「千木高くしてみや柱ふとしくたてて内陣より外陣に至るまて金をちりばめ玉をかさり、・・・」(三芳野名勝図会)と謳われた寛永元年(1624年)造営の拝殿・本殿も、明暦二年(1656年)には棟札また「三芳野天神別当乗海覚書」に「依年月経年令零落」と云わしめている。外観から見ると、塗装の剥落ひどく、現在の印象でもある。
「川越三吉野の里に天満宮造営ありければ。外遷宮によて。松平甲斐守輝綱暇下さる」と「徳川実紀」にある。寛永元年造営の社殿から明暦ニ年の権現造への修復と呼ぶ変更は、武の素戔嗚尊から文の菅原道真へと転換を意味し、幕府の、松平信綱の意図があるのではなかろうか。これが「江戸二ノ丸御宮先御城主松平伊豆守御拝領被成、当御城内江御建立」(「河越御城内天神御社地?寺院由緒覚」元禄七年(1694年))の背景ではなかろうか。
拝殿 本殿
(注)2012年5月撮影
権現造にするには当初の流造の本殿では難しいのかも知れない。入母屋造の二ノ丸東照宮の本殿と置き換えたということであろうか。拝殿・幣殿は同じく城内の田曲輪、高松院の庭に移築し、三芳野神社内宮の遥拝所としたのであろう。この拝殿・幣殿は今氷川神社の摂社八坂神社(三芳野神社の主神素戔嗚尊を祀る)として移築され残っている。
八坂神社
(注)2012年10月撮影