くさぶえの道

身辺雑記 思い出の記

子供の読書

2006-10-31 17:06:46 | 歩く
 日曜日は両親が所用で一日留守になるので、4年生の孫娘が朝から我が家で過ごすためにやって来ました。私は昼前からクラス会のため外出てしまうのですが、孫はおじいちゃんのお弁当まで携えて、自分は本を読んで過ごすから大丈夫と送り出してくれました。目の前が地区センターで、そこの図書室で1遍に2冊ずつですが、いくらでも借りられます。夕方帰宅して見るとまだ色々読み続けていましたが、おじいちゃんが言うには、何べん出たり入ったりしたか判らないというほど借りてきては読んでいたとの事です。童話は卒業したのか、年齢相応の少女向け読み物でした。この子は以前から本好きなのでこれからもこんな調子で行くだろうと思っています。

 先日息子が電話で、自分の昔持っていた少年少女向けの本がまだこちらに残っているかと訊いてきました。自分の子供らの国語能力が怪しいので、これはいかん、本でも読まさなければ、と思い立ったらしいのです。そういう自分は子供時代どうだった?年がら年中外遊びに夢中で、折角目の前に揃えてある本など殆ど見向きもしなかったのに。親になるとこんなことを言うようになって・・・と内心可笑しかったのですが、そこは抑えて応対しました。 
 私自身昔子供たちに対してどうだったかと言いますと、一応本のある環境は作っておいても、読書を強要したことはなかったような気がします。本なんてものは読みたければたとえ禁止しても読むだろうし、そうでない子供は他にやりたいことが一杯あるのだろうし、気が向くまで放っておこうという位の気持ちでした。

 娘の方は前者で幼稚園の頃、将来の夢は本屋さんになることと言っていました。一方息子の方は子供時代は見事な後者で、従って国語の成績もあまりふるわず、これは一生読書などには縁なく暮らすタイプかと思っていましたが、高校の頃から量はいざ知らず結構マトモなものを読みはじめていることを発見、不思議な気がしたものです。でも子供時代に読んでおかなかった分だけ現在何か不足しているような気もします。
 そんな息子が昨日、中二の長女を連れてやってきましたが、その孫の読書については普段余り情報がなかったので、改めて訊いてみると、どうやら推理小説は読むらしいとわかりました。中一、小六の弟たちに至っては果たして何を読んでいるのやら、読まないのやら。親が心配する位ですから大したことはないのでしょう。たまたま届いていた上下二冊の「クオレ」を手渡してみましたが、パラパラとめくってどうもあまり関心がなさそうな様子、弟たちもきっと読まないだろうとの返事でした。クオレは最近の書店では全くと言っていいほど姿を消していた本で、自分がもう一度読み直したくて、ついでに孫共のためにもと思い、ネットで探して取り寄せたのです。多分そんなこともあろうかと予想はしていたのですがやはり少しがっかりしました。これは私が昔大好きだった本で、特にその中の「毎月のお話」のいくつかは、読むたびに大声で泣くほど感動したものです。今問題になっている学校での苛めなどの全く対極にある内容で、子供たちには是非読んで欲しいと思う本の一つですから。
 息子の長女も、娘の長女もハリーポッターは6巻全部読んだと言っていますので、新しい良い本がどんどん出てきているのですから当然かもしれませんが、昔は全くポピュラーでどんな子供でも読んでいたような幾つかの、例えばクオレのような本は今や古典となってしまったのでしょう。そのような本でも”物語は知っていてもマンガから仕入れた”と言うこともあるようです。ちょっと残念ですが、それでも知らないよりは良いのかもしれません。

 
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クラス会

2006-10-30 16:35:47 | 験す
 昨日、新宿中村屋でクラス会をやりました。私は今年の当番幹事の一人でしたので、予報に反して好天にも恵まれ、料理も美味しく、楽しく語らい、26人もの盛会で無事に終わって本当に好かったと思いました。

