫の物語』を見た(1)

2013-12-22 05:34:52 | 日記


『かぐや姫の物語』

を見た。僕の結論を、さっさと言っておこう。高畑勲の最高作。高畑勲の最高作ってことは自動的に、戦後アニメーションの最高作の1本。ってことは、それはもうアータ、公開半ばにして、すでに映画史上の重要作の1本。
http://kaguyahime-monogatari.jp/


この映画を見て絵を描くことが好きになる子、おはなしを考えるのが好きになる子、外に出てあそぶのが好きになる子が成長したとき、いや、せっせと筆をとるうち、そういえば子どものころにかぐや姫のアニメ見たよなあ、と思い出すとき、ようやく真価が世に根付くのだろう。さめざめと、さめざめと、そういう質の作品である。作画がすごいとか革新的だとか、オトナがあれこれ言うもんでない、という気にのっけからなる。

一方で、別に今回に限らず、高畑さんのアニメは、ジブリのアニメはみんなそうじゃないか。だから広く愛され続けているんでしょ、とも言える。
それはそうなんだけど、それでも『かぐや姫の物語』は愛の質がやや違う。高畑勲も宮崎駿も、この世のすべてを愛するためのアニメーションを作り続けてきた人だが、今回は自分の国の歴史、さらに自分達の仕事の歴史、を含めて愛している。おそらく集大成、ということになる。


(1度目を)見てから、「ユリイカ」2013年12月号(青土社)の特集「高畑勲『かぐや姫の物語』の世界」を、けっこうじっくり読んだ。

普段の研究の開陳は本当に内容があるのに、それと映画を絡めるのに苦労した結果、論旨を「東日本大震災以降」に寄せようとする優等生のミスでかえって幅を狭くしてしまっている方。やはりまとめの部分で、宮崎作品のキャラクターを混同させてしまっている方。引っ掛かりはしたが、責める気は起きなかった。〈精神分析医が語るハリウッド映画〉のような本の大半が悲惨な結果に終わるのと同じで、専門家がご自身の領域のアングルから映画を語ろうとすれば(映画は映画である、と虚心の態度で接しなければ)、どうしても多少の無理は生じる。あたたかい目で、あげつらうことをしない。なにしろ『かぐや姫の物語』について、おそらく大急ぎの時間で書いてくださっているのだから。愛です、愛。

だから、川上量生をよく知らないで開いたため、なんでこの人がワンマン主役の誌面構成になってるの? と首を傾げたし、久々に買ってみると冷凍保存のように〈イナカモノの考えるカッコイイ世界〉のままなので(ウィスキーの広告記事のモデルが園子温、文章がMORI NAOTO-おそらく売れっ子映画ライターさんのローマ字表記-の三点御誂えはあんまりなので、村上龍がブランド・スーツを着ていた時代のパロディであってほしいと願ったのだが、読んでみたら本気だった)、一度は誰かにあげてしまおうと思っていた「Switch」12月号(スイッチ・パブリッシング)にしても、愛の心でとっておく。そう、広告記事をこさえるのは大変なのだ。MORI NAOTOさん、ごくろうさま。
(ただ、特集で川上の「年上たらし劇場」のような穏当な対談が並ぶなか、東宝の川村元気とのデジタル環境を巡るディスカッションは、お互い譲れませんってところを話し合うので、健全な緊張感があった。この記事はよかった)


それで「ユリイカ」だが、かぐやの愛に導かれて謙虚に読めば、高畑本人、プロデューサー西村義明のインタビューはもちろん、他にもすばらしい記事たくさん。特に勉強になった記事をあげておく。

★保立道久(歴史学)の、かがやく光をさすカグヤ姫のルーツは、火(火山)の神カグツチまでさかのぼる指摘(原典の最後に出てくる富士山は古代、よく噴火していた)。また、万葉の時代でも、物忌み(神事の前に心身を清浄にする)の女性は青竹の飾りを身に着けていたことは、初めて知った。

