ワカキコースケのブログ(仮)

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『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』見た直後の感想戦

2015-05-10 02:34:36 | 日記



ツイッターで、やあやあ遠からん者は音にも聞け、われこそは違いが分かる、映画通の中の映画通なり~って感じの人達がイーストウッドやゴダールの新作、『神々のたそがれ』(13)を絶賛するのは、全く構わないんだけど。

こういう人たちの多くは、剥き身なコトバで申し訳ないけど、根っこのところで(僕ほどには)自分の眼に自信がなくて臆病な分、つい「必見」「駆けつけなければならない」「見るべき」などと強引な、教条的な言い方をしてしまう。シネコンのファミリー映画のほうがお客さんの入りが多いことを、まるでそのお客さんたちが悪いようになじる言い方をする。

その不安と裏返しな気持ち、温かい気持ちでもって、かなり理解はできる。
けれどさ、あいにく、いばった物言いは、映画の外に既に、うじゃうじゃ溢れているから。そんなツイートを見かけた途端、正直ね、どんな手を尽くしてでも、シネフィルさま全員から犬のクソを投げつけられようとも、ミーは見たくなくなるの。

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』も、そうだった。
ところが、脚本家の、いや、元「映画時代」編集者の港岳彦が、すげーよかったと嬉しそう、たのしそうにツイートしていた。港氏がそう言うならと、あっさり、出かけた。
人間には、モノサシになってくれる人間が、数人は必要だ。

これを見てから、20代の女友達と落ち合って食事する約束だった。
見終って、ホーッ……となり、脳内に響くドットンツクツクなリズムの余韻を楽しみながら(パット・メセニーやジュシュア・レッドマンなどの後ろで叩いてる凄腕ドラマーさんの演奏なんですってね。知らんかった)、スマホの電源を戻したら、
「(イベントの)仕事が急に入ってごめんなさい」。

なんとなく、この映画を見た後でおんなのこにドタキャンされる中年男っての、おあつらえって感じで妙に悪くない気がしたものだった。ハッピーな恋愛コメディなら凹んだかもしれないけど。

このところ、女性のことで屈託しておりまして。軽いデートで気を紛らわせるつもりなのが、振られちゃって。
その時間を、自分を見直すのに当てろ、と啓示を受けたような気になった。それで、空いたデートの時間で感想戦をやってみる。


バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)
BIRDMAN OR (THE UNEXPECTED VIRTUE OF IGNORANCE)

2014アメリカ
監督 アレハンドロ・G・イニャリトゥ
http://www.foxmovies-jp.com/birdman/



イニャリトゥは、いつの間にか、ゴンサレスをGと略すようになっていた。

なにしろアカデミー賞の作品・監督・脚本・撮影4部門を獲得した大評判の映画だから、どんなストーリーかはここで書かなくてもいいでしょう。あらすじって、書くのめんどくさい。

「むかし、スーパーマンを演じた俳優は、そのイメージに縛られて苦しみ、銃で頭を撃って自殺した」
この話は小学生の頃から有名だった。僕が初めて知り、心底から戦慄したハリウッド・バビロンの闇伝説だ。その次が日本の、「エイトマン」主題歌の克美しげる。
『バードマン』の基本ストーリーは、そうしたセルロイド・ヒーローの悲劇の数々に則っている。

ちなみにここでいう「スーパーマン」は、1953~57年のテレビ・シリーズで主演だったジョージ・リーヴスのこと。北島明弘『世界SF映画全史』(06・愛育社)によると、リーヴスは自殺ではなく、三角関係のもつれから射殺された説も未だ根強いらしい。いずれにしても、スーパーマン役者の最期にふさわしからぬ生臭さが、胸に残る。

もともと、バックステージものは偏執的になんでも好きなところがあるので、ほぼ全編、ゴキゲンだった。
『バードマン』は、実際にブロードウェイのセントジェームス劇場を借り切る形で撮影されたそうだ。演劇ファンの人はたのしいのでは。落語家が主人公の映画でも、新宿末広亭全面協力・楽屋を撮影してもOKのやつは見応えの厚みが違うのが分かるもん。