 私たちの学年は戦後すぐの学制変更で、同じクラスでも高女卒ともう一年残った高校卒が混ざっています。しかも戦中戦後の混乱期に疎開や空襲による学校の焼失で、生徒数が半減したので、3クラスが一つになり、こじんまりとなった上に、学校復興までに5箇所もよその学校を転々としたり、色々苦労が多かったので親密度もより深まったと思います。
 私が一番残念に思ったことは、その混乱期にクラスメートが散りぢりになってしまった事です。それぞれ個性的で素敵な人が沢山いました。勤労動員の工場でも一緒に楽しく作業もしました。そのうち戦争が激しくなってくると、私もそうでしたが、疎開で去っていく人が増え始め、そのまま帰ってこなかった人、また帰ってきても間借りの学校には戻らず、焼けなかった他校の編入試験を受けて離れて行く人も多数いました。その残念な思いから、卒業後のクラス会も何回目かからは、別れた級友たちにも加わってもらうことにしました。連絡のつく限りの人に声を掛けて参加を呼びかけたところ、結果10名足らずですが去って行った旧友たちが戻ってくれました。会の名前も担任の先生の名前一字を取って早春会と名づけました。

 それ以来毎年一度、幹事交代で今日まで続けてきました。10名亡くなり、現在は総勢65名ほどです。女性にとって当時はまだまだ厳しい時代でしたが、私たちの仲間はは永年社会人としても頑張った人が多いのが特徴です。教員や銀行員として立派に勤め上げた人たち、お茶やお花など一筋に励み、現在はその道で師匠と呼ばれるようになっている人たち、毎年上野に出品を続けてきた画家も二人、永年研究を続けて大学教授になった人も二人います。その一人は学長まで勤めてごく最近退職しました。他にも、パートながら添削などの仕事に現役で働いている人もいます。アメリカに住んでいる二人にも通知を出し、遥々来て貰う事もあります。

  今回ビックリしたのは全体的に以前より却って若々しく、華やかな雰囲気になっていたことです。勿論まっ白髪ですっかりご老人風になっている人もいましが、出席してくるくらいの人ですから、皆明るく元気です。昔から飛び切り派手で、賑やかなムードメーカーが一人います。彼女は去年大事故に遇ったのですが、嬉しい事にすっかり回復して、今年もまた相変らず賑やかに皆にハッパをかけてくれました。それから今度改めて気が付いたのですが、お互いに旧姓で呼び合うようになってきたと言うのが共通していました。古いことは憶えていても新しいことは忘れると言う老人の特徴の現れでしょう。

 やはり年齢は年齢なので幹事もそろそろガタが来始めているし、果たしてこの会もあと何年続けられるのか、最近はそんな心配を語り合うようになりました。今回は幸い上首尾でしたが、一昨年の早春会は、四人の幹事(私もその一人)がポカミスの連続で、その上二人が途中で怪我と病気で降りてしまったり、開催にこぎつけるまでちょっとした騒ぎでした。ともあれ、相談の結果次回の幹事役も決まり、一先ず来年の存続は確かとなりました。


 蛇足ですが、昨日は自分なりに珍しい経験があったのでちょっと書いておきます。。役目上、開会45分前には中村屋に到着するように新宿東口に出て、アルタの前で右折しようと通り過ぎた時、ふっと目の端に止まった人影がありました。混雑をちょっと離れて杖を突いて呆然と佇む男性です。どうやらが目が不自由らしいのですが、誰かを待っているようでもありました。何べんも振り返って見てから曖昧ながらそこまで戻り、「何かお困りですか?何かお探しでしたらご案内しましょか?」と声をかけてみました。やはりタクシーを捜しているとの返事でしたので私も不案内のところでしたが人に訊いてご案内しました。腕を組んで、ゆっくりゆっくり歩いたので、思わぬ時間がかかったのですが、こんな些細なことでも人様の手助けが出来てちょっと嬉しく思いました。
 今までにこの様な場面に出くわしたこともあったような気がしますが、声を掛ける勇気がなかったり、時間的に急いでいたり、ちゃんと役に立ったことがなかったと思うので。当番としてはちょっと遅れましたが、充分な時間があったので出来たことです。これが自分の忙しい時間を割いてまで出来るかと言うと残念ながら疑問です。そう考えるとこれは私にとってもラッキーな出来事でした。
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声を出さない人たち

2006-10-26 18:51:28 | 験す
 この頃というか、大分以前より気になっている事があります。多分そんな事どうでも良いと思っている人も多いかもしれません。そして多分本当に大した事ではないのかもしれません。でも私にとってとても気になるのは、人々、特に若い人たちが声を出して挨拶をしないことです。近所の奥さんでもご主人でも顔見知りなのに、たとえば朝、ごみ捨てに、顔を合わす時「お早うございます」と言うと会釈はしてくれても、同じように声で返してくれる人が圧倒的に少ないのです。大声で挨拶交換するのはごく親しい人か、年配の人ばかりです。中には朝っぱらから声なんか出ませんと言った顔つきで、曖昧に頭を下げるような下げないようなお馴染みさんもいます。普段用事があれば普通に明るく話し合う事もある人たちです。

