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試写で見た映画(13)『祭の馬』

2013-11-17 13:10:28 | 日記


今年の1月からブログを始めてみて、むしろ時間がなくて書き置けない……と残念で、せつないことのほうがケタ違いに多いのだと思い知らされている。
もう、映画でも本でもレコードでも、どんな話題もツイッターに毛の生えたような短い文章にしちゃって、そのぶん、ひんぱんに更新したほうがいいんではないか、と揺れております。

このブロク内連載、〈試写で見た映画〉でも、こぼれてしまう映画が複数。『祭の馬』も、たっぷり書きたいぞーと思ってから1ヶ月以上たってしまった。


『祭の馬』
2013 3 Joma Film/ドキュメンタリージャパン/東風
監督・撮影・編集  松林要樹

配給・宣伝 東風

12月14日(土)よりシアターイメージフォーラムにてロードショー ほか全国順次

http://matsurinouma.com/


あのね、この映画、なんか好き。全体に、かわいい感じがした。

かわいいと言っても、馬が出るからではない。そういうことではない。
動物という存在ははなから愛おしいものなので、わざわざ口にする必要はない。口にしたがるのは、根っこに情がないからだ。ワンちゃんネコちゃんが出る映画にことさら「キャー」「カワイイー」と喜んでみせる映画マスコミの女性は大抵、人情が通じない、心のひだがツルツルなタイプだと思って間違いない。もちろん、ふだんはそんな〈ポイズン若木〉な部分はおくびにも出さず、どんな女性にも優しいです。

ではなにをかわいいと思ったかというと、この映画を撮り、紡いだ監督の意識、みたいなもの。
わー、馬ってけっこうデリケートなんだ、清潔好きな神経質なところあるんだ、へえ、ヒヒンといななくとこんなに歯茎が剥き出しになるんだ、といちいち発見を喜んでいる節がある。
こういうことに気づいたのは、同じ日に試写を見ていた競馬ファンの某氏が、赤鉛筆でおウマさんの勉強をしてきた身からすると「やや食い足りない……」と言っていたからだ。
逆に僕は馬のことがさっぱり分からない。戦前に樺太から北海道に移住した祖父が牧畜業で馬を扱い日高とも縁があったり、遠い親戚に競馬の世界では有名な調教士がいたりするのだが、そのなまじな距離ゆえにますます、自分は馬について不案内であると差っ引いて考える意識が強い。
なので、オーソナリティーがよく理解したうえで撮っているのでなく、モチーフについて考えるうち馬と出会ってみるみるハマッていく、その途上なようすに、瑞々しい、近しいものを感じたようだ。

監督の松林要樹本人がかわいい人なのかは、別。挨拶をさせてもらったことがある程度なので、それはよく分からないし僕には関係がない。例えば、どんなに性格が悪かったと聞かされようが、アルフレッド・ヒッチコックの映画大好きなわけだし。
ただ、『花と兵隊』(09)、『相馬看花 第一部 奪われた土地の記憶』(12)と見てきて、ドキュメンタリー関係者のみなさんがどうしてそこまで松林という人に注目し、期待し、ひらたく言えば彼の酒癖やマイペース振りなどを噂にするとき妙に楽しそうなのかはピンとこなかった。スケールと愛嬌の片鱗、ようやく分かってきた気がする。
これは馬が主人公だから、もあるだろうけど、おそらく30年後、40年後に見ても風化がおびただしくない映画だと感じた。スケールと愛嬌とは、そういうこと。

とはいえ、構成というか、ストーリーにとりとめのなさを覚えたのも事実。馬という存在にほれ込んでいく過程のドキュメンタリーであることに魅力を感じたと先に僕は書いたが、それと、その馬を通してなにかを語らんとする、の合わせ技はやや強引だったのかなという印象を持った。
そうできる、と踏んだ考え方自体がすでに大した剛腕で、身辺雑記の心象を精緻に磨いたものにはない荒々しさがあり、そこがこの映画に対する僕の痛快な好印象のもとでもあるのだが。

引退して福島県南相馬市に移されていた元競走馬が、東日本大震災のあと、収容先を求めて北海道へ渡ったり、伝統の祭りの復活に狩り出されたりと流転する。そこから、国や行政の混乱、馬主たちの不安と困惑、といった姿によって逆照射される〈311以降〉というもの。

バチッと決まって見えていない気がするけれど、『祭の馬』の骨子そのものはとても太いのだ。あくまで馬を主人公として考えれば、ギュンター・グラスの小説『ブリキの太鼓』(59)を思わせるようなところがある。
ペニスが腫れたまま治らないところをヘンに執着されて、映画の主人公に担ぎ出された戦歴0勝の競走馬の運命に任せるままの旅と、自ら畸形として生きることを選んだオスカルの、ナチスの時代のグロテスクな遍歴。
あの長い、長い小説(映画化された『ブリキの太鼓』(79)の面白さは見事にダイジェストした独立したもの)にしても、くたびれながら読んでいるうちは、一体なんの話だかよく分からないのだが、読み終わってしばらくするとドーンと全体の絵図が浮かぶものだった。
どうして競馬界を引退した馬を、いつまでも「ミラーズクエスト」と呼ぶのか。一時期のミネアポリスの殿下のように、〈かつてミラーズクエストと呼ばれた馬〉と呼ぶのが適当ではないか、とも思っていたのだが。いつまでも「ミラーズクエスト」と呼ばれることで浮かび上がる、まさにオスカル的な皮肉があるのだと今は自分のなかで了解できている。

