くさぶえの道

身辺雑記 思い出の記

ホットケーキ騒動

2018-03-11 17:32:56 | 験す
 久しぶりにホットケーキを焼いた。夫が好きで以前は朝食代わりによく作っていたが最近はめったに作らなくなっていた。消費期限の切れかかっていた粉と牛乳に気が付き、急遽朝食をこれに変更。卵とバターはたっぷりあるし、幸いメープルシロップも新しいのがある。それに何より新しい小型フライパンをためしてみたかった。今までは大きめのフライパン二つを使って同時に二人分一緒に焼いていたが、鍋の違いで少々面倒臭かったのが、油要らずでスルリと鍋離れの良い新品は思った通り手早くしかもきれいに出来上がった。 今までは普通サイズより大きなパンケーキ風を二枚だったが、今度のは小さめのが三枚。私には今や一枚が丁度いい。夫が二枚食べてくれると思ったら、意外や一枚で結構と言った。後で気が変わるかと思い、取り敢えず私の隣の空いた椅子にそのフライパンを置くという不精をした。

 バターをたっぷり乗せて熱いコーヒーと一緒に食べ始めると、何か他の物も欲しくなり、席を立って台所へ。冷蔵庫を探してチーズを取り出し戻ってみると、あれれ、食事中のはずの夫の姿が消えている。ほんの束の間に一体どこへ?と目を白黒させていると,あろう事かトイレに行っていたのだった。食事中に!と、なじる間もなく更に酷い光景を目にして私を私は飛び上がった。もう一つあろう事か椅子に置いたフライパンの上に座布団が乗っているではないか!しかもその中のホットケーキにはバターがたっぷり乗っているはず。温かいうちにと余計なことをしておいたのだ。そこへ最近すっかり視力が衰えてきた夫は、椅子の上の物などは見えず、床の座布団を正規の場所に戻しただけのことだった。行きがけに何とご丁寧な。しかしそんな道理は後で考えることで、とっさに大声で叫んだ私に夫は気分を損ねてしまい、両者暫し憮然、茫然。険悪ムードに陥りそうになった。そこで気を取り直して思い返してみたら、すべて普段起こり得ないような変な偶然が重なった結果なのだと気が付くと可笑しくなって何だか笑えてきた。夫も不本意な顔ながらつられて少し笑ったようだったが、朝食の楽しい雰囲気はすっかり台無しになってしまった。

 長いブランクの後やっと再開にこぎつけたブログはこんなおかしな話でスタートです。
我々夫婦はお互い出たり入ったりの病院生活から無事生還しましたが、夫は長期ベッド生活で足の筋肉が衰え、帰宅後この一年余り車椅子生活を送っています。私はその車椅子を押すと言うより掴まって歩くのが楽だと言う程のよぼよぼぶりです。夫はリハビリに熱心に取り組んでいるので、現在足の筋肉も大分回復してきました。、そのうち私を車椅子に乗せて押してくれるのではないかと期待しています。
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懐かしの山友達

2016-11-03 22:55:04 | 参加する
また一人大切な旧友がこの世を去った。小学校から高校までずっと同級だったが、在校中は特別親密というほどではなかったのに、社会人になってから数年は夏ともなれば毎年のように山歩きを共にするようになった。手足が長く少し日焼けした顔に真一文字に結んだ意志の強そうな口元が特徴的だった。山が大好きなだけに、その知識は豊富で私はずいぶん色々教えてもらった。

二人で計画を立て、白地図に赤線でルートを書き,水筒やコッフェル等最小限の自炊道具以外は身軽ないでたちで、主に八ヶ岳近辺の山々をひたすら歩いた。今でいうトレッキングか。何処だったか、朝早くから夕暮れ近く麓に辿り着くまで一人の人間にも出会わないといった山もあった。

或る時は籠いっぱいの青りんごを背負った小母さんに出会い、僅かのお金で袋一杯分けて貰い、かじりながら歩いた青りんごの美味しさは忘れられない。
歩きながら途中で見かける珍しい植物の名前などよく知っているのに感心した。

ある尼僧院に行き着いて、一宿一飯の恩に預かったこともあった、そこは孤児院でもあって、宿泊者はお礼の代わりに孤児たちの世話のお手伝いすることになっていた。我々は子供達に紙芝居を見せたり一緒に遊ぶこと以外にどんなお手伝いが出来たのか、お礼と言う程の事はあまり出来なかったような気がする。