 今朝も一人はゴミ出しの時、一人は通勤途中に出会ったのですが、声では答えてもらえませんでした。そんな時やっぱり淋しいような気がして瞬時がっかりします。人間「お早う!」と言われたら「お早う!」とは反射的に出てくるものだと思うのですが。最近の風潮から察すると、”朝は元気に声出して挨拶”と言うのは今やダサい事になっているのかな?と疑ってしまいます。挨拶だけでなく、銀行、病院などで名前を呼ばれて「ハイ」と返事する人も殆ど居ません。すぐ行くからいいと思うのでしょうが、やはり返事があれば呼んだ方も仕事がやり易いでしょうに。私は勿論声でまず返事をしますが、ビックリしたように顔を見る人もいます。夫に聴いてみたら同じく大きな声で返事をすると言いました。以前日本人はみんなこうだった様に記憶していますけど。今の世は、やや古めの人間以外は皆さん人前で大きな声を出すこと、たとえそれが必要な場合であってもなるべく避けたがっているとしか思えません。理由はよくわかりませんが、多分カッコ悪いとでも思うのでしょうか。

 昔の日本人は・・・とかなんとか本当はこんなことをグダグダ言いたかなかったのですが、ついに私も老人の本領を発揮したことになってしまいました。
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出口のない海

2006-10-24 19:53:07 | 観る
 今日は先日の誤嚥騒ぎで延期になった映画を見に行くことにしました。市川海老蔵主演の「出口のない海」、これは日本海軍の最終兵器と言ってもよい人間魚雷、「回天」で散った若者の話で、戦中派の私たち夫婦にとっては是非見たかった映画です。夫の上司の一人が「回天」に乗り組む予定だったのが終戦でいわば生き残ったと言う元海軍の軍人だったので、関心は一層深いものでした。

 神風特攻機と言い、日本の軍隊は何という悲しい兵器を考え出したのでしょう。
戦争はお互いいつも命懸けのものですが、必ず死ぬとは限りません。でも回天も神風も、器械の故障がなければ、成功即ち死なのです。そして、器械の故障で使命を遂行出来ずに、引き返さねばならなかった時は死ぬより辛い屈辱だったという事実がこの映画を観ても良く判るのです。この物語の主役は大学で野球をやっていて、自らの肩の故障のために魔球の出し方をいつも研究して死ぬ前にやっと実現を見て喜んだり、その他仲間の若い隊員たちもそれぞれ懸命に生きた、短い悲壮な青春の物語ですが、そのなかにも明るさもあり、その痛ましさに何度も目頭を拭いました。現代の、特に若者たちには是非見てほしいと思いました。

 戦時中、うちの遠い親類のお兄さんが、予科練の特攻隊員で、2度も特攻機で出陣し、二度とも機の故障で帰ってきたという人が居ました。多分最初の時だったと思いますが、明日かあさって出撃という時に、同じ特攻隊員の仲間を連れてうちに最後のお別れに見えたことがありました。あまり面識のないお兄さんがどんないきさつで私の家に別れの挨拶に来られたのか分かりませんでしたが、二人とも実家は遠く、うちが唯一の近場の親類だったからかもしれません。 碌な食事も出せなかったのですが、精一杯もてなして、一泊のお宿をしました。二人とも僅か19歳でした。半紙に筆で、最後の辞世の言葉を書いてもらったのですから、本当に考えられないことでした。どのようにお別れをして送り出したのか全く憶えていないのですが、死に向かって出発する人を、それを承知で送り出すとは・・・本当に非常時故の非常な出来事だったのです。

 友人の方はそのまま敵に突っ込んで散華されたと聞きました。今思い出すと、本当にまだ幼い、素朴な感じの人でした。一方親類のお兄さんは特攻機の二度の故障で引き返して終戦を迎えた、と後で聞きましたが、ついぞ再会することはありませんでした。戦後は全日空かどこかの飛行教官として勤めていましたが、訓練中生徒と一緒に墜落して亡くなりました。戦後をどんな気持ちで過ごされたのか、やはり空で命を失うことになった運命は果たして本望だったでしょうか。 
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交通事故

