くさぶえの道

身辺雑記 思い出の記

あと何回

2009-10-26 23:57:47 | 験す
今年もまた例年と同じ虎ノ門の霞ヶ関ビルの最上階で小学校の同期会を行った。万年幹事の私は少し早めに家を出た。去年と殆ど同じ顔ぶれで、今年は珍しい顔ぶれも増えたが、来られなかった人もいて、人数は去年と全く同じ。

ヘルパーさん同伴の人もいた。兄姉の多い末っ子で誰からも愛された、学校一と言われたほどの秀才さんだった。私も一番好きな友達で、家に遊びに行くと本棚にぎっしり、子供向けの全集が揃っていたこととか、近くの原っぱで転げまわって遊んでいるうちに、彼女のセーターが犬のフンで汚れてしまったことなど思い出は多い。ずっと教壇に立ち、二人だけの暮らしだった最愛のご主人を去年亡くされ、老人ホームに移ったばかりらしい。心配した受け答えなどはまだ尋常で、にこやかな表情は以前のまま。ようこその参加で本当に嬉しかった。

遠くは岩手県、富山県から参加の人たちもいた。この年齢になると大なり小なり身体のどこかに故障を抱えていても、同窓会に出かけられるぐらいだからそれなりに元気には違いないが、今年は心なしか以前のような活気がないように感じられた。毎年全員で歌う校歌や唱歌の合唱もしなかったし、いつもハーモニカで場を盛り上げる人も今回はやらなかった。聞くと、「少ない肺活量で吹いてみても、聴く立場になってみると辛いものがあるだろうから」だそうで、今年は持参しなかったと言う。

終始会場に、何か郷愁を誘う音楽が静かに流れていたので聞いて見ると、そのハーモニカさんが、昔小学校のお昼時、お弁当を食べながら毎日聴いていた曲を集めて持ってきてくれたものだった。トロイメライ、G線上のアリアなど、名曲の数々が校内放送で流れていたのは音楽の先生のお骨折りだった。聴いていると昔のお弁当時の教室風景が浮かんでくるような懐かしさだった。

あと何年こうして集まれるのかなと考えてしまう。万年幹事の私も結構くたびれてしまった事だし。但し後二人の幹事さんは最近まで、お勤めをしていたぐらいの元気な人たちだからまだもう少し頑張れるかもしれない。

雨上がりの道で

2009-10-16 19:16:24 | 歩く
金木犀の散り始めた雨上がりのくさぶえの道を歩くと、昨日は道一杯に子供が描いたらしい落書きのある箇所が、昨夜の雨に洗い流されたのか、綺麗に消えてしまっていた。幼い手で描かれたらしい女の子の姿やそのほか色々な図形が、まだあるかなとちょっと期待していたのだが。 最近は子供らしい落書きを途上で見かけることなど滅多になくなっているので、昨日は何か珍しくも懐かしい風景を見たような気がした。石畳の上だったが、一体どんなもので描かれたのだろう。チョーク、それとも蝋石?それとも何か他のもの?

 私の小さい頃は、たいていの子供達はポケットに一つや二つ蝋石を持っていて、屋外の遊びの場では大いに使われたものだ。落書きもしただろうが、それは路上遊びには不可欠の道具。ケンケン跳びや、陣取りのマーク、何と言う名前だったか、双六のような遊びの大きな渦巻き模様等々、場所はアスファルトや石畳のある処というより、よく踏み固められた土の上だったが、はっきりときれいに書けた。あの灰色の小さな硬い直方体の蝋石、今でもあるのだろうか?そんなことをふと考えながら歩いた。

暫く行くと前方に若いお父さんらしいのが一、二才の子供を抱いて歩いていくのに追いついた。子供は父親の肩越しにこちらに顔を向けて大分前から間延びのした大声でひっきりなしに泣いていた。大きな口をあけてこちらを眺めながら、不快を表すというよりただ甘え泣きをしている事はその泣き方でわかったが、その大声と大きな口が可笑しくもあり、泣きやまそうと私は後ろから盛んに顔を作って子供の注意を引いてみた。案の定子供はアレッというように泣き止んだのだが、丁度大きく開けたばかりの口を閉じる代わりにそれを急遽大欠伸に変更してしまった。それが何か体裁を繕っているようにも見えて、小さな子供でもこんな感情が働いてごまかしてみたりするのかな?と面白く感じた。それきり子供は胡散臭げにこちらを伺いながら大人しくなり、父親の方は何事もなかったように行ってしまった。

私はこの手で子供をあやしたり、注意をそらしてみたりするのが得意だが、(ただし親の見ていないところで)大抵は一時的に効果があるようだ。或る時一度、面白い顔を作ってみせたら、「どうして兎さんのお顔をするの?」と片言で聞き返されてしまった。子供らしい真正面からの質問に恐れ入ったが、それがとても愉快でもあった。

脳は身体のしもべ?

2009-10-06 12:00:23 | 読む
最近或るCMの小冊子をパラパラめくっていると、ちょっと興味を惹かれる箇所に出会った。それは「脳が身体に命令を出しているのではなく、その反対で、脳も身体の一部で、所詮はからだに支配されている。」という箇所。今まで言われてきたこととは反対だし、文字通り信じてよいかどうかは分からないけれど、この言葉の裏は、身体を健康に保って生き生きと使えば、脳も元気についてくる、ということらしい。これなら解る。 

具体的に述べられている例をそのままを引用すると、「集中力が衰えたからもう読書が出来ないなどと、とかく脳のせいにしがちだが、実は体が衰えて、疲れてしまうだけ。日頃から読書する姿勢を保てる筋肉や、目の健康を維持していれば、何歳になっても、脳は喜んで読書についてくる」とある。

そうか、やっぱり身体はマメに動かせということね。でも齢は争えない、何かやりかけてもついダラけてしまったり、気が付くと居眠りはしているし、どうしても身体の方が直ぐ疲れるんだから、と自分で言い訳をしてしまう。ところが翻って考えると、好きなことをする時はまるでそんなことはないではないか。ちょっとやそっとのことでは集中力が途切れる事はなく、目の疲れも肩の痛みも気が付かないほど熱中してしまう。でもこれはやはり身体の方が脳に支配されているってことではないだろうか? 何だか分からなくなってしまったが、私の場合はまだまだ身体的には脈があるらしいことだけは分かった。

最近とみにダラケがちになっていることを託っている夫に、この「脳は身体のしもべ」の話をしたら、妙に納得したようで、「もうすこし身体を動かす努力をしよう」という気になったようだ。少なくともこの瞬間は。

もう一つ改めて確認した事は‘脳は健康的な生活をしていれば常に変化しながら成長し続ける’ということだ。このことは神経回路から伸びるシナプスがどんどん増えていくのかと思ったら、その逆で必要な回路を見極めて、不要な物は削られ整理されていくらしい。即ち、‘人は齢を重ねて大人になるほど的確な行動ができるようになる’と言うことになる。しかし実感としては当たっている面もあるが、誤作動が増えていることも事実。これは単に不注意からきていて、しかもその不注意が年齢とともに増えてきているということで、脳の成熟とは別問題なのだろうか。