ある日は当時すでに有名になりかかっていた山深い金時娘さんの掘っ立て小屋に行き着いて、そこでは我々が持参の材料でカレーライスを作って三人で夕食をとり、その後でドラム缶のお風呂をたてて貰った。明るい月の光のもとで得難い経験をした。

浅間山に登った時は下山途中で拾った板切れをお尻に敷いてそりのように勢いよく滑り降りたのは実に爽快で楽しかった。途中あちこちで見つけたコケモモの味も初めて知ったものだった。

思い出が後先になったが、東大生になっていた我々共通の女学校時代の友人を尋ねて、まだ素朴な佇まいの清里への旅が最初だったか?駅近くの東大の寮、寮といっても古びた普通の一軒家だったが、同じ物理学科生数人と一緒に晩御飯を作って、土産に持参した葡萄酒で楽しい一夜を過ごした。翌日は皆と一緒に近辺を散策したが、まだ悪く発展する前の清里は本当に清々しい良い処だった。

いつか大好きな八ヶ岳のあたりに住み、晴耕雨読創作活動をするのが夢だといつも語っていたその夢は、晩年になって実現し、その終の棲家の畑で倒れているのを実家から帰ってきたご主人によって発見されたと聞いた。暫し呆然。辛い知らせだったが、彼女らしい最期ったかもしれない。
桑原さん、楽しい夏の思い出を沢山共有させてもらって、本当に有難う!
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親切な人たち

2016-08-02 23:37:38 | 参加する
私の退院と入れ変わるように夫が同じ病院に入院してから今日でちょうど2か月になる。最初のうちは病名がわからず検査検査で半月も救急病棟におかれていて心配したし、本人も死んだつもりだったらしい。病名は思いがけない脊椎炎というもので、ちょっと治りが遅い。少しずつ快方に向かっているが、まだリハビリの段階に至っていない。近いので助かったけれど毎日朝夕見舞いに通って大分疲れた。困ったのは土曜午後と日曜日は正面玄関が閉まり地下に通ずる長い階段を利用せねばならないので、杖代わりのキヤリーを抱えて上り下りするのはとても大変だった。

ところがそんな時必ずと言ってよいほど後から来る人が助けてくれる。時には先を行っていた人が振り向いて気が付き、わざわざ戻ってまで助けてくれることさえも。これには本当に感激した。女性も男性も時には中学生ぐらいの少年たちも。しかもみんなニコやかて。若い人たちにとっては簡単な仕事なのかもしれないが、私にとってはとても大変なことでどんなに助かったことか。それにこれが殆ど例外なしなのがちょっとした驚きだったし、嬉しいことだった。だった、というのはつい先頃、少し遠回りになるが、この階段を使わないで行ける別の道を見付けたので。優しい人たちに会えなくなったのは少し残念だが。

この事だけでなく最近は外に出かけると様々な場面で人様の親切に出会うようになった。それだけこちらが頼りなげな老人に見えるようになったという事。悲しくもあるが、仕方ない。スーパーのレジ周りでもたついているのを心配して何かと助け船を出して下さる親切な買い物客。時には重くなったキャリーを引いて帰り道の階段を登ろうとするのをずっと見守っていたらしいレジ係の人が、急いで駆けつけ上までそれを抱えて上がってきてくれたこともあった。偶々空いた時間帯だったとは言え。こういう手助けは他にも何度も頂いたことがある。ふと街角のショーウィンドに映る自分の姿はやはり年齢相応で、急に姿勢を正してみても手遅れ、皆さまのご親切を有り難く頂くのみだ。
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病院の貸し本サービス

2016-06-08 22:50:06 | 参加する
退院の日が決まった日、病室に貸本サービスのワゴンが来た。今時の病院はこんなサービスもあるのかと感心したが、私には残念ながらあと二日しかないし、他に読む物もあるのでと一旦断ったが、ワゴンの女性がこれはどうですかと薦めてくれた本が、まだ新品同様の村上春樹の “色彩を持たない多崎つくるの・・・何やら”というやたら長たらしい題名の最新本だった。毎年ノーベル文学賞の候補に上り、海外にもファンが多いと言う人気作家なのだが、自分には合わないと言うか、初期の2冊だけで他は読みかけても途中で何故か嫌になってしまうので、最近は買うのも辞めてしまっていた。だからこの人のはあんまり…と断りかけたが、ふと思い直して、その読み通せない理由が何なのか見付けてみよう、今こそその好機ではないかと貸して貰うことにした。ついでに目に入った佐藤愛子のエッセイも一緒に。彼とは全く異種のこの人の書く物は、共感する所は多いし、何と言っても気楽に読めるので。

