くさぶえの道

身辺雑記 思い出の記

途中風景

2006-08-30 12:22:51 | 歩く
 朝ごとに歩くくさぶえの道はいつ見ても美しく、何か発見があります。1.5キロ余りの緑道ですが、入念な設計に基づいているのでしょうが、その意図を感じさせないような自然な佇まいを見せています。中央には各所で、その表情を変えるせせらぎが大きな人工池まで続き、両側は広い草地あり、石畳あり、木陰の多い砂利道あり、それも曲がったり真っ直ぐになったり変化に富んでいます。なかんずく私が一番好きな風景は所々左右に分かれる道が草地の間をなだらかなスロープの道を形作っていたり、ゆるやかな階段になっているのを遥かに見晴るかすところです。その辺りにはさりげなく趣きのあるランプなども立っています。両岸遠くに見上げる家々や大きな建造物も公園の一部として美しい眺めになっています。

植物は言わずもがな、千差万別、四季の移り変わりを身近に見せてくれます。今の季節はオレンジ色の百合科の小さな群落以外にはあまり目立つ花は咲いていないのですが、途中のグラウンドには白いむくげや百日紅が花盛りです。

こんな素晴らしい緑道ですが、大抵は唯ただ無心に歩いたり、時には頭の中で色々な遊びを考えながら歩くこともあります。例えば或る一つの単語が付く変わった言い回しを思いつく限り探す、など。数字に関する言葉だったら帰り着くまでにいくつでも、出てきて頭がヘトヘトになります。その他長らく忘れていた歌の歌詞、例えばをシューベルトの魔王などを全部思い出す努力をしてみたり。勿論声には出さず頭の中だけですが。朝の一時間余りの贅沢な遊び時間です。日によっては足が重かったり、疲れを感じたりすることもありますが、今朝のように蒸し暑かったにかかわらず、まだまだ沢山歩けるような気がするほどの時もあります。大体帰り道の途中くらいで、体の心からじんわりと汗ばんでくるのが普通で、大汗をかくこともありません。これで見た目がスマートになっていればいいのですが、体重を量ることはまずありません。なぜでしょう。

猫も居るくさぶえの道

2006-08-29 23:57:26 | 歩く
くさぶえの道はいわば谷間の緑地帯で、途中二つの大きな車道橋が跨っています。
一本の橋の下に一年を通して、数匹の猫が住み着いています。そして、以前はホームレスも二人住み着いていました。鴨などもいるせせらぎを間に挟んで、両側の広いプラットホームにそれぞれ別れて簡易ベットや細々した身の回り品を置いて寝起きしていました。半年ほど前二人同時に家財道具と共に姿を消してしまいましたが、そのうちの一人が飼っていた猫が残っているのです。
水のペットボトルやえさ入れは置いたままになっていたので、以前の住人が時々世話をしに戻っているだろう事は知っていましたが、今朝は一寸早起きをしたので、実際の光景を目の当たりにしました。野球帽を目深にかぶった小柄なおじさんがえさをやったり、頭をなでてやったりしていました。

猫たちはどれも丸々と肥って、通行人をのんびりと眺めているだけでとても野良には見えません。付近を歩き回るのを見たことはなくていつもその場から離れないのです。寒い冬の間はどのように暮らしていたのか、暖かくなるとどこからともなく現れてやっぱり同じところで三々五々うずくまっているのです。通リ過ぎる犬たちともお互い無視し合っている風で穏やかなものです。

私は特に猫に対してははあまり愛想が良い方ではないのですが、偶にお早うと声をかけるときまってニャーと返事をするのが一匹だけいます。それが面白くて時々やっては確かめています。

本2冊

2006-08-24 12:51:36 | 読む
 今二冊の本を読み終えたところです。平行しながら読んだといっても、一つはほんの二,三日、もう一方は読み終えるのに一ヶ月ほども懸かりました。これは懸かったと言うより、一寸気恥ずかしい表現ですが、珠玉を手の中で愛でる様に手放さず毎日少しずつ、少しずつ読み終えるのを惜しむような気持ちで読み進めてきた本です。

短い方は”白バラは散らず”と言って初版は40年以上も前のものです。ナチス台頭の頃、数人の学生グループが抵抗運動に立ち上がり、その中にたった一人少女がいたのですが兄や他の学生たちとと共に結果断頭台の露と消えた実話です。主人公のショル兄弟の姉によって淡々と事実に即して書かれています。

