ワカキコースケのブログ(仮)

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『ゴジラ-1.0』を好ましく見たの巻

2024-02-03 02:43:56 | 日記


先日、友人と、評判の新作映画の話になり。
その映画を見ていないと返事したら「ほーらヘソ曲り。どうせ、みんなが見ている話題作なんてケッ、とか思ってるんでしょ」と言われ、「そ、そんなことないよ! ちゃんとですね、なんでも見ようと心がけてはいるけれど、人にはさ、優先順位というものがあるじゃないか」等と口をとがらせながら反論した。

つまり、半分以上は図星だった。くやしくてちょっと泣きそうになり、評判の新作映画のなかでも特に気が進まないものを見に行った。それが、昨秋からロングラン中の『ゴジラ-1.0』(2023)。ゴジラ・マイナスワンと読むみたい。
結果、とても面白く見た。内心ケッとか思っていたぶんの落差も大きいだろう。SNSでの感想は長くなりそうなので、ザザッとメモ出ししておく。



ゴジラについてはこのブログで、「断章〈ゴジラと私〉」というタイトルで一度書いている。昭和ゴジラシリーズの中断期がちょうど小学・中学の9年間と重なったため、僕にとってゴジラは初めての失恋の相手であり続ける……という恨み節を綴ったものだ。もう10年前になるのか。
https://blog.goo.ne.jp/wakaki_1968/e/9f5fe757628547aa6b58d4074b4e4f95

なもので、別に大した内容の文にはならない。他のもの同様、映画の物書きのなかでいちばんゴジラを語れないのはワカキコースケ/若木康輔、位の気持ちでお読みください。

なんで気が進まなかったのかの理由を書くと、監督が山崎貴だから……に尽きます。
今まで見ている監督作品は、『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズ(2005~2012)3本と、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』(2010)、『STAND BY ME ドラえもん』(2014)。
良し悪し以前に、自分とは全く周波数の違う、関係のない人が作っているという印象で、それ以上何か言いたい気持ちが湧かなかった。批判的態度よりもずっと冷ややかだった。
まあ、〈先達が作ったものに自分色を上塗りしていくキャリアの人〉にわざわざ付き合う必要はないでしょう。ハイハイ次はゴジラなんですね、ともなっていたので、それがまさに、ケッという感情だったかな。

〈自分色〉がなんでも悪いわけではない。西遊記も三国志も竹取物語も宮本武蔵も忠臣蔵も、〈自分色〉の更新によって残り続けられてきた。ゴジラもそうした歴史的な存在、累積的創作物の仲間に入ったわけで(東宝がライセンスを持ち続けるのは近代以前とのれっきとした違いだが)、むしろめでたい話ではある。
作る人の野心がオリジナルへの尊重を上回り、傲慢なものになってしまってもいい。それはそれで、別の〈自分色〉のものが新しく生まれる動因になっていくので。

だから今のところ僕は、山崎貴が〈自分色〉を塗ったヤマトやドラえもんについては、自分とは関係ないもの……という冷ややかな印象しか持てなかったのに、どうして今回、同じ山崎貴が〈自分色〉を塗ったゴジラについてはとても面白く感じたか? は、まだ整理できていない。
ただ、もう一方の〈先達が作ったものに自分色を上塗りしていくキャリアの人〉が作った『シン・ゴジラ』(2016)よりも健康的な広がりを感じる点、あまり怪獣映画に興味ない人にもゴジラって面白いね~と言ってもらえそうな点への好感は、大きなものだった。

そう、『ゴジラ-1.0』に関しては、僕が1本の映画としてどう見たか読んだかなんてのは些末な話であって、それよりも、多くの人がゴジラという映画のシリーズに新鮮に出会い、また出会い直してくれている様子なのが嬉しい。ゴジラをそんな存在に戻してくれたことが、ありがたいのだ。やはりそこはファン心理に近い。

ゴジラ? 子どもと、怪獣好きなイケてない成人以外には全く必要がないもの―。そんな冬の時代を知っているから余計に感慨がある。
スペースゴジラやデストロイアとの闘いに付き合っては、こういうことでいいのだろうか……と、わびしい気持ちで映画館(僕の場合は新宿コマ東宝)を出るのが、毎年の年の瀬の恒例行事だった。分かる、自分もそうだった……と言ってくださる人には、静かに敬礼を送りたい。

さてさて、『ゴジラ-1.0』のどこらへんが具体的に好ましかったのかも、さすがに少しは書いておこう。

まずシンプルに、市井の人々が力を合わせて困難と戦う話、にギュッと絞れているのがいい。アメリカのエンタテインメント活劇の、万国共通に楽しめる要点が何かをよく身体に入れた人が作っている、と感じた。そういう意味で、初めて山崎貴という監督に近しいものを感じたし、同時に初めて尊敬も覚えた。

戦時中に海中に敷設されたままの機雷を、航路再開のため除去する作業が戦後すぐに始められていた。そんな、非常に面白いが地味な史実を見つけ出すアンテナと、ゴジラを海底に沈めるための今までにないアイデア。
どちらも、よほどふだんから勉強していないと出てこないものだ。山崎さん一人の頭だけで出てきたことでなく、ブレーンのチームがあったのかもしれないが、それだけのブレーンがいることだって映画監督の立派な才覚である。