だからこちらの方を先に手にしたのだが、何人かの有名作家との対談集もあって、盛り沢山なのに想像通りの面白さで、あっという間に読み終えた。中でも面白かったのは,愛子さんの表現によるといつもノホホン、ノコラノコラしている“珍友”中山あい子女史の話。透析を勧められた時、「透析は国費、私は税金を少ししか払っていないから受けない」と断ったそうだ。またいつも「人間も死んだらゴミ」が口癖で、死に際に「ゴミだから、そこらに捨ててくれてもいいけれど、人の迷惑になるから献体する」と言い残したそうだ。

また北杜夫の万能葉書も面白かった。ものぐさが高じて予め次のような言葉をプリントした葉書を用意して、時に応じて○印を付けて送ったそうだ。例えば、賀春、暑中、祝(悼)お誕生、合格、落第、ご成婚、ご離婚、そして最後に、一層のご健勝をお祈りします。と一行。実際この葉書の実物を見せて貰ったことがある。お兄さんが北杜夫の学友だと言う友人がクラス会で披露してくれた時、皆で大笑いした。北杜夫らしいねと。

さて肝心の村上春樹だが、読み始めると案に相違してどんどん捗る。ちょっと様子が違うと思うほど。多分謎解きの要素があるせいかもしれない。私は謎解きが好きなので。とは言え、いつもと同じようにこの人の小説には引っかかる箇所はいくつもあった。それが何かと言うと、背景の小道具、例えば飲み物食べ物、服装の描写などが私などの感覚から言うとやたらお洒落過ぎることだと気が付いた。‘ソフィスティケイト’と言う言葉が当たっているかどうか、そしてこれが私のような読者にとっての問題点だろうと思った。これは全く趣味の問題で、本筋には関係ない所。だからそこを我慢すれば面白い話ならばそれは結構なのでしょうが。

胡散臭く感じたこの長い題名もそれなりに意味があった。ちょっとどぎつく生々しい描写の多い(これも引っかかるところ)青春小説を読んだ様な読後感だった。でもこの一作が面白く読めたからと言って、村上ファンにはなれないだろう。多分。
でもノーベル賞に値する作家であることは本当らしいから、ぜひ今年は取って頂きたい。
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心行くまで

2016-06-01 01:10:41 | 参加する
入院は家事から離れて、患者としてのルーティンの合間は自由時間たっぷりの好機到来と思い、読みたかった本を沢山入れたiPadと、数枚のDVDを携帯プレーヤーと一緒に持ってきた。それに頼んだわけではなかったが、夫が殆ど毎日病室に一日遅れの朝夕刊を届けてくれた。最初の数日は他の物には手を付けず、新聞だけをしっかり読んだ。最近家ではまずやったことがないほど隅から隅まで。こんなに面白い記事が一杯なのに、普段は大方拾い読み程度で終わっていたのは随分勿体ないことをしていたものだと思った。

そのうち新聞だけでなく、次はiPadの中の主に青空文庫。以前から読みかけだった海野十三の奇妙奇天烈小説を読み終え、あと選んでダウンロードしてあった数百冊ほどの中からどれにしようと迷う間もなく、タイムリーな題名「外科室」が目に飛び込んだ。著者は泉鏡花。読んでみるとこれが実に壮絶な物語だった。気高き貴婦人が胸の手術を受けるに際し、手術台の上で断固と麻酔を拒否、理由は麻酔を施されれば譫言で心の奥の秘め言を言うことになると、それを恐れての事だ。あろう事か遂に医師は万止むを得ずメスを入れるのだが、訪れた当然の結果の描写が物凄かった。これで弾みがついて、有名な「高野聖」「夜叉が池」と続けて一気によんでしまった。まるで舞台を見るように息もつかせぬような描写力に驚いた。今まで後回しにしていたこの二作、この機会に鏡花の面白さを知って本当によかった。その他未知だった岡本かの子も面白かった。