で、大半の場面がこの劇場の中なのがいい。
客席と舞台の間の、楽屋、衣装室を含めた空間の数々。単なるそっけない廊下や階段さえ魅力的だ。

「ヒーロー」と「凡人」の乖離に精神をすり減らしている主人公・リーガンは、この空間をウロウロしている時のみ、なんとか平衡を保っている。
一方で、付き人をつとめるリーガンの娘は薬物依存から脱する手前にあり、また一方で、私生活ではインポテンツなのに、舞台上のベッドシーンになった途端下半身が元気になってしまう天才肌の俳優がいる。
リーガンの共演女優は彼の子を宿したと告白するが、間もなく妊娠にまでいたらなかったと言う。嘘だったのかどうか分からない。
恋人である天才肌男優をリーガンに紹介したもうひとりの女優は、ブロードウェイ初舞台の夢がようやくかなうのに、内情がガタガタなのを目の当たりにし、情緒不安定になっていく。

虚と実の、境界上に生きながら、実感(心と体が噛みあう「居場所」を自分の中に見つける)を、必死で求めるリーガンとまわりの男と女たち。
図式的といったら、まったくそうなのだが。

その図式がしっかりしているし、さらにそこに、血肉の艶めかしさがあるのが、いい。
初めて芝居を打つだなんて狂った行為に手をつないで飛び込んだら、図式的関係を自分達で見つけ、図式的な心理状態に混沌を落とし込んで自分を納得させないことにはさらに狂ってしまう。往々にして、順番は逆になるものだ。この映画は、そういう切迫感まで説得力を持って描けている。

イニャリトゥとそのチームが、過去のバックステージものをどれだけ参照したかは分からないが(『バンド・ワゴン』(53)と重なり合う会話の場面はひとつあったですね)、僕は勝手に自分の好みで、ああ、ボブ・フォッシーの霊が降りてきたような映画だ……とジーンとなりながら見た。

ブロードウェイの天才振付師としては知らない。僕の言うボブ・フォッシーとは、フェデリコ・フェリーニを崇拝し、映画界に進出後は『キャバレー』(72)、『レニー・ブルース』(74)、『オール・ザット・ジャズ』(79)で、劇場の中でしか深く息を吸えない、舞台上の夢にだけ生の実感を託せる(そして甘く楽しく儚く、納得ずくの自滅もしていく)芸人達を描き続けた映画監督の、ボブ・フォッシーのことだ。

上記の3本を僕は中学生のとき、テレビの映画劇場で見た。生理に直接くる、痛いほど琴線に触れるところがあって、ボブ・フォッシーの映画が好きだった。

前後はどっちが先か分からないが、放送部に入っていたので学校祭では舞台の裏方をやった。合唱や劇の照明、音効出し、幕の開け引き、次の出番の呼び出しなどなど。その仕事自体はさっぱり面白いとは思わなかったのだが(思ったら、撮影の現場や舞台にもっと目が向いていたと思う)。

舞台と客席の間の、裏の空間。これが良かった。まさにボブ・フォッシーの映画みたいだった。
舞台を横から見下ろしながらタイムキープする調整室はもちろん、舞台の裏で上手と下手をつなぐ、狭い連絡通路とか。箱をくみ上げて作った照明台の、関係者(放送部員と顧問の先生)しか登って来れない上とか。大道具をしまう物置とか。
そういう、日常と非日常の結界に身を置くと、初めて身体と場所がぴったりと噛みあうような気持ちになった。
今でも狭いビデオ編集室の隅っこや、収録を終えて電源を落としたスタジオのセットに身を置くと、仕事場なのに、子宮の中に戻ったような安らぎを覚える。

構成作家の仕事を今もモタモタと続けているのは、ひょっとしたら、そういう境界の場所を失うのが怖いからかもしれない。

ああ、オレなら何時間でもここにじっとしていられるな……という場所ばっかり出てきて眼福、ナオミ・ワッツやエマ・ストーンよりも萌えた『バードマン』を見て、そう気づかされたのだ。

そういうわけで『バードマン』には、基本、とても満足。
〈なんちゃってワンカット〉があまり潔くない。時間経過の表現にそんなに知恵をひねるつもりが無いなら、長いカットでなくても別にいいでしょう、といった技術面には目をつぶる。
(夜から朝へ、を同ポジ風景・デジタル合成で表すこと数回の、かっちょ悪さ。だったら昔の映画みたいにめくれるカレンダーとか、しおれる花、みたいなクラシック演出をあえてやるほうがずっとこの映画に合っていた)

舞台で演じられるレイモンド・カーヴァー作品が、あんまりリーガン達の話とクロスしていかないのにだって、目をつぶる。
別に、みんながみんな『イヴの総て』(50)や『Wの悲劇』(84)みたいな構造じゃなくていいしね。カーヴァー自体については、村上春樹が訳した短編をずいぶん前にめくった程度なので何とも言えない。