実際、僕はまさに同じ題材である、1981年の直木賞を受賞した光岡明の小説『機雷』(講談社)を単行本が出てすぐに読み、直木賞なのに映画にもドラマにもならないなんて珍しいな……とボンヤリ考えていたことを、40年以上振りに思い出させられた。その間、すっかり本の存在さえ意識から飛んでいたのだ。『ゴジラ-1.0』にはそんな、“忘れられた直木賞小説『機雷』の理想的な映画化を幻視できる”という妙味がある。

話を戻す。参照されたアメリカ映画はいろいろ挙げられると思うが、僕は特に、おおジェームズ・キャメロンをやってる……! となった。
ドカンと第一線に躍り出てきた時のキャメロンが、『ランボー/怒りの脱出』(1985・脚本)と『エイリアン2』(1986)で念を押すように繰り返していたテーマが、〈人は、恐怖の記憶を克服するためにはその恐怖と再び向き合わなくてはならない〉だった。ふだん抑圧している心の疵まで遡り、再体験することで軽減させる心理療法「プライマル・セラピー」の援用である。ちなみにジョン・レノンの「マザー」(1970)は、ジョンがこの療法を受けた副産物だと言われている。

『ゴジラ-1.0』の主人公・敷島(神木隆之介)の後悔、怯え、人から見れば何が理由で急に怒り出すのか分からない不安定さ。そして、その原因(戦時中の特攻任務から逃避したやましさと、ゴジラの出現に竦んだために多くの人を殺してしまった罪悪感)と向き合うと決めてからの張りつめた表情と行動力。再びベトナムへ赴くランボーや、エイリアンの巣のなかへ飛び込むリプリーそっくりだ。

とはいえ敷島の場合、原因は複合している。結果としてはシンプルに映っているが、練り合わせ、乳化させるまでの脚本作業は実はかなり大変だったのでは……と想像される。
精神的外傷と向き合う、と決めた敷島に狂信性が宿ってしまうところまで描いているのが隠れたミソ。
ゴジラ掃討作戦に必要な整備士を探し出すため、敷島は、彼を誹謗中傷した手紙を各方面に送りつける。普通に探すだけなら彼は黙ったまま出てこないかもしれないが、名誉を傷つけるところまでやれば激怒して必ず抗議に現れるはずだ、と、そこまで踏んでのことだった。ここらあたりの描写には、へええ……と唸った。

『ゴジラ-1.0』は、戦死が誉れとなる価値観のもとの戦争で生き残ってしまった元軍人の我々は、今度は、全員生きて帰り、明日を建設するための闘いをしよう! となっていくところに爽やかで骨太なテーゼの魅力がある。
なので、繊細な理性を持つヒューマニストゆえに特攻を敢行できなかった敷島が、ゴジラ掃討作戦ではエゴイストになる、という変化の綾はかなりフクザツな、むしろノイズに近いものだ。なくてもいい気もしたが、あるために(僕が今まで見た山崎貴の監督作で感じたことのない)コクが生まれている。

GHQもCIEも存在せず、東宝争議も起きていない戦後の東京の復興かいな……という疑問についても、僕は一応理解できている。先述のテーマに収斂させていくため、思い切って外せるところは外す判断として。
ゴジラが核実験の影響で肥大化し、放射性物質を体内に蓄えたモンスターであることを登場人物達があまり言葉で説明しないのも、戦後史に残るレッドパージを行った経験を持つ映画会社の看板シリーズのなかで、最大限伝えられるメッセージのための戦略として、理解できる。ゴジラが暴れ回り、廃墟と化した街に〈黒い雨〉が降る。なぜ雨が黒いのかは、誰も触れないけれど、とにかく降る。

亀井文夫や山本薩夫を放逐した過去のある東宝がよくやったなあ……と思うが、これは僕の予断、うがちが過ぎるかもしれない。そういう僕も、もしも識者から「いやいや、東宝には『世界大戦争』(1961)という、核の脅威・不安を当時のどこの国よりも真摯に描いた名品があるではないですか。山崎さんはちゃんとそこまで意識の射程に入れて『ゴジラ-1.0』を作っているのですよ」という声をいただければ、たちまち納得するだろう。

しかし、それでも、ゴジラのバックボーンをほとんど描かないのは大胆だと思う。
それゆえに『ゴジラ-1.0』のゴジラは、シリーズを通しても指折りで怖い。人間の手に負えない、災厄そのものの象徴だからだ。
なぜゴジラは東京にまっすぐ向かい、東京を襲うのか。映画はエクスキューズを用意していない。そこに理由がある。
大きな災害や原発事故が起きた時に、僕(ら)がつい思うけれど口に出してはいけなくて、すぐに意識の奥に押し込んでしまう言葉―東京でなくてよかった―を、ゴジラはひっぺ返しにやってくるのだ。

 


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