幸い眼だけは良くて、今まで検査の度に眼科医からこの年齢にしては視力が良い、どんどん使いなさいとお墨付きを得ただけあって、長時間読み続けてもあまり目が疲れることはない。消灯時間後も枕元の明かりは使っても良いと言われたが、映画もiPad同様その明かりさえ要らないので、寝られない夜はヘッドホンを使って持参の映画鑑賞も楽しんだ。選んできた一つが60年も前に見たグリア・ガースンの「心の旅路」。久しぶりのこの作品、改めて観て、内容そのものより今更のように驚いたのは当時のアメリカの先進ぶりだ。1918年制作だと言うのに、オールドファッションであるのは当然としても、背景が中流もしくは少し上の社会なのですべてが桁違いに洗練され、フィルムそのものも全く古さを感じさせない美しさを保っている。私の父がまだ18歳の頃だというのに。それから更に30年ほども後に日本はこんな国と戦争をしたのだ。

もう一つは子役テイタム・オニールの「ペーパームーン」で当時の評判に拘らず、何となく見おくれていた。幼いのに大した知恵者の悪餓鬼と、どこか憎めない詐欺師の聖書売りが繰り広げる珍道中で大変面白かった。次のもう一つを見ようとしたところで、電源切れになったのでお仕舞にした
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入院友達のこと

2016-05-30 01:15:41 | 参加する
僅か10日程の入院なのに、毎日のお見舞いは嬉しかった。息子夫婦は忙しい中かわるがわるきてくれたし、最近足腰が覚束なくなり、目の方もかなり見えにくくなっているからあまり来ないでほしかった夫は、この近さだし足の訓練になると言って連日新聞配達に通ってくれた。娘は見舞いついでに留守宅の父親のため、冷蔵庫のチェックをしてくれた。思いがけず嬉しかったのは、同じ住宅でお教室のクラスメートK氏が見えた事だ。談話室で色々話が弾んで楽しいひと時だった。

同室のお仲間は大体私と同じように足の手術を受けた人達で、最初の夜お向かいの先住者二人のカーテン越しの会話が愉快だった。

左側「ずっとお隣同士なのに、カーテン越しでお互いまだ顔も知らないわね。」
右側「ほんとそうね。早くお会いしたいわ。」
左側「でも変な顔なのよ。」
右側「アラ私だって・・・ヒョットコ。」あと双方無言で、会話終了。


私は痛みも忘れて思わずニヤニヤ、それを言うならオカメでしょう、と。

翌日三者対面の運びとなったが、どちらもオカメでもヒョットコでもなかった。自己紹介するまで右側がしきりに「オバアさん」と呼ぶので誰の事かと思ったら私の事と判ったので、けしからんと思ったが、訊けば私より一回りも若いので仕方ない。
左側はさらに10歳は若い。同室の他の二人はかなりの年長者と見えたが、手術のダメージからか殆ど無口で最後まであまり話し合うことはなかった。

右側さんはあの東日本大震災で家族は皆無事だったものの、実家を津波で失った話から始まって、その後間もなくご主人が癌で急死、翌年はお母さんも亡くなり、次に自分が大腿骨の手術と悲しいことが続いたそうで、慰めの言葉も見つからない程だったが、話しはさらにさかのぼって、戦後すぐの親御さんの苦労話にまで及んだ。ご本人はこの話をここで初めて聞いてもらうことが出来て嬉しかったと言われた。

左側さんは八王子在住なのに、10年も前に受けた手術の具合が悪くなり、再手術のためここの先生の名声を聞いてはるばる遠くから来たと言う人。それがまさに私を担当して下さった先生の事だったので嬉しかった。どこかの病院の糖尿病専門のアドバイザ―の職にあるしっかりした明るい人で、後で別室に移ってからも車椅子で毎日訪ねて来てくれた。

僅かの間だったが二人ともちょっと忘れられない人になりそう。退院後の通院の際には近いからついでにお立ち寄り下さいと、名刺を渡して私は一足先にめでたく退院した。
明日は入院中の最大のお楽しみの話。
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初めての大(?)手術