思い出した芝居は、2005年に新国立劇場で見た『うら騒ぎ/ノイゼズ・オフ』(マイケル・フレイン作/白井晃演出)。舞台裏での、舞台監督と俳優のドタバタのほうが舞台で演じられ、俳優がとつぜん話を途中で切り上げて扉を開けて退場すると、それは舞台の出番だから、という趣向。
こっちは、演目と俳優たちのゴタゴタがだんだんシンクロしていく、とことんホンの仕掛けで見せるものだったから『バードマン』との関係性はほとんど無いのだが。

この時の上演は、大人気のグラビアアイドルから女優活動に軸を移していく最中だった井川遥の出演が興行の話題だった。〈テレビの人気者が舞台に挑戦すると大体ダメ〉という評価は、常に付きまとう。ウワーッ、この人、舞台俳優と比べたら明らかに声が出てない……なんて例はいくつか、僕も見たことがある。
そんななかで、井川遥さまは可愛らしくも意外と堂々としていて、人気者ゆえマイナス評価から始めなければいけない演劇の世界で、ずいぶんがんばっていると好感を持ったのだった(当時ちょっとファンでした)。リーガンに「あなたは役者じゃなくて単なる有名人」と言う批評家の場面を見て、特にそのことを思い出した。

あいにく目をつぶれなかったのが、この批評家の存在。まるで面白くなかった。たいへんに惜しい。

ニューヨークタイムズの劇評を担当していて、この人が誉めると成功、酷評すると打ち切り、ぐらいに影響力がある設定。
映画ではポーリン・ケイルがつとに有名だが、劇評にもそういう存在がいるのだろう。ニール・サイモンが脚本を書いた『グッバイ・ガール』(77)では、リチャード・ドレイファスがアングラ風演出に全くノレないまま演じた「リチャード三世」が、新聞の酷評で早々に打ち切りが決まる。

そんな「いつも不機嫌な顔をした」老婦人である批評の大家が、〈往年のヒーロー映画役者のブロードウェイ初挑戦〉にナーバスになっているリーガンに、「映画人は大嫌い。金儲けのことしか考えていないくせに、簡単に舞台に挑戦してくる。私が酷評するからすぐに打ち切りね」と言い、リーガンをさらに追い詰める。

このやりとりが、映画評をたまに、シコシコ書いている身から見ると、呆れる位に馬鹿っぽかった。

だって、初日が開く前の、まだ見ていない段階での話だから。
こんな予断のみの批判なんて、批判の体をなしていない。それこそツイッターの半可通の寝言と同じじゃん。この手のレベルの女性映画批評家なら実際、何人も知っているけどさ。そういう人はみんな、バカだから。僕、あいさつ程度しかしないからね。
気にする必要はないレベルの低い批判を、リーガンは気にする。そこに付随する意味や伏線があれば描写として成立するのだが、リーガンはまっとうに、単眼的に気にしてしまう。
これで、映画がずいぶん安くなってしまった。

『バードマン』の脚本チームは残念ながら、そういうバカな批評家まで気にして、ムキになってしまう作り手の罠に少し嵌まってしまっている。
批評家と名のつく存在は全員平等に軽蔑、無視、なら分かる。そういう作り手を評価はしないが、尊重はする。
渥美清が森繁久彌から授かったという長持ちのアドバイス、「誉め言葉も批判も、どっちも話半分」は究極的助言。
しかし、提灯記事やヨイショの絶賛に他愛もなく喜んでしまったら、辛い批評を書く人間を憎む資格さえ失ってしまうのだ。

図式としては、いい。SNSで話題を拡げてくれ、「いいね!」やリツイートの数で判断材料になってくれる沢山の人々と、その人達の目安になる、いつもバーでひとりの不機嫌なばあさん。
彼女だけが、本作の主要登場人物の中でひとりだけ、客席以外には劇場の中に入らない。僕がさっきしつこく書いた、舞台と客席をつなぐ空間、虚実の結界に近寄らない。双葉十三郎言うところの〈外在的批評〉の立場を守っている。
だから、彼女を登場人物の中で唯一ブレない者としてより丁寧に描き、図式をさらに明確にしたほうがよかった。

