ワカキコースケのブログ(仮)

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『ソロモンの偽証 前・後篇』は〈真面目な子・よい子の活劇〉なのですの巻

2015-05-02 01:14:20 | 日記



最初に、告知を2つばかり。

1.
「月刊スカパー!」と↓のサイトで、東海テレビと『平成ジレンマ』について書きました。商業誌のTPOに合わせております。
ぴあ×チャンネルNECO強力コラボ連載第52弾!!信念の男と社会とのズレに肉薄した傑作ドキュメンタリー http://neco.lekumo.biz/necomimi/2015/04/neco51-7ef7.html …

2.
編集者・町田暁雄さんのご厚意で、「刑事コロンボ」を設定から吹替までしゃぶり尽くす『COLUMBO! COLUMBO!』第6号の、ベストエピソードのアンケートに参加させて頂きました。三谷幸喜まで名を連ねているなか。大変光栄なことでした。
ファンはこの本、楽しいと思いますよー! http://papageno.at.webry.info
僕がどのエピソードを推したかは、ナイショ。言いたくてムズムズするけど。



で、今回はこのブログでは珍しく、試写以外で見た新作映画の話を。

松竹配給の『ソロモンの偽証 前篇・事件『ソロモンの偽証 後篇・事件を、どっちも見た。


〈製作の時点であらかじめ2部作・3部作仕立て〉のものは、『スター・ウォーズ』は例外として、指輪ナントカもインファナルなんとかも、マトリックスもるろうにも、ほぼ途中でやめる。最後まで見ない。

別に文句があるわけでも、斜に構えてメジャー嫌いぶってるわけでもなくて。こういうルックスの映画なのね、と確認さえできたら満足しちゃうタチなのだ。

予想外のドンデン返しや意外な真相が幾つか義務的に用意された後、大団円になるところまで見届けるのは他の方にお任せいたします。ご苦労様です、という感じ。つまり、かなり淡白。
戦前のSF連続活劇も、初期の東映時代劇も、大体の〈解決篇〉は帳尻合わせでバタバタする。一応はかつてそれなりのシネフィル少年~青年でしたから、ある程度は付き合ってきましたので。僕はもういいでしょう、な気分でもある。

『ソロモンの偽証』も、実のところは、学校裁判のすえの解決(真犯人は誰かなど)には、ほとんど興味はいかなかった。
それでも足を運んだのは、ヒロイン・藤野涼子や他の子たちのがんばる姿を、愛でるように見ていたかったから。

見て、よかった。さめざめと、僕はこの2部作が好きだ。なでなでしたくなる気持ちで一杯。
ひとことで言うと、『ソロモンの偽証』は〈真面目な子・よい子のための活劇〉。そこが好き。


映画というのはほら、基本、不良の味方だから。みんなして寄ってたかって、もっぱら不良のカタを持つものだから。

グレた高校生たちが甲子園をめざす、なんてやつが、数年前に大ヒットしましたよね。ベテランズだったかルーキーズだったか、タイトルも確認しないけど。
四六時中群れてつるんで、よい子、実直な子を日頃から散々バカにして威圧しておいて、でもオレたちはとっても傷つきやすいんだ!とたまに大声で泣き出せば、メンがよろしいの揃いだから、女子にはモテるわ、物わかりのいい大人には可愛がってもらうわ、みなさまに腫れ物にさわるような扱いを受けながら甲子園行けるんだから、結局おまえらいいこと尽くめ、うまい生き方してるよな、なやつ。

といって、こういうのだけを指して言っているのではない。

チャールズ・チャップリンが脱獄囚に扮して最初の傑作をものした1910年代あたりから、もう、それは始まっている。『チャップリンの冒険』(1917)のことね。その後すぐ、ハリウッドではギャング映画ブームが始まる。

映画の歴史はすなわち、〈不良にヘンに気を使う歴史〉でもある。
表層分析・批評においても、それは当てはまるのですね。博士論文などをコツコツ書いている方には悪いけど、「不良のほうが絵になるからだ。動かしやすいからだ」と明かせば、話は全部、すぐに済んじゃうところがある。それに不良のほうが消費活動は積極的だから、興行としてもいいお客様になってくれるわけだし。

〈真面目な子・よい子〉にだって、内面はいろいろあるのだが、絵にならない、おもしろくもならないってことで、どうしても脇に追いやられがちだった。
それが『ソロモンの偽証』では、学校も警察も「自殺」ですみやかに処理しようとした事件を、自治的に自分達で検証する、学校裁判を開く展開によって、メインになった。異色の法廷劇になることによって、〈真面目な子・よい子〉のほうが活躍できる映画が生まれた。