2016-05-28 01:10:29 | 参加する
最近とみに酷くなった歩行時の痛みに我慢しきれなくなって、とうとう手術に踏み切った。過去ほぼ30年間、救急車に乗車すること10回以上、付き添いとしての病院暮らしは数知れず、いずれも同居を始めた両親と夫の為で、自分自身の入院は50数年前の出産以来初めての事だった。

病院は徒歩5分のお隣同然の大学病院で、三月末に両手の手根管の手術を受けた同じ執刀医の先生。今回その先生の診察を仰ぐまで足の痛みはひとえに腰椎の狭窄によるものだけと思い込んでいたのに、想定外の左股関節の異常も告げられ、夢にも思わなかった人工股関節を埋め込まれることになった。そんな手術のコワさよりも足の痛さから解放されたい気持ちの方が強くて、手術の日を心待ちにしていたが、いざ当日幅の狭い俎板同然の手術台に乗せられた時は本当に鯉になった気分で観念した。

でも今時の手術は有り難い、知らぬ間にすべては終わり、目覚めると眼前に夫と息子の安堵の顔がのぞきこんでいた。後は少しばかりの痛みと共に、数日のベッド生活を耐えればよいだけだ。術後最初の夜は痛み止めのお蔭で熟睡。薬が切れる頃か、自分の大声の譫言で4回も目を覚ましたり、一瞬だが実物が本当にそこにいるとしか思えない程やたらはっきりした、うちのお嫁さんのニコニコ顔の幻視も見た。

さてホンモノ患者としての初めての入院生活に突入したわけだが、そこは苦と楽がないまぜの世界で、苦は当然ながら術後の身動きもままならぬ不自由さで、これは数日続いた。でも二日後には介添えなしで、シャワーを使うことが出来た。もう一つの苦は毎日の注射針の責め苦。父親譲りの大の注射嫌いなので、点滴、採血、三食の前の血糖値検査、特に怖いのが夕方になると血栓予防のためお腹に打たれる注射、ナースさん達の内心の顰蹙を承知でその都度泣き言を一言を入れてしまう。でも採血時に左右の腕合わせて5回も失敗して、ほかの人に代わって貰ったような新米ナースもいたのだから。あれは最高辛かった。

三つ目の苦はご多聞に漏れぬ病院食。これには言いたいことが山ほどあったが、多分いずこも同じ、言いだすときりがないと諦めて、ただ只管耐えた。最初一度だけ注文つけたのは、三食のうち一食はカロリー食と称して、220gの御飯が出ることだ。ただでさえ多過ぎるのに、味が薄い上にほんの少量のお菜しかないのにどうやって食べられるのだろう?慣れない大量ご飯だから半分以下に減らしてほしいと頼んだら、治療食だから減らせないと言う返事が来た。せめてカロリーは副食物でとらせてほしかった。

残したいほど不味い食事をとる時、私はいつもこんなことを考えながら食べる癖がある。それはあの太平洋戦争で名も知らぬ南国の戦場で、糧食尽きて飢えの極致で死んでいった日本軍の兵隊さんたちの事、それから
ナチスの収容所に囚われたユダヤ人たちのこと。それにも拘らず私は入院中毎回半分以上残飯を作ることになった。

入院中の苦の話はこれでおしまい。明日は楽の方の話に移ろう。幸いこちらの話の方がはるかに多かった。
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日本のコンビニ

2016-03-21 17:46:28 | 参加する
Ipadの具合が悪いので近くのPCデポ―に持っていくことにした。 ついでにノートパソコンも内部清掃の為一緒にカートに入れて運んだ。長時間待った揚句Ipadの方は初期化せねばならず、全部終えるのはあと二時間先になると言う事になった。夫には一人で食堂に行くように連絡して、家に帰らず店で待つことに決めた。

近くに食事をとれるような店は全然ないし、足が心配であまり歩きたくないので困ったが、来る途中のコンビニが最近店を広げてイートインコーナーができているのを見てきたばかり。時間はたっぷりあるし、5,6分歩いて戻ってみることにした。

行ってみると店の前に幾つかテーブルと椅子が並べられ、まだ少し寒いので利用者の姿はなかったが、中に入ると広くなった分だけ簡単ながら明るいイートインスペースになっていて、二、三人が食事をとっていた。成程これは便利、文字通りのコンビニになっている。

