ワカキコースケのブログ(仮)

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FBのコピペ~2012年に見た演劇より・三谷幸喜と鵺的

2013-10-28 14:25:50 | 日記

およそ半月ぶりの更新だ。うれしい。
このあいだに、山形国際ドキュメンタリー映画祭に2泊3日だけ行き、その後はひたすら、番組の台本を書いて、また書いて、でした。

ヤマガタについてはneoneoサイトのデイリー・レポート、4日目、5日目に書いています。

http://webneo.org/archives/11653


番組については、レギュラーはおいおい触れるとして、久々に新規の単発をやったのでそちらを告知させてください。
広島ホームテレビで11月2日のお昼に、「ダイドードリンコスペシャル/日本の祭り」シリーズの1本として、〈吉浦カニ祭り〉篇が放送されます。それの、構成を担当しました。
 
・久々に新規の番組をやって、広島のスタッフさんがたが男子校ノリなこともあり楽しかった、ただし作業上ではちょっとブランクを感じた、それも含めて勉強になった
・ローカルな祭りゆえに、神々と人間の関係性=ものがたりがよりプリミティヴな形で顕れており、個人的にも非常に発見があった
 
と、いろいろ頂きました。広島エリアのみの放送なので、視聴できる方、たのしんで頂ければ……と思います。
(来年には、BS12、MXTVでも見られるようになる予定です)

http://www.dydo-matsuri.com/list/yoshiura/


ヤマを越えた昨日は合計、20時間近くクークーと寝て。
残った仕事(こっちは無署名のゴーストライター仕事)の、「なるはやでお願いします」メールを開いてしまうまでは、とても平和だった。
フリーランスですからね。途切れず注文をいただけること、ありがたいと思わねばなりません。


そういうわけで、今回は去年、2012年のフェイスブックのリピート。
鵺的という、劇団というのか、ユニットというのか、ともかくそういう名前で集まってらっしゃるところの最新公演の最中(11月3日まで。サイトご確認くださいhttp://www.nueteki.org/)なので、予習にどうぞという感じ。前半は有名なひとので、鵺的については後半ですが。


8月に書いたものです。(neoneo的メモ、は長文の時の便宜上タイトル)
 
  
 
 
【neoneo的メモ ♯7】
演劇 『三谷版「桜の園」』/鵺的『荒野1/7』


山下達郎のツアーや中島みゆきの「歌会」と同じぐらい、三谷幸喜の舞台は一度ナマで見たくてもチケットが手に入らないもの、と思い込んでいました。誘ってくれた友人は、普通に予約して普通に手に入れたというから驚きです。おかげで7月上旬、話題の舞台を渋谷のPARCO劇場で見ることができました。
では僕が三谷ファンかといえば……、残念ながら、性に合わないほうだと思います。
http://eigageijutsu.com/article/254527590.html
わざわざ三谷映画をワーストにするような奴はなにを考えてるのか、と映芸編集長がベスト・ワースト号でピシャリと書いたことがけっこう「さすがの発言」と巷で評判になったので、こちらにも一分の理あり候、と真冬に汗をかきつつ書いたものです。巷の反応がゼロだったのは仕方ない。無名の人間の正論ほど退屈なものは無い、と自分でも思います。

ただ、性に合わないのはあくまでドラマや映画における三谷作品で、このひとの本領である舞台を見たら印象は変わるのではないか。中継録画で見た『笑の大学』は面白かったので、ずっとそう思っていました。エッセイも基本的には好感。

見終ってすぐ友人と言い合ったのが、「『桜の園』ってどんな話か、よく分かるねー」。
チェーホフがわざわざこの没落貴族の悲劇(という印象がかなり強い物語)に、なぜわざわざ「喜劇」と銘打ったのか。軽妙と荘重が織り交ざったトラジコミック、悲喜劇的というならよく納得できるんだけど……。誰もがいっぺんは通ってきた疑問ですよね。それに対して三谷氏は「答えは全部戯曲のなかに書いてあるのです」という至極ストレートな解釈でもって答えています。

ほぼ原点そのままをやりつつ、くすぐりや会話が噛み合わないおかしさを、よりコメディ調にふくらませている。例えば女主人ラネーフスカヤが世間知らずの大学生トロフィーモフをからかうところは、急に今よく使う言葉をまぜているのだなと思ったのですが。新潮文庫の神西清訳を読み返したら、「まるで中学の二年生みたい!」と書いてあるので驚きました。中二病の語源は、伊集院光ではなくなんとチェーホフだった。

地主一家が屋敷と土地を売却せざるを得ない瀬戸際なのに、ゆきあたりばったりの対応でどんどん問題がアイマイになってしまうおかしさが確かに筋運びのメイン。これは発見でした。
これまでにも、確かどこかで『桜の園』の公演を見ているのですが、記憶がハッキリせず。それより数年前にNHKが放送した、おそらく1960年の俳優座の貴重なビデオ収録が印象深いです。