2006-10-23 19:11:32 | 歩く
 今朝はいつもくさぶえの道に行くのに家の裏手からの遊歩道伝いに行かずに、気分を変えて車の通る表通りに出てみました。朝が早いので、人も車の往来もまだあまりありません。広い大通りを右手に見ながら間もなく横断歩道にさしかかろうとした時目前で、バーンと只ならぬ衝撃音にビックリして目をやると、たった今私の横を走って右折しようとした赤い小型のヴァンが、同じようなグレイの車にぶつけられた瞬間でした。ぼんやり歩いていたのでそのグレイの車がどのように入ってきたのか、その直前の決定的瞬間が目の端に入っていたようで、はっきりしません。一瞬の事でした。横断歩道を急いで渡って見ると、赤の方は前方が大破、破片が飛び散って酷い有様、片やグレイの方は、左側にはじかれて道端の電柱に後ろからぶつかったようで、前方左側がグチャグチャ。幸い通行人は他にいなくて、(曲りなりの)ではありましたが目撃者は私一人、これは最悪だと私が通報か?と身構えたのですが、すぐにグレイの方の運転手が降りてきて赤の方に近づいてきました。興奮した風でもなく、全く普通の顔つきで手にはもう携帯を持って通報しながらです。赤のほうの人も無事で、こちらはやや呆然とした顔つきながらやはり普通に出てきたので、ホッとしました。二人が話し合っていることだし、野次馬を決め込むほどの事もなさそうなので、そのままそこを後にしました。4,50分経って帰り道はまたそこを選んで通ってみたのですが、衝突現場の三叉路は綺麗に片付き、グレイの方は既に運び去られた後で、赤の方はまだ道端のレッカー車の上で、傍らを通勤通学の人たちがじろじろ眺めながら通り過ぎていました。

 以前(つくば)に住んでいた頃はこの程度の事故は大げさでもなく日常茶飯事だったことを思い出しました。広い車道が縦横に走り、美しく整えられたつくば学園都市のまさに中央辺りの公務員宿舎が我が家でしたが、十字路の突端にあたり、庭に面したところが大きな交差点になっていました。そこが交通事故多発帯だったというわけです。ゆったりした道幅の交差点で、交通量も大したことないのに、なぜかしょっちゅう車同士がぶつかったのです。7,8年住んでいましたが、2ヶ月に一度の割合でしたからまさに事故多発帯といってもよいでしょう。

 「ドシーン」、「ガチャーン」「そらまただ!」即、庭に飛び出す、事故現場を見てすぐ110番、この繰り返しが何べんあったことでしょう。私が常住事故通報係といった形です。まだ携帯電話もない頃で、時には事故の張本人がうちの庭へ飛び込んできて直接電話を借りに来たりもしました。幸い死亡事故は一度もなかったのですが、衝突のハズミで歩道の植え込みの上にまっさかさまと言う図もありましたし、もっとひどかったのは、偶々ぶつかった瞬間を家から見ていたのですが、その時ワゴン車の前方の窓から赤ちゃんが放り出されたのを目撃してしまいました。駄目だ!と瞬間目を瞑ったのですが、飛び出してきたお母さんが、咄嗟にわめいていた言葉が少し変っていたので印象に残っています。いきなり叫んだ言葉が「何年も待ってやっと生まれた子だというのに!」と子供を抱きかかえてそればかり繰り返していました。その時も勿論私が通報しましたが、あれほど肝を冷やしたことはありませんでした。後で聞けば、道路に投げ出されたと言うのに体の柔らかい赤ちゃんだったせいか大事に至らなかったそうで、本当に好かったと思いました。

 かなり大事故で、忘れられないのがもう一つありました。いつもの伝で、例によって飛び出してみると、スクーターに乗っていて跳ね飛ばされ、道にうつぶせになって転がっていた人が、耳から血をながし始めているのです。どこの誰かも分からず、警察が来て持ち物など調べると、驚いたことに偶然にも主人の室の若い人で、私も名前だけは覚えている人でした。まだ独身で、親元は遥か関西の方の人でした。早速主人に連絡すると、あいにくその日は研究室全員がどこか外部の学会に出かけて留守。その人だけ何故つくばに残っていたのか分かりませんでしたが、とりあえず私が搬送先の病院へ行き、しばらく付き添いました。この時も幸いにも大事に至らずに済みました。ご当人はその後も立派に仕事を続けられていますが、唯、事故の前後何時間の記憶をすっかり失くしてしまい、未だに何の用事で何故あそこに居たのか思い出せないのだそうです。
 
