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試写で見た映画(30) ♯つぶやき市長と議会のオキテ【劇場版】

2024-03-18 21:10:41 | 日記


プログ内連載「試写で見た映画」の更新は、去年(2023年)6月公開の『カード・カウンター』(2021 ポール・シュレイダー)以来。気まぐれで、お粗末なことです。

今回の映画は、試写で拝見させていただいたあと、どう感想を言ってよいのか言葉がなかなか出てこなかった。
僕は近年、なんでも見たり聴いたり読んだりしたらすぐいいところを書く、を稽古代わりにしているのだが(欠点や好みでない部分は後回し。長所より何倍も見つけやすくて稽古にならないから)、ここまで頭の中でまとまるのに時間がかかった映画はちょっと珍しい。
そこが面白いので、ちょっと粘ってみたい。


『♯つぶやき市長と議会のオキテ【劇場版】』

2024年 広島ホームテレビ

監督 岡森吉宏

プロデューサー 立川直樹

配給 広島ホームテレビ

https://youtu.be/lE6o7eTZEFk


映画について書く場合、毎度のことだが、ストーリーを一から要約するのが億劫でしかたない。配給・宣伝の人が、担当する映画のストーリーをそのつど的確にまとめ、基本材料として用意するのを通常業務にしているのには改めて頭が下がる。
その基本材料の引き写しが字数の大半を占める短評であろうと、書けば識者と遇してもらえる人は、時々でよいので、配給・宣伝の人への感謝も発信しましょう。それが礼儀というものですよ。

まあ、そう言っておきたくなるぐらい、ストーリーの要約は面倒な作業なのだ。自分が書きたいのはそのうえでの細部だったりするので、さっさと飛ばしてしまいたい。
しかし『♯つぶやき市長と議会のオキテ【劇場版】』の場合、話の組み立て自体に、見る人の言葉を詰まらせる難渋さがあるため、飛ばすとなんの話かサッパリ分からなくなってしまう。

なので、ちらしの裏に書いてある文が、端的に全体を説明してくれているのは助かった。ベースとして参照させてもらいつつ、まとめたものを以下に。

○舞台は、広島県北部にある安芸高田市。人工およそ2万6,000人(令和4年度の時点で)。高齢化と人口減少が進んでいる。現在の日本の市町村の典型例とも言える。
○その安芸高田市の市政が、2020年に大きく揺れた。2019年参議院議員選挙の際、河井克行・案里夫妻による大規模な買収行為があった。それが翌年になって全国的に大きく報じられ、安芸高田市の市長と市議会議員も現金を受け取っていたことが明らかになった。
○市長と市議3人が辞職したあと、市長選が行われ、無所属新人の石丸伸二氏が当選した。政治経験ゼロ、元銀行員、37歳の若さ。クリーンなイメージが期待された。
○その期待通り、石丸新市長は「効率的で持続可能な市政」を打ち出し、非合理的と判断した事業の中止、SNSでの積極的な情報発信など、若々しい大胆さを次々と打ち出す。
○しかしその進め方と、ベテランの多い市議会との足並みが揃わない。ある騒動をきっかけに、さらに距離が生まれてしまう。
○映像素材はすべて地元局、広島ホームテレビが取材したもの。いったん番組として放送されたものが反響を呼び、アーカイブ配信も多くの再生回数を記録した。それを受け、番組後の取材も加えて再編集された拡大版が、今回の劇場版となる。

僕は番組の反響をまるで知らなかったものだから、完全に初見。
発端となった騒動を、あくまでも主観寄りでガイドするとこうだ。

新市長は、市議会でのある議員の行動―居眠りしての甲高いいびき―にSNSで苦言を呈した。
市長が腹を立てたのは分かる。物凄く分かる。
河井夫妻の買収で県政・市政の信頼が大きく揺らいだあと、初めて行われる議会なんだぞ。ネット中継もされているのにそれはないだろう。危機感が足りな過ぎる―。これ位の気持ちは当然だ。いびき議員をハッキリ名指しまではしない配慮の上で、あえて発信している。

これに対して、市議会が市長を呼び出すかたちで「注意」した。これから、市議会議員のほうも選挙を控えている。そんな時に、わざわざ波紋を呼ぶようなことはやめましょうよという意味合いで。
しかしそこに、政治未経験でいささかKYなお兄ちゃん市長にベテランの我々がちょっとお灸をすえよう、という侮った気持ちが全くなかったかどうか。