女主人ラネーフスカヤ=東山千栄子
ガーエフ(その兄)=小沢栄太郎
ワーリャ(養女)=杉山とく子
トロフィーモフ(家庭教師)=井川比佐志
ピーシチク(旧知の地主)=三島雅夫
ロパーヒン(商人・かつての小姓)=稲葉義勇

メモ出ししてみると、俳優座ってスゴイね。
で、この公演や、新藤兼人が『桜の園』を実質的原案にした映画『安城家の舞踏会』では、先に書いた会話の噛み合わないおかしさは、やはり階級・身分の差、意識のズレがベ―スになっていた。
三谷版は、みごとにそうした社会性が無いのです。あくまで間の悪い、思い込みの軽率な人たちのやりとりで、事態がなるようにしかならなくなる顛末をテンポよく畳み掛ける。19世紀末も現代も、人間のオッチョコチョイなおかしさは変わらない、という解釈。どんな話かよく分かると思ったのは、そういうことからのようです。

演出とはつまり、ひとつのものごとの解釈の提示なのかなあ。
古典演劇が演出によって表情をガラッと変える面白さは、neoneoでドキュメンタリーとは何かを考えるうえでも(http://webneo.org/ インフォマーシャルです。8月23日にウェブだけでなく紙も出しますよイベントあります)なにがしかの参考になると思いました。それで、neoneo的メモです。

ただ、「三谷版」がなかなか面白かったのは確かとして、階級差の視点の緊張が失せた物足りなさは残りました。小姓のせがれである商人のロパーヒンが、かつての主人の土地を買ったと一気に打ち明ける場面。先に書いた俳優座の録画の、かなり状態の悪い画質でも、稲葉義勇の興奮と屈折が摩擦熱をおこしたような演技は凄かった。闇成金や新興の経営者がまさにギラギラしていた戦後のリアリティだったのだと思います。
「三谷版」の場合、そこをあえて淡白にしたというより、もともと社会性に興味がいかない人、という弱さは舞台においても通じていたようです。

ちなみに、ヘンなかたちのフォローをしますが、三谷氏の映画監督作品も「日本のビリー・ワイルダー」なんてフレーズを自他ともに認めて独り歩きさせているもんだから、余計にパチンコカントリーの躁的薄さが際立ち、見ていられなくなるのだと思っています。
日本のフランク・タシュリン。日本のノーマン・タウログ。大体それぐらいで寸法に合うスケールの人ですし、かえってそのほうが奇特なコメディ主義者としての貴重さは増し、もっと好ましく接することができるのだけど。

まあとにかく、三谷幸喜の舞台をいちどナマで見ておきたい、という希望は達成。もうしばらくは観劇の余裕はないのでお休みだな、と思っていたのですが。
サイトのニュース記事に掲載した(http://webneo.org/ なにしろインフォマーシャルでございます)演劇ユニット鵺的の第5回公演『荒野1/7』。これに、ガツンときました。
連日盛況で、ギリギリこの日ならば、と教えられて慌てて出向いた回もキャンセル待ちの行列に並び、なんとか立ち見で入れました。

具体的にどんな話かは……、近々の再演を期待して、今はよしましょうか。
僭越ですが、今まで見た鵺的とは別の圏内に入った、と感じました。もう、実際の事件をモチーフにした作風とアプローチがドキュメンタリーと通じる云々という見立ては通用しない。
しかし逆に、現実の世の中の影に隠れているもの(カメラにはなかなか映らないもの)をワッと鷲掴みすることができる、劇=フィクションの強さを改めて感じました。
帰りの電車、ボンヤリして井の頭線に乗るはずが山手線に乗ってしまった。ああ、我々はかくもよるべなき時代を生きているのだ。そくそくと満たされる、哀しさ、あたたかさ。これは少し残念ながら、今年見た日本の新作ドキュメンタリー映画のなかで、ここまで芯まで射抜かれたような気分を味わったものはまだ1本もありません。

鵺的主宰で、今回の作・演出の高木登さんと終演後、ササッとお話ししました。
「いやーこれ、岸田賞いけますよ、獲りにいっちゃいましょうよ!」なんて他を知りもしないくせについワーワー言っちゃうのが僕のケーハク極まるところで。僕の場合、作家本人を存じ上げているのがライターとしてメリットということは全くないですね。ホントに。川勝正幸の業界エッセイみたいにはいかない。ワーワーするだけで、まともな感想は言えなかったな。

よるべなき時代を生きている哀しい実感、と先に書きましたが、じゃあ、よるべなくない時代が戦後ニッポンにあったのかと言えばおそらく無いわけで。小演劇はそのつど、作者とかたちを変えて、僕らをドキッとさせ、立ち止まらせてくれる役割を担っているのかもしれません。
60年代は別役実の『マッチ売りの少女』、70年代は北村想の『寿歌』。そして、10年代は高木登の『荒野1/7』。言い切ってしまってよいことになるかも、と間違えた電車で遠回りしながら大風呂敷が広がって、でもその誇大妄想に手応えを感じたのは確かです。
少なくとも、『荒野1/7』の初演をオレ渋谷で見てるんだよネ、と言ったらいずれ自慢話にできる可能性は間違いなくある。
 
 

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