 当時意識して数えて見はじめると、事故車の約九割はどちらか一方が女性ドライバーでした。この場合もやはり相手のドライバーは女医さんだったとのことです。

 あの地を去ってから早や20年、あの場所がもう事故多発帯の悪名から脱していれば良いのですが。
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誤嚥顛末記

2006-10-19 17:19:21 | 験す
 前から予定していた映画「出口のない海」をこれから揃って観に行こうとしている朝でした。二階で何やら異様な声が2,3度聞こえた気がしたので、急いで上がってみると朝食が終わって外出の仕度をしていると思っていた夫がトイレでガーガー吐こうとしていました。入れ歯を飲んでしまい、どうしても出ないと苦しがっているのです。こっちもすっかり動顚、掃除機で吸い取ろうとか思いましたが、余り苦しそうなので119番に電話。間もなく救急車が来てくれましたが、その時は喉元に停滞していた義歯は少し下方に下りたらしく、口もまともにきいて、自分の足で乗り込みました。

 運ばれた先は近くの北部病院で早速検査してもらうと、食道の上から三分の一辺りに留まっているそれの影が見えました。内視鏡で取り出すとの説明を受け、ヤレヤレと安堵すると、ドクターにそんな生易しい事ではないと釘をさされてしまいました。小さいとはいえ、義歯の留め金が食道壁を既に傷つけているか、取り出す際に傷をつける恐れ大だと言うのです。”最悪、孔でも空いたらえらいことになる”とすっかり脅かされてしまいました。即刻入院、午後取り出すことに決まりました。運を天に任せて、私は用意のため一旦帰宅して朗報を祈りながら面会時間の3時ごろまた救急室へ。祈りは通じました。先生の腕が良かったのでしょう、食道の入り口近くに少々引っ掻き傷は出来ていたものの無事取り出され、本人は全く変わりなくベッドに寝ていました。取り出し前後の色も鮮やかな生々しい5連の写真と一緒に張本人の入れ歯も引き出しにありました。

 前顎下の二本つながった義歯で先日入れたばかり、歯医者で明日もう一度調整してもらう予定になっていたので少し不安定だったのでしょう。うっかりコーヒーと一緒に飲み込んでしまったのです。

 入院もたった一泊で翌日午後には退院。帰宅前には、喉元過ぎればの言葉通り、二人して今度の事件を笑いものにしながら無事を祝ってソフトアイスで乾杯しました。

 しかしこの騒ぎで映画鑑賞はお流れ、その翌日の木曜日は我が家での織りの例会も皆さんにお断りを入れて中止。またその翌日の本人のクラス会の名古屋行きもキャンセルと、色々当てが外れてしまいましたが。まずはメデタシのおハナシです。
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誕生日の贈り物

2006-10-16 19:05:55 | 歩く
 17日で、10歳になる孫娘のために、前から用意してあった小さな銀の馬車(車が動きます)のお守りペンダントに添えるための本を買いに行きました。リンドグレーンの本ばかり3冊とお洒落な手帳一冊にしました。10年の節目なので例年より一寸奮発です。1年生の時からハリーポッターを次々読んでいるぐらいではあるし、図書館で何でも読める時代ですから本のプレゼントは難しいのですが、今回はあえて本人の注文を聞かずに、一寸上級か?と思うものを勝手に選びました。

 思い出せば、私の子供時代の誕生プレゼントは小さな玩具か文具に本2冊と決まっていました。大きくなるに連れて、玩具は無しのハードカバーの本二冊だけになりましたが。 いつも親同伴で、自分で店頭で選ばせて貰いました。選びに選んで、本当に好きな本だったので、小学三年生の時から女学校二年生までの何冊かはまだ本箱の奥に大事にしまってあります。玩具もほんの少し、陶器の人形のもげた片手までなぜか捨てられないで残っています。父から貰った座った黒犬の木製本立てはいまだに現役で机の上にあります。