抵抗運動といっても特別の組織というほどのものでなく、若者たちが良心に従って自分たちの出来ることで大きな力に立ち向かった謂わば当時のドイツの良心の話です。白バラとして、あるいはゾフィー・ショルの名前は聞いてはいましたが、きちんと読んだのは初めてでとても感銘を受けました。似たような課程をたどった日本にも当時このような若者たちが居たか、居なかったか、考え込んでしまいました。

さてもう一冊の本は、”アウステルリッツ”、著者はW・G ゼーバルトと言うイギリス定住のドイツ人ですが、2001年に交通事故で亡くなっています。
この物語は終始、「・・・・とアウステルリッツは語った」 と言う文体で綴られています。あまりにも内容が濃密で、かいつまんで紹介しようにも一体どのように始めたら良いのか判らないほどです。兎に角アウステルリッツは虚構の名前ですが、身分はウェールズの建築史家であって、(以下は訳者の後書きから抜粋)帝国主義の遺物である駅舎や裁判所や要塞都市や病院や監獄に興味を引かれ、文献をひもとき、それらを見て回っては記録している。彼の話の聞き手であり、この作品の語り手である<私>に向かって驚くべき博識を開陳する。時代のイデオロギーを体現した巨大建造物に寄せて語られる、19世紀から20世紀にかけての近代の歴史のさまざまな断片。前へ前へと進んでいく時間の流れの中で繰り返されてきた暴力と権力の歴史~~”云々

だんだん読み進めていくうちに読者は、彼自身が五歳に満たないうちに名前と言語と故郷を失い、四歳の時イギリスに移送されて助かったユダヤ人だったことがわかってきます。終章に向かうほど衝撃的な内容であるに拘わらず、文体が、これは訳者の優れた力量にも拠ると思うのですが、読み易く品格のある端正なものでそれが珠玉のように感じられたのです。沢山の写真、特に大きな殺風景な建造物なども多く挿入されているのですが、どれも殊更の説明もなく、唯ポンと放り出されたような不思議な雰囲気を持っていて、それを読み解くのも魅力の一つでした。

アウステルリッツ自身が語った印象的な言葉をひとつ、「過去が戻り来る時の法則が私たちにわかっているとは思いません。けれども、私は、だんだんこう思うようになったのです。時間などと言うものはない、あるのはただ様々な、高度の立体幾何学にもとづいて互いに入れ子になった空間だけだ、そして生者と死者とは、そのときどきの思いのありようにしたがって、そこを出たり入ったり出来るのだ、と。そして考えれば考えるほど、いまだ生の側にいる私たちは、死者の目にとっては非現実的な、光と大気の加減によってたまさか見えるのみの存在なのではないか、という気がしてくるのです。」  入れ子になった空間・・とはなんという洞察力!

食糧難時代

2006-08-20 18:27:10 | 験す
 終戦記念日が廻ってくる頃になると様々な事柄に触れる度に当時の思い出が蘇ってきます。とくに食べ物の事となると辛い記憶ばかりで切なくなります。

 スーパーで山のように買い物をして帰るとき、デパートの地下で、目も彩な食品の陳列を目にする時、出先で、あまり美味しそうなところばかりで、食事をするお店の選択に迷ってしまう時、60年前の誰が日本の将来のこんな光景を想像できたでしょう。あの頃の我々に今の百分の一の食料でもあったならと考えてしまいます。
(<あの頃の僕に上げたい今の金>青年失業家 万柳より)

 戦前に小学生時代を送った私などの世代迄はそれなりに潤沢で、美味しい物の味も知っていたのですが、戦中と戦後すぐ生まれの弟妹などは、最初から碌な食べ物も無く育ったようなもので、末妹など戦後間もなくはバナナや西瓜も怖くて食べられない子供でした。

 戦争中でも初めの頃は配給品もまだ体をなしていましたが、だんだん酷くなってくると、十軒ほどの隣組にたった一本の大根とか一匹の魚しか来ないようになりました。しかもそれが一日分ではありません、次はいつ何が来るか判らないのです。
たまたま隣組の組長だった母に代わって大根を軒数だけ、等分になるよう切り分けた時の事を良く憶えています。私の腕前も大したものでした。勿論家のせまい庭も菜園と化していましたが、足りるはずも無く、芋づるや、庭草の若い擬宝珠の葉まで食べました。