★福嶋亮大(文芸批評)の、折口信夫の「日本の物語の神は、しばしば人間の傍で成長する、人間に育てられる形をとる」という記述の紹介には、壮絶にひっくり返った。そうだ、僕は「地球はイデ隊員の星」http://intro.ne.jp/contents/rensai/ide.htmlで、そこらへん(毎回、怪獣との戦いぶりにムラがある初代ウルトラマン)をうまく言えなくて、いろいろ言葉をまさぐっていたのだ。世のなかにはしかし、イナズマのような解読をしてのける方がいるものだ。……って折口信夫だもんね!
福嶋という方も立派で、そこから積み立てて、『かぐや姫の物語』は、人間のもとで成長できなかった「孤独な神」を描いた作品と指摘している。鮮やか。独自の視点と愛が一体で。

★いちばん読んでいてグイグイ持っていかれたのは、やはりというか、小谷野敦(比較文学-こういう場では作家とは名乗らないものなのですね)。「かぐや姫は小和田雅子である」なんて、飛び道具のようなフレーズでジーンとさせるんだから。本人も捨て石になるつもりで書いたが評判が悪いと認めている、今年出た『高畑勲の世界』(青土社)。読んでみたいと思った。この人の高畑論なら、多少の誤読や瑕瑾があろうと、きっとおもしろいだろう。

★細馬宏通(コミュニケーション論)の、『かぐや姫の物語』の作画の線の凄さは、めぐりめぐってアメリカのアニメの最初期、『恐竜ガーティ』(1909)のウィンザー・マッケイのように、ペン画で描かれたカートゥーンの個人創作に近くなっている、という指摘もゾクゾクした。つまりは、つまりはセル画による集団制作のルール(分担しやすく、彩色しやすい線の統一)以前の、漫画映画の原点への回帰。しかしそのスピリットの回帰が、桁外れの手間と予算、人員の労力によって行われたことで、アニメーションの歴史に、空前の、新しい前例をつくった。


ここからは、「ユリイカ」では論じられていなくて、僕があれこれ妄想したことを書く。

姫の育つさま(描かれている途中でどんどん成長していくあたりのマジックは、本作の語り草のひとつになるだろう)が愛くるしくてたまらない、少女になってからの超絶美少女振りには何度か死にかけた、ということはキリがないので触れません。
NHKのドラマ「とめはねっ!鈴里高校書道部」(10)で、わァこの子は凛としていていいなー、なのにその後はヒロインの友達役なんかが多くてもったいないなー、と密かにじれったく思っていた朝倉あきさんの抜擢。もう、これだけでも夢のようにシアワセだったりする。「とめはねっ!」に彼女を起用したプロデューサーさんは、さぞかし嬉しいだろう。


(Ⅰ)原典「竹取物語」について

事前に、角川文庫の中河與一訳注版「竹取物語」(1956年初版)を読んだら、子どもの頃に読んだものと内容がまったく同じだった。古典を子ども向け読み物にするときにしばしば行われる、省略と編集をする必要がないほど土台がコンパクトなのだ。そして、子どもの頃読んだままなのに、鼻水が出るほど面白かった。

(1)翁と媼が竹林から見つけた姫を育てる
(2)美しく育った姫は求愛をことごとく断る
(3)月から迎えが来て姫は去る

この3ブロックからなる。それでもさすがにかぐや姫の「天上の罪」までは、子ども向け本には書かれていなかったかな。「罪」という言葉にはつくづく驚く。
2ブロック目にあたる貴族達の悪戦苦闘は、当時の支配層への怜悧な風刺であると同時に(しかも姫は帝=天皇の求愛すら拒む)、物語上は非常にうまいチェンジ・オブ・ペース。嘘でも天竺に入ってきた話が出てきたり、大嵐の海の遭難話が語られたりするので、「千夜一夜物語」とよく似た興趣がある。こういう派手でユーモラスなエピソードが挟まることで、起・承・承・承…結の構成は中河與一が解説で断言している通り、「完全」に近い。ヨーロッパでも古典的な劇の構成は3幕が多いはずだ。