 このように年に一度、親から貰う特別プレゼントは矢張り嬉しいものでしたが、それより今までに一番気に入ったプレゼントは、低学年の時、兄妹から貰ったものだったのです。一歳違いの兄と3つ下の妹が共同で履物の空き箱入りのプレゼントをくれました。中は二人が寄せ集めた色紙、おはじき、ゴムひも、ぬり絵、食べかけのおせんべまであったかも、その他こまごました子供の宝物が一杯はいっていました。その嬉しかった事といったらありませんでした。今でも忘れられないくらいです。そんな事から、私は子供というものは立派なものより却ってそんなもののほうが気に入るものかも・・とずっと思ってきました。しかし現代の子供にはもう当てはまらない事なのかもしれません。身辺に物があふれ過ぎていますから。果たしてどちらが幸せなのか。私は物が貴重だった昔の方が良かったような気がします。何ヶ月も前から次に誕生日を迎える家族の誰彼のために色々プレゼントを考えたり、早々用意したりするのも楽しいことでした。自慢をしますが、私の選んだものは大体において大人気でした。「よくこんなもの見つけたね、いつも目の付け所が奇抜」とか「気が利いている。」と褒められて嬉がっていました。

 結婚してからは夫婦でバースデイプレゼントの交換になりました。年を追って少しづつグレードアップしてきましたが、若い頃は本当にささやかな気持ちだけのものでした。その頃夫からは結構必需品物が多かったようです。ゾリンゲンの裁ち鋏は大喜びでしたが、ある年のクエスチョンマークはプリントごっこでした。結局その後何年も年末になると私がそれを使って年賀状作りに駆り出され、まんまと夫の作戦に嵌りました。と言う私の方から贈った物もどうせ必要になる衣料品が多かったようで、お互い様でしたが。色々ありましたが、高級品としてはフルート、今でもたった一つ大事に使っているセイコーの腕時計、シェークスピア全集などは特に有難かったものです。

 我家の経済が逼迫している頃は子供たちのプレゼントもそれなりに工夫せねばなりませんでした。娘のために親二人がかりで木の切れ端で人形の洋服ダンスと、漬物の丸い木の蓋を二つに切ってシーソーを組み立て、綺麗なシールとニスで仕上げて素敵な玩具になりました。貧しいと言うことは良いことでもありました。

 もうひとつ有難かったプレゼントは母から93歳で亡くなるまで、毎年誕生日には贈られた金一封です。私が70歳になってもまだ貰っていたのですから、有難いことでした。
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ワンワン物語

2006-10-12 18:52:43 | 歩く
 今日の朝の空は西方にはまだ月影も高く残り、いわし雲が地平のかなたから放射状に広がって、秋らしい素晴らしい眺めでした。 一寸出発時間が遅くなったので、朝歩きに出会う顔ぶれも少し変わっていました。

 それで暫くぶりにウィペット主従に遇いました。私がその容姿を感嘆して久しい美犬です。頭が小さくほっそりとあくまで優雅な姿かたちをしています。今朝は後ろから付いていったので、暫くその後姿を観察しました。ほっそりと言うより、むしろ薄いと言った方が適当な表現かもしれません。スラリとした脚は優美でもあり、俊敏そうでもあります。往々にしてペットは飼い主に似るといわれますが、連れている中年の女性がまさにその通り、上品で感じの好い人です。以前初めて出遭った時ちょうどカメラを持っていたので、思わず犬の撮影を申し込んだことがあります。その時犬種名を聞いたのに忘れてしまい、二度目に会った時に聞き直して、やっと覚えた名前です。今日が三度目の邂逅で、「今度は覚えてましたよ。ウィペットでしたね?」と声をかけて二言三言ことばを交わしました。

 調べたところでは、ウィペット(whippet)はイギリス生まれ、グレイハウンドとある種のテリヤとの交配で、生まれてからまだ100年ぐらいのものだそうです。優秀な猟犬として作られたと聞いて少し意外でしたが、それは敏捷そうではあっても猛々しい感じがまるでないからです。確かに、家犬としては性格が穏やかで、飼い易いと言われているようです。出来ることなら飼ってみたいと思う犬ですが、私が連れて歩いたら、さぞかしミスマッチこの上ない事でしょう。

 この頃は余り見かけなくなった、でも昔はよく見たような気がする白地に二三箇黒い柄模様の飛んだ小柄な犬にも出会いました。いかにもポチ君と呼びたくなるような懐かしい感じがしました。