 都会ならどこの家庭も同じでしたが、母も見知らぬ農家を訪ね歩いては、自分の着物を一枚ずつお米やお芋と換えてはしのいでいました。良い着物はその頃殆ど食べ物に変わってしまったのではないでしょうか。清瀬とか飯能は当時よく聞いた買出し先の地名です。

 料理らしい料理を作ることなど夢の夢で、食事と言っても米と野菜を一つ鍋で一緒くたに煮込んだ雑炊ばかり。幾つかあるのに無用となった鍋を眺めて、一体これらを使う日がまた来るのだろうかと暗澹とした気持ちになったのを憶えています。
父の故郷に疎開してからは麦飯でもお代わり自由で、同じ南瓜でもクリーム煮とか天ぷらなど、食卓には毎日のようにホカホカした粉ふき薯も用意してあったし、戦争末期の東京ではまず考えられない恵まれた食事を半年続けさせて貰い、殆ど栄養失調寸前だった状態から脱して東京に帰ってきたのですが、飢餓感というものからは暫くの間開放されなかったような気がします。
 食料不足は戦後も暫く続いて、アメリカ軍がバターやジャムの大きな缶詰などを放出してくれました。お弁当がいつまでもふかし芋だけといったクラスメートも居て担任が気遣われたこともありました。

 同じ国にいてこれだけの変遷、今はむしろ過剰を危惧せねばならない状態に来ているようです。食品の多くを輸入に頼っているというのに、おまけに地球上には食料不足どころか飢えの人口の方が多いと言うのに。沢山の無駄を出し、こんな贅沢をいつまでも続けていられるものなのか?飢えの時代を経験した人間としては却って空恐ろしく思われる時さえあります。もう二度と飢えることのないよう願ってはいますが。
(<何食べてもらいたいかと孫が聞く>厚地久雄 万柳より)

私としてはあの頃の渇望を取り返すかのように美味しいものを沢山食べたいのですが、時既に遅く、健康面でもそれが出来ない齢になってしまいました。トホホ

帰京

2006-08-16 11:21:42 | 歩く
 私と妹は復員してきたばかりの従兄に一旦大阪の叔父の家まで送ってもらい、そこでやはり復員してきた父と合流して帰路に着いたのですが、それは既に12月の半ばになっていました。復員と言っても父は40歳すぎの応召で終始内地勤務ではありましたが。

岡山での最後の夜は飼っていた鶏をつぶして心づくしの鶏鍋でお別れ会をして貰ったのですが、その直前、中庭での鶏の騒ぎを聞いてしまった私はすっかり食欲をなくしていました。大阪では豪勢なすき焼きをご馳走になったり、帰りのお弁当に持たせてくれた竹の皮に包んだ大きな真っ白なおにぎり等、鮮明に記憶にあるのは全部食べ物の事ばかりで・・・いやはや。

食べ物以外ではっきり目に焼きついているのは、東京駅から恵比寿までの山手線の車両の中の風景です。当時の車内の電灯は曇りガラスのカバーをつけた直径3,40センチほどのものでしたが、その一つが頭上で危なっかしくゆれているのです。たった一つ残った留め金で、かろうじてぶら下がっている状態でした。今では考えられない事ですが、戦争末期にはその山手線も混雑で窓から乗り降りすることが普通な程になってきていましたし、従って車内は荒れた儘の状態が続いていたのでしょう。

疎開せずに一人で家を守っていた母と、一足先に母方の疎開先から帰っていた4歳の弟に会える喜びでまさに宙を飛ぶような思いでやっと家に帰りつくことが出来ました。かわいい坊やと久しぶりにじゃれ合うのにいそがしくて、留守中に産まれていた妹に大した注意も払わなかったもので母に”こっちも少しは見てやってよ”と言われてしまいました。その時の赤ん坊もはや還暦を過ぎました。
到着してすぐの食事が薄い小豆(もしかして高粱<コーリャン>だった?)のお粥だったので、母はずっとこの様な食事が続いていたのかショックを受けたのを覚えています。