で、そういう気配が、気性がまっすぐで合理的な物の考えの市長を刺激した。呼び出しされての「注意」を、「恫喝」と受け取り、再びSNSで発信した。
外に向かって「恫喝」呼ばわりはあんまりだ、と議員達のほうも態度はこわばり、溝が出来てしまった……。

この後、いびき騒動がどんな波紋を生んでいくかは、映画を見てもらえれば。
市議選では辞職した議員が再選される一方、政治未経験の新人も当選する。市議会のなかの人間模様もサブストーリーとして絡まっていきます。

ここからしばらくは、若い市長とベテラン揃いの市議会との間に始まった最初のズレ、いびき騒動についての、あくまでも僕の印象を。

市長としては、いびき騒動を奇貨として、居眠りしなくてもよい議会進行の改革にみんなで取り組める折角のチャンスじゃないか、としたい前向きな希望は確実にあった。
金融ビジネスの現場で揉まれた経験を持つ青年政治家のビジョンは、本当にクリーンな、全体利益を考えたものだった、と僕は理解している。

ただ、夏目漱石の『坊っちゃん』タイプの人はどうしても、グループ、仲間単位で行動するタイプの人とは、ソリが合わないものだ。そのグループのなかに呼びつけられて「注意」されるなどは不快の極みである。
数の力で自分を抑え込もうとしていることに対して、市長の批判の口調も強くなる。当然だと僕は思う。でも、なあなあで譲ることを不潔に感じる人、ブレない人の強さは、往々にして険しいかたちで外に出てしまうのにもヒヤヒヤしてしまう。

一方、いびき批判投稿を受けて市議会が市長を呼び出した席での「注意」も、もともとは「市長と我々(市議会)が対立するようなことになっても、いいことはありませんからねえ」的な穏当なニュアンスだったろうという気はする。
ベテラン市議達としては、いびき問題は早々に丸く納め、今後は仲良く市政に取り組んでいこうじゃありませんか、という方向に持っていく、「アドバイス」のつもりだったと推察できる。

でも、それはそれでやはり、自分達の伝統的な進め方を是とする経験主義から市長の気性を見誤った、それこそ政治的判断のミスだったと思う。
市長と市議会が噛み合わないと不利益が生まれてしまいますよ、と納得させる方向に誘導していくサジェスチョンは、今後の市長の提案が通るも通らないも我々の同意次第なんですよ、と遠まわしに攻めていく「恫喝」と解釈されてもしかたない。
多数の論理には、多数である時点で、そういう暴力性が生まれてしまう。

ここからはもう、極端な例えで言うと、「夜道に月が出ない日もあるんだぞ」が脅しに聞こえたと主張する側と、親切のつもりで言ったと主張する側に分かれた状態になるので、見ているほうはどうとも判断できない。

僕自身、どっちの立場も理解できるけど、どっちの味方とも言えないかな……という感想だ。
ムダな公共事業はどんどんカットしましょう、という市長の考えは一見、良い。痛快さを感じる。
でも、外に向かって発信するのを重んじ、ベテラン議員に働きかけるのをおろそかにしているように映るのは、僕はどうしても全面的には肯けない。

議員の多くには支持基盤があり、それぞれ利益誘導を期待されたうえで票を貰っているからだ。その図式自体は、地域の地盤産業でも福祉団体のネットワークでも変わらない。
そういう議員さんにいきなり恥をかかせるのは、不人情の部類に入ってしまう。高潔で立派な政策やビジョンも、人情を欠いてしまってはいけない。

『♯つぶやき市長と議会のオキテ【劇場版】』が凄いのは、報道の基本的な姿勢=中立を、そのままドキュメンタリー映画を作るうえでの基礎構造に置き換え、成功していることだ。
描かれているのは対立ではない。結果的に対立してしまっている姿を通して、二つの〈日本人らしさ〉が象徴的に浮かび上がっているさまだ。
曲がったことが許せない、生一本さを愛する〈日本人らしさ〉と、和と同調を何より重んじる〈日本人らしさ〉。

つまり僕がこの映画を見た後、うーん、すぐに感想を言えない……と唸ってしまったのは。
自分の中にある、裏表を嫌う合理的な面(「若木さんの意見、個人的にはいいと思ってるんですけど……」と後から小声で言ってくるような人は苦手)と、本音とタテマエの使い分けを大事にする非常にドメスティックな面(正論を頭ごなしに言ってくる人は苦手)が、もろにぶつかってしまったからだ。どっちも確かに自分なので非常に困る。

