雑談の達人

初対面の人と下らないことで適当に話を合わせるという軽薄な技術―これがコミュニケーション能力とよばれるものらしい―を求めて

宇宙に夢もロマンも感じられない理由

2009年07月22日 | その他の雑談
宇宙関連の話題は、明るいニュースとして扱われる。宇宙飛行士の若田光一氏の活躍は連日報道されていた。しかし、である。率直に言って、もはや宇宙に夢もロマンも全く感じられないのは、筆者だけであろうか。

宇宙に行って、やっておられることと言えば、お気に入りの音楽で目覚めてみたり、地上の子供たちや偉い政治家と交信してみたり、腕相撲や綱引きなどの「おもしろ宇宙実験」とやらをしてみたり、宙返りしてみたり、散髪してみたり、「宇宙日本食」に舌鼓を打ってみたり…

いやいや、そんなことはない。あれは、地上の私たちに宇宙の素晴らしさを伝えるため、超過密な船内スケジュールの合間を縫って大サービスしてくれているのだ。その輝かしい使命として、「ロボット・アーム」なる機器を超高度な技術で操り、国際宇宙ステーションの組み立てに日々邁進しているのだ…そんな声が聞こえてきそうだ。でも、この超ハイテク時代に、アームぐらい地上からの遠隔操作で動かせないんですか、という至極もっともな質問が飛んできてもよさそうなのに、ご本人の「神聖な使命」を汚すのが悪くて、皆敢えて黙っているんじゃないかと勘繰ってしまう。

さて、当の国際宇宙ステーションだが、2010年4月に完成後、運用予定は2016年までだそうだ。1540億ドル(約15兆円!)かけて、寿命がたった6年。目的は実験と観測。コストに見合った夢とロマンを世界中の人に与えているだろうか? 関係者の皆様には本当に申し訳ないが、無名の中小企業のサラリーマンの戯言として言わしてもらおうと、何の夢もロマンも感じない。きっと最大の見せ場は、寿命を迎えた宇宙ステーションを廃棄するため、大気圏へ突入させ、彗星のように燃えながら海洋に落下するステーションを、天体ショーの如く皆で鑑賞することぐらいではないか。

少年少女が無条件に憧れの対象としてきた宇宙飛行が、何故これほどどうでもよく思われ、何の夢もロマンも感じられないのか。思うに、社会全体として冒険だとか、未知なるものへの憧れが極端に減退しているからではないかと思う。

未知なるものに憧れるには、現実の生活が確固たるものでなくてはならない。生活が安定し、将来の見通しがある程度立っている。進学、就職、結婚、育児、昇進……単調ではあるが、一定のリズムの下で日常生活が淡々と流れていく。その様な生活上の基盤が盤石であるからこそ、非日常への冒険、未知なるものへの憧れが湧いて来るのである。

しかし、現実の日本の生活はどうか。雇用は不安定化し、来月仕事があるかどうかもわからない。グローバルな競争を余儀なくされる会社は、やむを得ず人を使い捨てにする一方、地域の共同体は崩壊し、人々はバラバラの砂粒の個人になっている。隣に誰が住んでいるかもよくわからない。将来が良くなるとは到底思えない。十分な年金がもらえる保証もない。言わば、毎日が「未知との遭遇」である。その様な中、冒険や未知なるものへの憧れなど湧きようもない。人類の偉業などに興味のない庶民感覚的には、「実験」のためにわざわざ人を宇宙まで送るなど、膨大な「無駄遣い」にしか思えず、共感など覚えようもないのである。

まぁ、ここまでひねくれた意見を持つのも、若干世を拗ね気味に生きている筆者のような偏屈者ぐらいだろうと思っていたら、政府もいい加減調子に乗り過ぎたとしか思えないような構想を出してきた。これまで「輝かしい偉業」に対して遠慮気味だった世論から、さすがに激しいツッコミが入った。そうか、やっぱり皆同じだったのだ。月面をロボットが2足歩行して、いったい何だというのだ。そんなものは、明日の生活の心配のない連中のお遊びに過ぎない。もう、国民は宇宙に夢もロマンも期待していない。ここらで真剣に釘を刺しておかないと、調子に乗り続けたまま空気を読もうとしない官僚や科学者のお偉いさんたちが、「月でモチつきをするウサギ型ロボット」とか本当に開発しかねないと思う。微力ではあるがここに警告しておくことにする。


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