学校は元のところに戻りましたが、学校自体は空襲で全焼していたので戻った先は焼け残った隣接の小学校でした。級友もかなり減っていましたが徐々に戻ってくる人がいる一方、焼けなかった他の学校に転校して行く人もいました。如何に小所帯とはいえ、いつまでも同じところに間借りすることも出来ず、次に移ったのが世田谷の和光学園、最後は国学院大学でしたが、その間次々来られた新しい先生方が学識豊かなしかもユニークな人材ぞろいで、中には当時たいへん著名な学者の先生もおられて、印象に残る面白い授業を沢山受けることが出来ました。あの頃は我が校のルネッサンスだったね、と思い出話に語り合っています。時には青空の下で受けた授業もありましたした。國學院大學に居候の頃は教室の机に当時評判だった小説の題名をもじって<我が青春に食い物なし(悔いなし)>とか若きウェルテルの悩みをもじって<若き飢えてるの悩み>などと言う切実な落書きもありました。

その間一人の先生の熱意と手腕のお陰で、学校所有の菜園に新校舎の建設の準備が着々と進んでいました。生徒の我々も出来るだけの協力をしましたが、それまでには紆余曲折色々苦労があり、バラックではありましたが出来上がった時の喜びはひとしおでした。高女5年生の時に新制高校に変わった為私たちの学年は卒業が一年延びて、そのお陰で我々もこの新校舎に間に合い、そこで卒業式を迎えることが出来ました。現在は同じ場所で三階建ての立派な校舎になっています。


 卒業までに焼けた最初の校舎を含め5箇所の校舎を経験したわけで、その間の想い出は一つの物語のようです。苦労もありましたが教室だけでは学べない得難い貴重な経験を数多く持てたと思っています。

終戦記念日

2006-08-15 19:46:30 | 歩く
 あれからもう61年も経ってしまったのかと不思議な気持ちになりますが、終戦のあの日の岡山の空は良く晴れ渡っていました。
場所は疎開先の県立高女。学徒動員の教室内作業を中止して、全校生徒が講堂に集合、玉音放送を聞かされました。でもその内容は私などには殆ど理解できず、校長先生の説明で始めて日本がこの戦争に負けた事を知りました。
最初はとても信じられず、口惜しい思いだけが先立って前後の事はあまり記憶に残っていません。唯一つ級友の一人が 「私が家に帰りたがって不平ばかり言って作業を真面目にやらなかったせいで日本が負けてしまった!」と大泣きしたのを覚えています。この人はいわゆるバンカラ少女でクラスではちょっと目立つ存在で、山深い所から来ている何人かの寄宿生の一人でした。床に寝転がっておなかを叩きながら”腹が減った、腹が減った”と春が来たのメロディーで歌って皆を笑わせたり、お弁当を午前中に食べたりしていました。それを作ってくれた寮の小母さんの悪口を言いながらアルマイトの弁当箱を披露してくれるのですが、そのご飯があまりに少なくて片隅によっている上に、おかずが梅干が一つだけと言った可哀想なものでした。私はと言えば食糧難の東京から殆ど栄養失調状態でやって来たのですが、疎開先の伯母の家が酒造家で比較的食べ物には恵まれていたので命拾いをしたようなもので、これは今でも本当に感謝しているのですが、そのバンカラ娘もそこに目をつけて、”伯母さんとこの酒粕を貰ってきてくれん?”としょっちゅう私にねだるのですが、こっちも居候の身の上、気の毒とは思ってもとうとう一度もその願いを聞いて上げることは出来ませんでした。ちょっとっほろ苦い思い出です。でも別に意地悪されることもなく、私が東京に帰るときは涙で送ってくれました。敗戦にあたってのあの大泣きと言い、純な人だったと思います。
玉音放送の後、親類の皆が集まって今後の日本の行方をあれこれ興奮して語り合っていましたが、大方は悲観的なものでした。東京は特に占領軍によって酷いことになるから帰らない方が良いとも言われました。でも私は東京に帰りたい思いで一杯でした。唯、あの警報のサイレンをもう聞くことが無いと言うことが信じられない不思議な感じだったのを憶えています。東京だけでなく静かな城下町の疎開先でも警戒警報は日常的と言うほどでないにせよ時々はあったので、私と妹の疎開組みは今までの習慣通り枕元に避難用リュックサックを置いて寝ていました。これはさすが笑われていましたが。
さていよいよ帰京が叶ったのはそれから4ヶ月もあとの事でした。