あと、『祭の馬』は、いつになく「寄せられたコメント」というものが気になる映画だった。なぜか。
フィルムセンターの岡田秀則さんがパッと山本嘉次郎の『馬』(41)のタイトルを出している。卓見だが、なにしろあの岡田さんでらっしゃると考えたら当然。そんな連想に至るには0.01秒もかからなかったことだろう。
空族の2人のコメントは、評判がいい。それを聞いてフーンといったんは思ったけど、よくよく読めば、僕のなかにはないところから出てきている視点と体感である。よくよく読むと、深みがあってすごいなと思った。アンテナの位置みたいなものが違うんだなあと。

それでも、ペニスに絡めた終盤のモンタージュに関しては、今もって僕はよく分からない。スンナリと腑に落ちなかったという理由で。もともとそんなにペニスにこだわんなくてもいいじゃんか、と感じていたので。監督に、主張をぶつけて波紋を呼びたい狙いがあるようなので、これから、あーでもないこーでもない、と話し合いが賑やかになったら、それがいちばんでしょう。『2001年宇宙の旅』(68)の、あの最後はなんだったんだ、みたいに。

『馬』の、デコちゃんのかわいがった馬は軍用として徴用された。馬と人との関わりは、常に近代産業の歴史と密着している。
僕が『祭の馬』を見て、ペニスよりも反応した、もっと見たかったと思ったのは、ふんだった。馬糞。ウンチ。

この欲求は最近、『ファーブル昆虫記』を改めて大人読みしたことが強く関係している。91年発行の奥本大三郎訳による集英社版の第1巻を読んだら、びっくりするぐらい面白かった。
どうしてファーブルは、フンコロガシ(スカラベ)なんて地味な虫をわざわざ最初の主人公に選んだのだろう、と昔からうっすら疑問に思っていた。しかし古代エジプトでは、ふんの球をコロコロ転がす姿に、太陽を東から西へと運ぶ神を重ね合わせていたらしいのである。だからファーブルの母国フランスでも、呼び名は「スカラベ・サクレ(神聖な甲虫)」。
こうなると、カルロス・サンタナ門下生によって組まれたバンド、ジャーニーがなぜアルバムのジャケットによくスカラベを描くのか、スピリチュアルな意味でよく納得できてコーフンしたのだが、これはまた別の話で。

で、そのファーブルがフィールドワークしていたのは、家の近くの牧草地。先生、ひたすら放牧されている馬のふんを探し回る毎日だった。
ふんがドサッと草地に落ちれば、フンコロガシなどの虫が一斉に集まり、そして自分の巣まで転がし、穴を掘って大事に埋める。虫の活動がさかんになれば、土に空気が入って、土壌が肥える。こういうプロセスが測ったように、馬ふんを中心に正確に進んでいく。
そのコスモス的構造と、中世ヨーロッパの、森の中で、教会を中心に置いてそこから村を作っていく考え方は、ファーブルのなかでピッタリ重なったのではないかと想像される。自然の調和のなかにあるべき秩序を見たのなら、先生のスカラベ大好きぶり、やっとよく分かる。なにしろ、出かけられないときは金を払って馬ふんを買っていたぐらいだ。

ところが、牧草地の虫にとっては福音の鐘であり、ひいては人の暮らしの糧にもなってきた馬ふんは、近代以降、舗装された路の上に落ちた途端、不衛生の象徴みたいなキラワレモノになった。人間の歴史が勝手に意味を変えた。

『祭の馬』の、画面の隅に写る馬ふんは、そういう訴えを内包していた。アップでしげしげと見たかった。荷馬車やなんやらで産業革命~現代社会のインフラをリードして、でも街から排除されたものの象徴として。
あの、人間の都合でいえばただ臭いだけの、ひねりたてのあたたかい湯気が、水蒸気爆発の煙とモンタージュされると一瞬にして産業の歴史というものが凝縮されて、素晴らしくもすさまじかったろうなあと、しばし夢想した次第。

ペニスはペニスで(ヘンな言い方だけど)、若い女性が一生懸命、馬のからだを洗ってあげる場面はよかった。東北のオシラサマ伝承ってこういう発想から出ているのかと思われるほど、健全なところから咲くエロティックなものならではのロマンがあった。


『祭の馬』から広がる夢想のあれこれはまだあって、ジョルジュ・フランジュのドキュメンタリー『獣の血』(49)、スティーヴ・マックィーン主演の西部劇『トム・ホーン』(80)、マルボロのCM、それにクリス・マルケルなどと絡めておしゃべりを続けたい気持ちはあるのだが、時間切れでここまで。

来年は、干支では午年ですので。年末年始にこの映画を見るのはなかなか縁起がいいんではなかろうか、と思われます。
人間万事塞翁が祭の馬。

 


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