書物として初めてまとまったのは、平安時代(10世紀初頭の延喜年間かそれ以降か)ではなかろうかとされている。突然、天才的な作家が貴族の中に現れて……ではなく、昔から語り継がれてきた話を誰かがまとめたのだろうと。
そのエディターぶりが今書いたように見事なので、作者は同時期に「古今和歌集」を編集した紀貫之、と推察する説が根強いのはよく分かる気がする。(あくまで教科書レベルの知識で言うが)紀貫之は「土佐日記」を後で書くことになる、日本のエッセイ文化のパイオニアでもある。まあ、紀貫之でなくてもそれに近い、「当時ではいちばん現代的な感覚」を持った文化人が編集・構成した書物。だから、日本最古の小説(及び日本最古のSF小説、と捉える見方も一時期流行りましたね)、となり得るだけの新鮮な強度があったわけだ。

姫が現代の美少女顔である。みな新劇のようなセリフでやまと言葉も当時のオフィス言語である漢語も用いない。野山があれだけ里山のように整備されている状態は中世以降ではないと考えにくい……などといったつっこみどころは少なからずある。実は僕も、少しここはどう捉えたらよいか迷った。これだけ作品世界が描き込まれていると、「平安時代を見事に表現している」とうっかり絶賛してしまう映画評論家や批評家が現れて(またそういう人ほど大きな媒体をお持ちなんだよこれが)、かえって批判を招きかねないからだ。
しかし先に書いたように、原典の「竹取物語」にしてからが、「昔から語り継がれた話を現代の視点で完成させた」ヴィンテージ・カルチャーの清新な感覚を持っているのだ。そこに則って『かぐや姫の物語』は作られている。

大体において、物語を「昔々おじいさんとおばあさんがあるところに住んでいました」から始める、この超オールド・スクールなルールは、「竹取物語」以前からあるらしい。もとをただすと「古事記」のアシナズチとテナヅチにまでさかのぼるようだ。可愛がって育てた美しい娘・クシナダ姫をヤマタノオロチに差し出さねばならない、とシクシク泣いているあの老いた両親だ。
「桃太郎」にしろ「一寸法師」にしろ、「おじいさんとおばあさん」は他に(なぜか)家族がいない。しかし働き者である。そして不思議な物語の主人公を迎え、成長させる。
これはある民俗研究の本で読んで印象に残っていた指摘だが(その本の題や著者が分からない……スミマセン、ここが一介のライターのブログの限界です)、どうも「おじいさんとおばあさん」というのは常世の社会を代表する堅実な「一般ピープル」の最小単位のことに過ぎず、説話を始める時のパターン化された物語の基盤、ひとつの象徴らしいのだ。
(余談になるが、象徴ならば、落ち着いて老成さえしていれば実年齢は問わないだろう。なれば、都会の片隅で最小単位の夫婦であろうとする『なにもこわいことはない』(13)という映画は、現代の最も新しい「昔々おじいさんとおばあさんがあるところに住んでいました」に応じた説話といえる。規模は対極に近いが、これも今年の良い映画の1本なのでちょっと脱線させてもらった)
だから『かぐや姫の物語』は、「おじいさんとおばあさん」を、庶民的だがなかなかの知性と聡明さを併せ持った都市郊外に暮らすミドルの夫婦として生彩ゆたかに描いた、その時点で「昔から語り継がれた話を現代の視点で(再)完成させた」物語以外にはありえなくなる。


以上のことを、高畑勲がよくよく咀嚼していない、はずがない。
むしろ、21世紀初頭に更新された新版が、10世紀ぶんの期間の人情や文化を包括していなければかえっておかしい、ぐらいには考えていたと思う。それが物語を語り継ぐ者の、古びかせないための責務であるかもしれないからだ。


わー、さっぱり書ききれないや。続きます。
次回はけっこう肝心な、姫の「罪と罰」について、僕の思うところを。

 


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2 コメント

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Unknown (小谷野敦)
2016-01-03 22:06:16
いや、名のらないというより勝手につけられた。
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Unknown (Unknown)
2016-01-03 22:27:20
あ、そうだったんですか。失礼しました。……小谷野さんご本人なのでしょうか?だったら、もったいなさ過ぎて緊張です。ありがとうございます
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