 昔と言えば、私の家の近所に大きなダルマシアンがいました。可なりの老犬でもあったし、当時は放し飼いも余り気にされることもなかったので、いつも道端に座ってのんびりしていました。なんとその名前たるや我々もそう呼んでいたのですが「インチキ」と言う可哀想な名でした。何でも以前の飼い主が外国人だったとかで、その時なま覚えの日本語で付けられたものらしく、私が想像するに多分純血種のダルマシアンではなかったせいかもしれません。でも見たところインチキらしくもなく、当時は尚更珍しく風格のある立派な老犬でした。

 ずっと近所のおなじみだったそのインチキがあの世に行ってしまって間もなく、家にも子犬が来ました。知人のアメリカ人の急の帰国で、貰うことになったのです。石鹸の入っていた段ボール箱に入れて都電ではるばる連れて帰りました。暫くは石鹸の匂いが取れないし、夜鳴きが酷くて困らされましたが、成長すると、雑種と思っていましたが、姿が小型シェパードのように格好良い中型犬で、性格も大人しく賢い本当に好い犬でした。名前は私がロッテとつけました。ガムから取ったわけではありません。

 子供も何匹か生んで、10年ほど我が家の一員でしたが、私が結婚で家を離れてのち、弟が散歩させている途中で交通事故にあって死んでしまいました。それ以来私の家族の誰も犬を飼う事はついぞありませんでした。
 
 中野孝次さんの「ハラスのいた日々」はロッテの思い出と重なって、涙なみだで読みました。くさぶえの道での顔なじみのガイロにいつも心惹かれるのは、ロッテに似ているせいかもしれません。
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音楽発表会

2006-10-08 19:25:51 | 聞く
 久しぶりに気温も上がり、暑いぐらいの秋晴れの中、近くの公民館で息子夫婦の中二の孫娘が通っている音楽教室の発表会が開かれました。生徒数も多く、毎年盛大に行われるのですが、今年は全員出場の「こんにちはモーツアルト」という音楽劇を最後に持って来て、一段と立派なものとなりました。

 前半は高校までの子供たちがそれぞれピアノ・チェロ・ヴァイオリンの腕前を披露しましたが、全体的にピアノはかなりレベルが高く、上手な人が多かったようです。さて家の孫は・・・というと、残念ながら”部活が大変で練習不足だった”と言う、本人予めの言い訳通りの演奏でした。でも、とても素敵な曲(ラフ作曲、カヴァティーナ)だと言うことはよく伝わってきたので、つっかえた箇所があってもその事は好かったと伝言しておきました。

 最後の総出演のモーツアルトは何しろ、劇の主役が全員子供ですからその可愛らしいこと。重々しい声を作ったお父さんのレオポルド役が、息子の結婚に反対して相手の金使いの荒さを指摘したり、モーツアルトがやっと承諾を得て「バンザーイ」と飛び上がったり、なかなか愉快でした。出だしがアイネ・クライネ・ナハト・ムジーク、最後もそれで締めくくり、様々な器楽演奏と歌を散りばめて演出の先生は本当にご苦労だったと思います。私の好きな小曲「コム・リーベル・マイ」がモーツアルトの作曲だったと始めて知りました。

 毎年ここの音楽祭には親二人はもとより、小さい弟たち、私たち祖父母も結構楽しみにしているのですが、今年のはまた特別楽しめました。
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台風一過

2006-10-07 11:46:46 | 観る
 昨日は小台風の到来で、時折の風雨が激しく、相当な荒れ模様でした。予報では今日も引き続きの悪天候になると言っていたのが見事外れて、起きてみると気持ちの良い一日になりそうな朝の訪れでした。くさぶえの道は風で飛び散った小枝が一杯で、水かさの増した小川が音を立てて流れていました。家では驚いたことに例の蜘蛛が昨日の台風に負けず、健在でした。あの激しい雨風に耐えられたのですから蜘蛛の巣というものは相当丈夫なものなのだと感心しました。

 予定通りに植木屋さんが三人で作業に来てくれました。伸び放題になっていた庭木の剪定に取り掛かって貰うときに、ウチの蜘蛛を紹介して、出来たらそのまま残せたら・・・などと言っては見たものの、やはり無理なことでした。庭が見違えるほどサッパリとなったと一緒に、彼の住家もサッパリとどこかへ消えてしまいました。折角度重なる災難に打ち勝ち、安住の場を得たと思ったのも束の間、またもとの木阿弥です。一言で言えば”まの悪いヤツ”でしたが、元気だったらまたどこかで、たくましく巣作りすることでしょう。
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