なぜブレないか。彼女だけが登場人物の中で唯一、あらかじめ孤独を受け入れているからだ。
彼女をキープレイヤーに、迷うリーガンと対照になる存在にしていないために、忘れられかけたスターが思わぬ舞台上のハプニング(ぼかして書きます)でたちまちネット上の有名人に再浮上、の寓話的な落としどころが、今ひとつ効いていない。

先の場面。やりとりを全く逆にトレードして、
「あんたはどうせ俺のような映画スターが嫌いだ。初日の幕が上がれば粗探しに精を出して、容赦なく酷評するつもりだろう。きっとそうだ」
「あら。よければ誉めるわよ?」
と、にべもなく言い置き、立ち去る。

こんなやりとりだったら、僕はもっと『バードマン』に唸っただろう。
リーガンが、クダを巻きながら心理的逃げ道を用意しようとするのに、冷静に釘を刺す。
こういう展開のほうが、よりリーガンはデスパレートに追い詰められ、PLAYがPRAYになり、「そうだ。俺は俺でいいんだ。俺は確かに俺でありつつ、バードマンなんだ!」的納得へと向かっていく終盤の展開がよりズバッと決まっていただろう。

と、当の批評家がこぞって絶賛、アカデミー脚本賞映画のホンが肝心なところで弱い、なんて意見を提出してしまいましたが。
それでも、ゼンゼン、見て良かったよ。サントラも欲しくなるし。

すっかり忘れていたのだが、イニャリトゥについては『知っておきたい21世紀の映画監督100』(10・キネマ旬報社)という本で、ささやかな作家論を書いている。
http://www.kinejunshop.com/top/detail/asp/detail.asp?scode=01s0335&page=top/search/asp/list.asp?s_cate1=17$s_cate2=$s_cate3=$s_cate4=$s_cate5=$s_price1=$s_price2=$s_scode=$s_sname=$s_keywords=$sort=$pagemax=9$getcnt=0$pagecnt=1

もう5年前かあ。『バベル』(06)の後、ずっと撮っていなかったんだっけ、と思ったら、『BIUTIFUL ビューティフル』(10)があった。本が出た次の年、11年の公開。見ていない……。
この、いったん原稿をまとめたら、そこでいったん成仏してしまい、その後の新作フォローが淡白になるいい加減さ。僕が映画ライターとしてもモノにならない原因のひとつだと思う。

とにかく久々に読み返すと、
「(タランティーノの作風のフォロワーから始まったが)次第にオリジナルの才能と野心を覚醒させていった」後天的なタイプ。
「手持ちカメラの肉感的なリアリズム」を駆使しながら「コミュニケーションの困難と渇望を巨視的かつ寓話的に」描く。
で、「皮肉な結びつきに人々が支配される運命論めいた作風」が、だんだん「和解と希望へのヴィジョンの提示へと変化」してきているものの、脚本家のギジェルモ・アリアガとの長年のコンビを解消した後は果たしてどうなるか……、云々。

出版部(本誌とは別のシマ)とはいえ、キネ旬ですからね。気張って評論家っぽく書いとるなあ。なかなか照れくさい。

実際、イニャリトゥは『バベル』を最後にアリアガと離れた後(後にこの人も監督になる)、長編デビュー作『アモーレス・ペロス』(00)以来の、別々のエピソードと時間軸が複雑に交差する特徴的な作りを捨てた。
しかし、より個にテーマを帰する物語づくりへと変わりつつ、「和解と希望へのヴィジョンの提示」を描かんとする軸の太い部分は、以前と変わらず進めている。
これを、5年振りに確認することができた。『BIUTIFUL ビューティフル』見てないくせに言っていますけどね……。

前述した通り、レイモンド・カーヴァーもほとんど読んだことないもんで。スミマセンの連発なのだが。ただ、喪失と救済、みたいなことがこの作家のモチーフだとは、耳にしたことがある。
そうであるなら、イニャリトゥが好み、新作の支えにしたのは、スムーズに納得できる気がする。

 

 


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2 コメント

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どうもどうも (kumeta)
2015-05-17 00:03:10
やあやあブログ見つけましたよ!相変わらずいっぱい書いてますね。ワタクシも“バードマン”観ました。感想は「相変わらず才気に溺れるイニャリトゥであった…」“ビューティフル”はもっと普通にやってて好感持ったんですけどね。ではまた!
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お久しぶり (桑原啓子)
2015-09-02 20:26:34
若木君、久しぶり!!相変わらずだね。
文章読んでいると若木君の声が聞こえてきました。あー元気なんだなぁと
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