長期取材の素材を日本人論にまで浮揚させたこの映画の作り手は、司馬遼太郎『この国のかたち』の続きをやってくれている人達だ、とさえ称していいんじゃなかろうか。

ここまで書いた後、本棚から2冊の岩波文庫を出して、めくり直した。
ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーの1919年の講演をもとにした『職業としての政治』(脇圭平訳)と、イギリスの思想家J.S.ミルが1859年に発表した『自由論』(塩尻公明・木村健康訳)。
映画を咀嚼するための参考になったが、映画のおかげで、この2冊の古典の中にある言葉がより活き活きと伝わってくるのもありがたかった。





で、2冊の古典をめくり直して浮かんだ思いは、市長も、ベテラン市議もよく働き、よくやっているのだ……というある種の敬意だった。
僕は、投票するのは常に護憲野党の人間なので、無所属とはいえ「小さな政府」の考えが明確で、新自由主義の雰囲気が濃い市長も、市議会の多数を占める自民党寄り(たぶん多くは党員)の議員も、どちらも支持はしかねる。それでも、それぞれが正しいと思う道を歩いておられる、だからぶつかっているのだ、と尊重したくなった。

『♯つぶやき市長と議会のオキテ【劇場版】』に盛り込まれていないのは、ふだんの市政の部分だ。尺の制限というものがあるからしかたないが、そのぶんは見るほうが補てんしておきたい。数年前から身内が地元の市議になり、コツコツやっているところを見ているので、なおさら。

その身内の大先輩にあたる、市議を何期もつとめた大ベテランの方から、いろいろ話を聞いたことがある。仮にT先生としておく。
およそ30年前、自衛隊のPKO派遣に賛同する文書を市議会から出そうとT先生は提案し、猛反対する日本共産党員の市議と正面から対立した。議論が連日深夜まで及んだことは、今でも語り草らしい。
そんな政治信条のT先生なので、僕としては全面的に慕うことは難しいが、それでも鷹揚で、棟梁的な器量を感じさせる人で。

T先生のモットーは「市民の命を守る」で、「それは別に大げさな話でもないんだわ」だった。
例え話として聞いたのは、山のほうの林道の舗装が古くなり、アスファルトが陥没して穴が空いているよ、と市民から情報が入った時のこと。
T先生は車を飛ばして現地に行き、状況を確認して写真を撮った。市役所に戻り、職員と一緒に、すぐに出せる予算の枠があるか、幾らまで出せるかを考えた。細かい調整もしながら、市から地元の道路工事業者に発注するまでの段取りをつけた。
これが、「林道の舗装に穴が空いた」だけの認識に留まれば時間はかかるし、他の案件の後回しになっただろう。でも「その穴に、子どもを乗せて走る自動車の車輪が嵌まったら」まで想像すれば、工事を急がせなくてはいけなくなる。
地方議員はその想像の差が政治センスとして問われるのだ、という話だった。

おそらくこの映画の市議会の議員も、これに近い案件を常に幾つも抱えていたし、抱えている。いちいち報道はされないだけで。
だから、議会の席で大きないびきをかいてしまったり、市長と足並みが揃わないようすばかりクローズアップされるのはやってられない。テレビはそういうところばかり撮りやがって……と仏頂面になる気持ちだって、理解しておかなければいけない。
『♯つぶやき市長と議会のオキテ【劇場版】』で前面に出ているのが市長との軋轢だからといって即、「争いばかりで市民不在だ」式の批判をするのは、僕はあまり気が乗らない。

そのうえで、ヴェーバーとミルが書いていることと照らし合わせて考えてみる。
『職業としての政治』の文をひらたく崩せば、ヴェーバーは、官吏は憤りも偏見もなく仕事すべきだが、政治家にとって闘争や党派性は必然のもの。どんどんおやんなさい、と言っている。ただし政治指導者の最大の名誉は、自分の行為の責任を自分ひとりで負うことですからね、と釘をさしている。

「選挙民の好意を競う闘争」である選挙でカリスマ的指導者を選ぶことは、「権力感情」という一番のごほうびを与えることでもある。追随者を精神的プロレタリアにし、盲目的な服従を強いてくるリスクがある。
一方、カリスマのない「職業政治家」の指導を望めば、使命感よりも利害調整が優先される「派閥支配」が待つことになる。
さて、どっちが、「どんな人間であれば、歴史の歯車に手を掛ける資格があるのか」。これはむしろ、有権者のほうが問われる問題だ。