陳列商品も特に食品の種類は多くて選びきれないほど、大分迷ってやっと3袋のお惣菜とおにぎり(期間限定で100円均一の初日だった!)2個買って、ゆったり部屋の真ん中に席をとり、買ったばかりのおにぎり一個とお惣菜の一袋、それに持参の冷茶だけで昼食を済ましたが、両方共充分美味しかった。それで2時間後の帰りにまた立ち寄って、目をつけていた冷蔵と冷凍食品を買い足して帰った。見物ついでにお手洗いも利用してみたが、新しいこともあって結構立派なものだった。便座がちょっと暖か過ぎたが。

テレビとかネット上で、来日する外国人の間でも日本のコンビニの評判の良さが頻繁に取り上げられるのを見るようになったが、確かに評判に違わない事がよく分かった。初期の頃のコンビニは駅のキオスク程度だったのがあれよあれよと言う間に品揃えが豊富になって、プリント設備が備わり、劇場などのチケットの購入、公共の支払い、宅配、キャッシュサービスまで出来るようになるともはや軽視できない存在になって、その頃には私のような家庭の主婦でもだんだんと利用するようになった。でも食品を買うことはあまりなかったのが、語学校のアメリカ人教師にコンビニのおにぎりが美味しいことを教えられて初めて判ったのだから面白い。彼が昆布佃煮入りが一番好きと言ったのにも驚いた。自国にコンビニはあっても日本ほど多機能に充実しているようなものではないらしい。特に短期間滞在する人にとっては近くにコンビニが一軒あればすべて日常が事足りるようだ。飲食品も豊富でお弁当、菓子類がどれも清潔で美味しい上に、値段も手頃と手放しだ。だから日本での仕事を終えて帰国する際一番名残惜しいのは「コンビニとウォッシュレットと別れること」だそうな。

コンビニがこれほどの進化を遂げたのは、多分日本人の細部にこだわり、便利さを追求する性分に由るもので、これもその集大成の一つと言えるのではないか。ウォッシュレットも同じ。
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失敗続き

2016-03-17 17:50:27 | 参加する
デパートの売り出し案内が来たので久しぶりに出かけた。まず駅の改札で老人パスを出したつもりが、自宅のカードキーだった。これは前に何度かやったことがある。目的の駅に着くと、時々通う医院に近い方であって、デパート側と反対の改札に出てしまい、大回りをするはめになった。でもこれは却って運動になる、と自分に言い訳しながらトボトボ歩いた。

デパートに着くと目的の4階食器売り場に直行。まず人だかりのする方か、それらしきショーケースを探したが、普段通りのんびり閑散として売出しらしい雰囲気は何処にもない。店員に訊いてみると、売り出しは明日からだと言われて愕然。単なる日付の見誤りとか勘違いならまだ許せるが、ショックだったのは、そもそも前日からカレンダーをしっかり確かめながら曜日を間違えていたことだ。

気を取り直し、折角来たのだからと食品売り場を見て歩いている途中、ポイントカードがないことに気が付いた。いつもカードケースにはいっているはずのもの。他のカードは全部あるのによりによってそれだけが。何処に忘れてきたのかさっぱり思い出せない。それで買い物はほんの少しに留め、意気消沈、帰途に着いた。帰りつくまでに何かもう一つ失敗があったのだが、それは思い出せない。

かくの如く最近の物忘れがあまりひどいので、かかりつけのクリニックで時々相談しているのだが、先生が「まだ大丈夫」とあまり取り合ってもらえないのを良いことに、四度目の《物忘れ外来》受診を先延ばししていた。でも今日ばかりは絶対急がねばと決心した。《物忘れ外来》は五年置きに既に三回訪れ、精密検査を受けているのだが、今までは全く'問題なし’だったのが不思議に思える位だったので、一度先生にその事を質問してみたことがある。すると「それは物忘れではなく、注意力散漫のせいです。」といみじくも喝破されて、深く納得したのだった。

確かにこの日の失敗の前半は注意力欠如によるものと思われるけれど、後の方は物忘れそのものに違いない。これからはこんな事がますます増えていくのだろうが、せめて注意力だけは努力して保っていきたいものだ。
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海外版振り込め詐欺