停電騒ぎ

2006-08-14 18:26:57 | 聞く
 朝8時過ぎ突然の停電。一瞬呆然、慌ててブレーカーボックスを調べ異常ないことを確かめ暫く待つことに。最近は殆ど起こらないことで、長くならないことをひたすら祈って待つ事10分足らずで再開。比較的短時間でほっとしたのですが、その僅かの間に色々な思いが頭をよぎりました。まず、情報が入って来ない、だからどれだけ長時間にわたるものか判らないので、この暑さに扇風機も回らない、IHの台所で炊事も出来ない、冷凍庫の食品がだめになったら?等々。我が家の不安はまだこんな程度の事ですが、街ではどんな事が起きるだろうと色々考えてしまいました。電車、信号機、エレベーター、そのほかあらゆることを電気に頼っている現代社会ですから。
今回の停電の原因は何でも江戸川のはしけに載せたクレーンが送電線に触れたという全く単純な人間のケアレスミスでした。
場所によっては停電状態が長くなってしまい、どれだけ沢山の人たちが迷惑を蒙ったことでしょう。ディズニーランドで待ちぼうけとか、駅の券売機が働かないなどは思いつかないことでした。恐れていたエレベーターの閉じ込めは都内だけでも40件あまりもあったと後で知りました。
私などはほんの10分ほどの間でしたが、改めてさまざまな事柄に気付かせてもらった良い機会になったと思います。

朝歩く人たち

2006-08-10 18:40:36 | 歩く
 雨で二三日歩かなかったので、快晴の今朝は久しぶりのくさぶえの道でした。
6時ごろでも結構太陽が照りつけ始め、すでに今日一日の暑さの予感がします。
夏休みに入ったので子供の姿が少し増えました。普段はお父さんと一緒にジョギングする子がごく少数いて、中にはべそをかきながら必死にお父さんについていく姿も見かけていました。今朝あたりは子供同士何組か来ていました。
ジョギングの人は大抵苦しそうでないまでも、一心不乱でわき見もせず、と言った風情ですが中には喘ぐ息の下からすれ違いざまきちんとご挨拶して下さる人も何人か。別に顔見知りではないのに律儀なことだと感心してしまいます。山中などでは、すれ違う人がまばらな時はお互い挨拶が普通で、早朝の公園も同じようですが、挨拶抜きの方がやや多いといったところです。

毎朝必ず両手を大きく左右に振りながら歩く人、時々後ろ向きに歩く人、発声練習をしながら歩く女性もいます。その人の声は遠くかからでも良く聞こえ、本人は人影の無い時にそっとやっている積りでしょうが。カロミオベンなんか本格的にやるのですから丸聞こえです。ご夫婦連れも結構多いのですが、いつも三歩下がって夫の影を踏まずの形を絶対にくずさず、シーンと静かに歩くかなり年配のカップルがいるかと思えば、先日は私の後ろを歩いている間中、まるで自宅の茶の間にいるかの如き大声で、喋る内容もその通り、勿論一方的に止むことなく喋っているのは奥さんで、その何分間は全くウンザリでした。

今朝は路上で一人の男性と、犬の散歩の女性が何やらもめている様子。何事かと思えば、その女性がいつも数匹の子犬プードルを首縄をつけずに散歩させているのを男性がなじっているのでした。「ちゃんと見てますよ!」と女性が気色ばんで言い返すと、「あちこちフンが散らばってるじゃないか!」とおじさんは大声で捨て台詞して行ってしまいました。どっちに分があったのか判りませんが、くさぶえの道は沢山の犬連れが通る割りにはいつも清潔で、飼い主のマナーのよさを感じています。殆ど犬の落し物を見かけたことは無く、今朝もそうでしたが。
以前ガイロのご主人から聞いたやかまし屋いうのはもしかしたらこのおじさんだったかもしれません。その人は公園で、首の縄をはずして犬を遊ばせていると飼い主を怒鳴りつけるのだそうです。犬と飼い主の様子、場所など見れば一目でわかることを杓子定規に”放し飼いは怪しからん”と声高に叫びたてる類の人なのでしょう。ガイロパパはトコトンやり合ってその時は言い負かしたとはいっていましたが。