ミルは、政治体制は君主の専制から何からいろいろあるけど、一番ベターなのは代議制民主主義じゃないですかね、と理論化したことなどで歴史に大きく名を残す人だ。
しかし代議制には、多数の意見が少数の声を排除してしまうリスクがある。ミルはそれを「偽の民主政」「多数者の暴虐」と呼び、『自由論』でもしつっこい位に警告している。
選挙による代議制には、確かに人気取りゲームになって、後は議員任せ、人任せになる弊害がある。将来は「出たい人より出したい人を」に則った〈指名・推薦による代議制〉を試してみたほうがいいんじゃないですか、と僕なんかは思っているんだけど、どうでしょう。

『自由論』は今読むと、なんで19世紀にこんなに綿密なSNS論が書けたの……!?と錯覚してしまいそうな位に、現代のエコーチェンバー現象やクレーマー心理に通じる不寛容を考察している本だが、『♯つぶやき市長と議会のオキテ【劇場版】』の参考のつもりで読み返しているうち、特に感銘を受けたのは、「反対論を傾聴し、反対論のなかの正当な部分によって自らを利益する」、これ以外の方法で賢者になれた者はいないと説くあたりだった。
みんな、それぞれの立場で自分の考えは正しいと思っているものだ―。このクールな認識が、常にミルの論の基本にある。

『♯つぶやき市長と議会のオキテ【劇場版】』に出てくる市長と市議会のベテラン議員、どちらが良いか悪いかの判断は、僕はできないし、する気もない、ということを書いてきたが、これは冷笑的に「どっちもどっち」と言い捨てたいのとは違う。
お互いに譲れないものがあるのは、素晴らしいことだ。さらに、その対立を弁証法的に止揚=アウフヘーベンさせていければなお理想的なんだよな……と思うのだ。

『♯つぶやき市長と議会のオキテ【劇場版】』に出てくるベテラン市議達は、よく「是々非々で」と言う。もはや口グセと同じ状態。なあなあで物事を済ませたり、穏当に質問をはぐらかしたりしたい時ほど言うから、映画のなかではすっかり昭和のおじさんワードの典型のような、アイロニー風味が強くなっている。
しかし、もとを言えば是々非々というワードを初めて文にしたのは、聖徳太子だ。本来はめっちゃありがたい言葉なんである。

「彼の是はすなわち我の非にして、我の是はすなわち彼の非なり。我必ずしも聖に非ず。彼必ずしも愚に非ず。共にこれ凡夫のみ」

聖徳太子の『十七条憲法』の十より。書き下ろし文は『誰でもわかるお経の本』花山勝友(1981 オーエス出版社)を参考にした。

全ての争いは、自分は正しい、相手は間違っている、と思い込むところから始まる。
でも、自分は常に正しく、相手は常に全て間違っているものだろうか? と、やんわり説いてくれているもので、誰の心にもスンナリ入ってくる教えだ。

ところが実践するとなると、おそろしく難しい。「共にこれ凡夫のみ」―このキーワードを自分のなかに入れて血肉にすることのハードルの高さよ。
日本でいちばん映画を知らない映画ライターを自称している僕でも、「若木さんも誰も、みんな凡人ですもんね」と面と向かって言われたとしたら、ちょっと、ムム……となる。すぐに「うんうん」と返せる自信はない。市長や議員ならなおさらだろう。
でも、「共にこれ凡夫のみ」を頑張って自分のものにしないと、アウフヘーベンはできないのだ。

最後に、『♯つぶやき市長と議会のオキテ【劇場版】』を見て、僕が一番感銘を受けた場面について。

議会中のいびき問題で市長への「アドバイス」のつもりだった言葉が「恫喝」と受け取られ、こじれている真っ最中の市議が、議会棟かどこかの廊下で、自分にカメラを向けている広島ホームテレビのディレクターに対し、
「あなた達は市長と裏で契約か何かしているのか?」
といった、中立の立場での取材を疑う意味の質問をする。ディレクターは、実に心外だという口調でそれを否定する。するとその市議は、ディレクターの返答も聞かないうちに、もういいです……という感じで立ち去る。その一連。

市議もさすがに、市長と地方局が共謀して市議会攻撃をしているのだ、とまでは思い込んではいない。ただ、市長をヒイキしてるんじゃないの?と言いたくなるほどには疲弊している。
そして、そんな邪推の言葉をつい口に出してしまったことを、すぐさま後悔している。

市議が廊下の向こうに消えていくまでを、ディレクターは撮り続ける。カメラを切らなかったのは、くたびれて小さく見えるその背中に、恥を知る人の尊厳が映っていたからだ。

 


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