2016-02-27 19:00:03 | 参加する
つい先日悪名高きオレオレ詐欺なるものに私も遂に遭遇した。しかも短時間とは言え、見事に引っかかってしまったのだから我ながら情けない。途中気が付いたので実害こそなかったけれど。

顛末はこうだ。その日はどうしたことか日中一度もパソコンを開かなかった。午後何時間か外出したこともあって疲れていたかもしれない。寝る前にメールだけでもとチェックすると、久し振りの友人の名前を見つけた。アメリカ人と結婚して、ご主人を亡くしてからもずっとサンフランシスコに住んでいて、時々メールをやり取りしていた仲だ。たまの里帰りの時は私が皆に声を掛けてクラス会を開いたりもして、長年旧交を温めてきたのだが、近年は暫く音信がなくてそろそろ気になり始めていた所だった。

驚いたのはその久しぶりのメールが全部英文であって、それは旅先のフィリピンのホテルで出しているからだ。内容は、財布とcell phone(ケータイか?)を失くして困っているので、お金を貸して貰えないかというものだった。$1950。友達の為なら出せない額ではない。普通ならば疑問視だらけの内容なのに、その時の私はすべての疑問を頭の隅に追いやり、唯々彼女の途方に暮れている様子のみが目の前にちらつくのだった。それと言うのはメールに気が付いたのが遅すぎたからだ。着信時間をみたら明け方3時、それを発見したのが夜中の12時近く、この長時間どんなに心細い思いで返事を待っていたのかと思うと、気の毒なことをしたと言う気持ちだけが先立った。冷静に考えれば、おかしなことばかりだというのに。何はともあれ、まず安心させねばと大急ぎで返信を入れた。「すべて了解したから、とりあえず送金方法など教えて」とこちらの新しい電話番号を書き添えた。

大慌ての私の様子を見て傍らの夫が「詐欺かもしれないから気を付けて」と盛んに言ってくるのが、その時の私には友達の事を詐欺呼ばわりしているとしか受け取れず、憤慨して言い返したりしたのだから相当な馬鹿。でも本当の馬鹿でもなかった証拠に、返信と同時に思いついて、彼女のアメリカの自宅には今まで通りにメールを、翌朝は横浜の実家にお住いの筈の妹さんに問い合わせの電話を掛けてみた。しかし何遍掛けても留守なのかとうとう連絡付かずに終わった。

後は本人からの返信を待つだけ、旅先からか?自宅からか?しかし一日待ってもどちらからも返事は届かず、自宅へのメールに至っては《undelivered》の通知が来たのだ。これはおかしい。アドレスが変わったのかも。おまけに妹さんとの連絡もつかないまま仕方なく、もう一度今度は簡単な英語でフィリピンにメールを試みた。「電話せよ」と。すると間髪入れず、cell phoneがないから電話出来ないと相変わらず英語の返事が来た。ここで本人では有り得ないことが決定したのだが、彼女の本当の居場所が分かるまで暫く芝居に付き合ってみることにした。そこでもう一度このアホらしいやり取りを繰り返したのだが、三度目に敵は決定的なヘマをした。何と彼女の名前の代わりに自分の本名を出してしまったのだ。G,M.で始まるヒスパニック系の名前。この予期せぬ間抜けな結末ですべてが終わったのだが、果たしてこの人物は自分の失敗に気づいたのだろうか?「もうこれ以上関わらないでほっとけ」と言う夫の忠告をよそに、私は最後にこんなメールを出してお終いにした。「G.M・・・・君、茶番劇は終わった。もうこんな悪事からは足を洗いなさい。」
これで当然通信はピタッと止った。夕方この一連のメールのやり取りを全部プリントアウトして警察に届けたところ、若い女性の担当が丁寧に聞き取りをしてくれた。

横浜の妹さんとやっと連絡がついて初めて友人の消息が判った時はすべて終わったあとだった。妹さんは暫く旅行に出かけていたとのこと。留守宅にも同じ偽メールが来ていたそうだ。友人から最近メールが来なくなったわけは、日本語仕様のパソコンがこわれてしまったせいと判った。今まではお互いメールアドレスしか知らなかったので。

今までこんな詐欺にかかるような人は全くどうかしていると思っていたが、自分がその立場になって初めて騙される人の心理状態が解った気がした。大切な人の事ともなれば、ましてや母親ならばあり得ることだろうと。
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