自分達だけで判事、検事、弁護人、陪審員や書記などを決め、調査し、裏を取る。
中学生にそこまでうまくいくものか、とはさすがに僕も思うのだが。
条件さえ揃えば、「うえー、マジメー」と揶揄する同級生の声(現実的には一番こたえる)を跳ね返し、これだけのことが出来るポテンシャルを秘めているのも、また中学生ではある。

僕が中学、高校の時に『ソロモンの偽証』を見たら。
相当に、藤野涼子たちにあこがれただろう。「なんかおかしいと思います」って疑問、モヤモヤは、学校や大人に対して、ある程度は涼やかな子なら誰もが持っている。同意の子が複数いて力を合わせれば、これだけの理屈劇を自演できる。そう指し示してくれるこの映画を見たら、ものすごい勇気をもらえただろう。


高校の時、生徒会の役員で会計をやっていた。しかし、サボッてばかりだったため生徒会長をはじめ、みんなの僕への信頼感はゼロ。たまに顔を出してもかえって邪魔にされる、針のムシロ状態だった。
そんな時に、部活動の年度予算の話が来た。

運動部が予算の大多数を占め、文化部はわずか。どこの学校でもおおよそ同じだと思う。
僕の高校の場合、特にバドミントン部の占める割合が際立っていた。国体に出る選手がいたので、学校が対外的に力を入れていた。

こういう予算案は、まず学校側がほぼ作る。生徒会はそれを見せられて、上意下達でスムーズに承認する。要は出来レースだ。
ところが、生徒会で仲間外れになっていたワカキコースケくん、存在感を見せたいばかりに、そこで粘った。
バドミントン部だけ遠征費も込みの年間ウン百万で、華道部や合唱部が、花瓶や楽譜をやっと買えるだけの数千円は不公平だ、と、新たに予算案を組み直した。地味な文化部に一律で1万円プラスするみたいな、稚拙きわまりないものだったが。

すぐ校長室だったかに呼ばれた。「きみ1人だけの判断でどうにかなるものではない」的なことを、言い含められた記憶だけがある。会長も副会長も乗ってくれなかったので、教師に放課後呼びだされた時点で、自分のやっている反抗がスタンドプレーにしかならないのだと既に悟っていた。

しかし。「バドミントン部の予算は不公平だ、と難癖つけてる奴がいる」という話は、すぐ伝わっちゃったのですね。部活OBに。短ラン、スリータックのボンタンな先輩方に。
「見つけたらヤキを入れる、とお前をバス停まで行って探してる」と教えてくれる奴がいて。

僕はどうしたか。
逃げましたよ。すみやかに。塀をよじのぼって、学校の裏山から。それで、学校と離れたバス停から、家とは逆方向の大きな、映画館が数館ある街へ行くバスに乗り。
それでもスピルバーグ系や香港カンフーを公開してるところは目立つので、一番地味な映画をやってるコヤに飛び込んだ。

見たのは、MGMのリバイバル特集が札幌より遅れて来ていた、マーヴィン・ルロイの『哀愁』(40)。
マンハントされる立場の恐怖でキーンとなりながら、第一次大戦下のロンドンの、大人の悲恋ドラマを眺めた。なんにも接点が無いのに、ひとつひとつの場面が目に染みた。どんなストーリーかもはやほとんど覚えてないのに、ワンワン泣いた。


そういう、ささやかな蹉跌経験が、『ソロモンの偽証』を見ながら、久々に疼いたのだ。
ちゃんと準備し、話し合って協力し、「納得できない」ことを突き詰める子たちの姿が、まっすぐな倫理と根性が、眩しかった。


監督は成島出。
青春ボクシングものの『ラブファイト』(08)、外科医の世界の『孤高のメス』(10)など、良作を撮ってきた方が、ついにホームランをものしたなあ!と嬉しい。
日常を舞台に、生活描写を大事にしながら、主人公の倫理が無理をねじ伏せて飛躍する。地に足のついたファンタジーを具現にする。そういうところで冴える方と認識していたので、『ソロモンの偽証』は現時点での代表作ではないかと。

ただ、ホームランというのは作家論的な意味合いで。
興収は、見込まれていた成績と比べると、苦戦したようだ。その1点で映画自体を低く評価するアナリスト的な記事も見かけた。

だから、なんだよ、である。
くりかえすが、映画はもっぱら不良をおだててきた。チヤホヤして成り立ってきた。これからもそうだろう。
その中にあって、〈真面目な子・よい子が、ちゃんとしたことをちゃんとやる〉話を活劇にまで高めた映画が生まれた。
奇跡的なことなので、その価値をすぐに多くの人に気付けというほうが無理だ。

宣伝の方々には申し訳ないけど、〈中島哲也の新作風〉なおどろおどろしいパッケージングは、この映画のいいお客さんになれる層を逃した気がする。
『3年B組金八先生』『中学生日記』の、ホームルームでしっかり話し合うエピソードの時が特に好きだったって方は、ぜひご覧ください。


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