卒業直前に他県に転校した小学校時代の友人から頼まれて、卒業写真アルバムの数枚分をコピーすることになった。見易いように大きく引き伸ばして、名前の部分もコピ-して贈ったら、届いたその晩は興奮のあまり眠れないほど嬉しかったというお返事を貰った。齢を取るにつれ昔を懐かしむ気持ちが強くなるのは皆さん共通らしい。
私も古いアルバムを引っ張り出したついでに、未整理の写真の山を整理する良い機会となった。つい眺め入ってしまった懐かしい写真の中でも特に目が行ったのは、高女二年生(中二)、戦時中の箱根への一泊旅行のときの記念写真だ。屋外のも何枚かあるけれど、旅館の室内で撮ったのが大きくて、一人ひとりの顔がはっきり見える。65年も経っているとはとても思えないほど、明るく現代風に可愛らしい少女達(私でさえそれなりに結構カワイク写っているではないか!)が皆楽しそうな笑顔で写っている。美人さん揃いなのにも今更ながら驚いた。いつの時代でも若いと言うことは美しい。
服装はまちまちで、本来の制服である黒リボンにセーラー服と襞スカートの人、また新たに追加された全国共通の制服姿(これは糸瓜衿に白い替え衿と幅広ベルト付きだった)の人、また旅館でくつろいでいる時なので、セーター姿が多いのだが、下の方はもんぺをはいている人が大半だ。このもんぺは戦時になって日本国中、女性は殆ど強制的あるいは自発的だったのか、当たり前の服装になり始めていた。女学生とて例外ではない。ところが我が校のお裁縫の先生が大変センスのある人で、野暮ったいもんぺを女学生に強いるのは忍びないと、自らニューもんぺを考案されて生徒たちに裁縫の時間に作らせた。確かにデザインは少女らしく、サスペンダー付でウエストは後でリボン結び、裾はふっくらとゴムで縛り、ユニークな上になかなか愛らしいので評判も好く、皆喜んでスカートからもんぺ着用に切り替えた。但し問題は布地である。既に繊維類は巷から姿を消し始め、新たに作るにしても手持ちの物をほどいてリサイクルすることが普通になっていた。主に普段着の銘仙や絣の着物、贅沢なところでは大島などの紬までが上下のもんぺに仕立て替えられた。私の最初のもんぺは上等な父親のセルの着物をほどいたものだった。
時局が更に緊迫してくると、制服代わりに上着までそんな材料の手製が多くなった。ウールのひざ掛けで母が作ってくれた、洒落たデザインながらちょっと手際のよくないジャケットを着て学徒動員の工場に通ったりした。お姉さんなどのお古がある人は何時までも制服や革靴を身につけておられたが、私は次第に履くものから無くなってしまい、とうとう下駄履きで通うようになった。他にそんな人は沢山いたし、そんなことを気にするどころの騒ぎではない厳しい時代に突入していた。戦争が終わっても暫くは物資不足が続き、母が私のために知人から3枚5千円で譲ってもらったブラウス(当時としては何と高価なこと!)や、父の外套を洋裁屋に頼んで仕立て直した茶色のハーフコートを着て通学した。この時代を経たお陰で、私は古着のリサイクルが得意芸となり、子供達が幼い頃の服装は大方私の古着が化けたものだった。
因みに上記の箱根旅行の時の私の履物は配給物資の抽選で当たった男物の編み上げ靴だった。一応れっきとした皮製だったが、父には小さ過ぎ、私にはちょっと大き過ぎたけれど、他に穿くものがない以上仕方のない事だった。
もう一つ付け加えて、その旅行では旅館に一泊するために、各自お米を一合ずつ持参した。家から持ってきたお弁当は、私の場合は色とりどりのサツマイモのバリエーションで、他のものはあまり入っていなかった事をよく憶えている。よくこれだけ調理法を考えたものだと、母の工夫に感心した。他の人たちも似たようなものだったと思う。
私も古いアルバムを引っ張り出したついでに、未整理の写真の山を整理する良い機会となった。つい眺め入ってしまった懐かしい写真の中でも特に目が行ったのは、高女二年生(中二)、戦時中の箱根への一泊旅行のときの記念写真だ。屋外のも何枚かあるけれど、旅館の室内で撮ったのが大きくて、一人ひとりの顔がはっきり見える。65年も経っているとはとても思えないほど、明るく現代風に可愛らしい少女達(私でさえそれなりに結構カワイク写っているではないか!)が皆楽しそうな笑顔で写っている。美人さん揃いなのにも今更ながら驚いた。いつの時代でも若いと言うことは美しい。
服装はまちまちで、本来の制服である黒リボンにセーラー服と襞スカートの人、また新たに追加された全国共通の制服姿(これは糸瓜衿に白い替え衿と幅広ベルト付きだった)の人、また旅館でくつろいでいる時なので、セーター姿が多いのだが、下の方はもんぺをはいている人が大半だ。このもんぺは戦時になって日本国中、女性は殆ど強制的あるいは自発的だったのか、当たり前の服装になり始めていた。女学生とて例外ではない。ところが我が校のお裁縫の先生が大変センスのある人で、野暮ったいもんぺを女学生に強いるのは忍びないと、自らニューもんぺを考案されて生徒たちに裁縫の時間に作らせた。確かにデザインは少女らしく、サスペンダー付でウエストは後でリボン結び、裾はふっくらとゴムで縛り、ユニークな上になかなか愛らしいので評判も好く、皆喜んでスカートからもんぺ着用に切り替えた。但し問題は布地である。既に繊維類は巷から姿を消し始め、新たに作るにしても手持ちの物をほどいてリサイクルすることが普通になっていた。主に普段着の銘仙や絣の着物、贅沢なところでは大島などの紬までが上下のもんぺに仕立て替えられた。私の最初のもんぺは上等な父親のセルの着物をほどいたものだった。
時局が更に緊迫してくると、制服代わりに上着までそんな材料の手製が多くなった。ウールのひざ掛けで母が作ってくれた、洒落たデザインながらちょっと手際のよくないジャケットを着て学徒動員の工場に通ったりした。お姉さんなどのお古がある人は何時までも制服や革靴を身につけておられたが、私は次第に履くものから無くなってしまい、とうとう下駄履きで通うようになった。他にそんな人は沢山いたし、そんなことを気にするどころの騒ぎではない厳しい時代に突入していた。戦争が終わっても暫くは物資不足が続き、母が私のために知人から3枚5千円で譲ってもらったブラウス(当時としては何と高価なこと!)や、父の外套を洋裁屋に頼んで仕立て直した茶色のハーフコートを着て通学した。この時代を経たお陰で、私は古着のリサイクルが得意芸となり、子供達が幼い頃の服装は大方私の古着が化けたものだった。
因みに上記の箱根旅行の時の私の履物は配給物資の抽選で当たった男物の編み上げ靴だった。一応れっきとした皮製だったが、父には小さ過ぎ、私にはちょっと大き過ぎたけれど、他に穿くものがない以上仕方のない事だった。
もう一つ付け加えて、その旅行では旅館に一泊するために、各自お米を一合ずつ持参した。家から持ってきたお弁当は、私の場合は色とりどりのサツマイモのバリエーションで、他のものはあまり入っていなかった事をよく憶えている。よくこれだけ調理法を考えたものだと、母の工夫に感心した。他の人たちも似たようなものだったと思う。
写真の整理は見入っている時間の方が長いので、なかなかはかどりません。