原爆の日

2006-08-06 18:29:46 | 観る
広島に原爆が投下されてから61年になります。おりしも岡山県に疎開していた私にとっては隣の県であっても何一つ知らず、変わった事もない一日でした。
東京空襲の時は、夜空をサーチライトに照らされ、高射砲の炸裂する中を飛ぶ何機ものB29も見たし、避難していた防空壕の辺りにも沢山の焼夷弾が落ちて、衣服に火が飛び移って逃げ惑う人もみたし、母が最後に防空壕に逃げ込んだ途端、壕の蓋に焼夷弾の破片が直撃したり、我が家は助かったのですが、数軒先までが火の海になり必死にバケツリレーで消火しました。それらの風景はほんの昨日のことのように思い出されます。思えば子供たちも国内にいながら戦争と言う大変な危険の真っ只中にいたわけで、原爆と言い、僅かのの差で偶然命拾いをして今日まで生き抜いて来たのだなと思うのです。東京大空襲といっても、下町と違って、私の周りの人々の間では、家こそ焼かれはしても怪我をしたり、命を落としたりした人は一人もいなかったのは幸いでした。クラスメートのなかには焼け出された人も多くいたし、それでなくても戦火が激しくなる前に疎開のため、クラスの大半は散りぢりになり、戦後私のように戻って来た人は半分位で、沢山の懐かしい友達と二度と会えなくなってしまったのが今でも本当に残念に思われます。
今日のテレビ番組で、広島に原爆が落とされる少し前に日本でも原爆を作ってテストまで終えていたことを初めて知りました。仁科博士などがそのような研究をしていたことは聞いていましたが。兵器として開発したのですから、もし日本が先に
使うことがあったとしたら・・・心底恐ろしい話です。広島、長崎で被爆された人たちには本当に申し訳ないないのですが、日本はむしろ被爆国であった方がその逆よりまだ良かったと思いました。この特別番組ではそのほか、軍の命令で日本人軍医らが秘密裏に行ったアメリカ軍捕虜の生体実験の話も取り上げていましたが、通して聞くのが辛くて耳を塞ぎたいようでした。どこの国の人が残酷だとかあるいはそううでないとか言うことは出来ない。戦争と言うものがどんなに人間を恐ろしいものに変え得るのか改めて思い知らされました。




笑い方について

2006-08-03 13:44:43 | 聞く
 今朝の烏山公園は幸い昨日の若者らの姿はなく安心しました。夫の話によると、昨日の騒ぎはどうやら夜中からで、3時半頃すでに始まっていたとのことでした。日ごろから夫は騒音と言うより、大笑いの声、例えばテレビのバラエティ番組等のけたたましい笑い声を極端に嫌がり、それだけでその番組を避けてしまいます。その気持ち大いに判るのですが、私自身はと言えば、面白いの大好き、しょっちゅう大爆笑をやらかします。夫によればその大方はバカ笑い、と言うすげない評定が下りますが、こればかりは突然の襲撃に会うようなものでどうしようもありません。でも無意識であるからこそ、笑い方一つにも日頃の嗜みの無さが露呈されると考えると、いささか恥じ入ります。大爆笑するにしても、少しでも上品に笑えたら良いのですがね。
 子供の頃、ラジオで落語を聴くのが大好きで、演者は誰だったか「花色木綿」を初めて聴いた時などは死ぬほど笑いました。多分いつもその日聞いた落語の筋を報告していたのでしょう、父が勤めから帰ってくると、父の方から「今日のオチは何だった?」と聞いてくれたのを思い出します。
「花色木綿」は今聴くと抱腹絶倒とまではいかず、あの頃なぜあれほど笑ったのか判りませんけれど。今でもお笑いは大好きで「東西落語特選」とか「上方落語メモ」などダウンロードしてプリントを作り、一人で声を出して読んでみたりします。そこ迄はまあ良いとして、読みながら自分の語りに大受け、大笑いしているのは我ながら尋常ではありません。特に関西弁の語り口は結構上手に真似してやっている積りで、それが可笑しくて、面白くてそれだけでも笑ってしまいます。傍から見たらさぞかしヘンテコ人間に見えることでしょう。
同じ上方でも、日曜日の或るNHKの番組、よく見るのですが、出演者の軽口や漫才風の賑やかしの方は面白くもないし、毎度ウンザリでよく皆笑えるものだとアホらしくなります。多分これは習慣かあるいはお義理の笑いだろうと思ってはいますが。漫才そのものは東西を問わず大好きですけれど、相方やその連れ合い等、身内の容姿をこきおろすのが特に関西風に多いようで、そんな安易なくすぐりは全く頂けません。ユーモアでも何でもないし、陳腐なだけですからいい加減止めればいいのにといつも思います。

最近はテレビ番組のバトルで勝ち抜いてきた若手の巷のお笑いグループがどんどん出てきて本当に楽しませて貰っています。放映が夜遅いので、あまり上品でない高笑いを極力押さえながら観ています。