「延喜式神名帳」に載る「大神山神社」は「大神山神社奥宮」ではない。大神山神社奥宮は「今昔物語」の第十七巻に大山寺として「依地蔵示従愛宕護移伯耆大山僧語第十五」に出てくる。「今、伯耆ノ国、大山ト云フ所ニ詣デテ、二世ノ求メム所ヲ祈リ願ヘ。彼ノ権現ハ、地蔵菩薩ノ垂迹、大智明菩薩ト申ス。」(小峰和明「新日本古典文学大系36」岩波書店 1994)と、また西行「撰集抄」にもあるように平安時代には大智明神の利益が京まで知られていたようである。あくまでも大山寺本殿であった。
寛政八年(1796)の焼失後、再建されたのは文化二年(1805)である。京都の大工棟梁三輪平太による、ただし完成を見ず自死している。地元大工の嫌がらせを受けてと云われている。拝殿から翼廊を広げた形の権現造である。翼廊は修験者参籠のためであろうか、規模の大きさは大山信仰の隆盛を意味するのであろう。しかし権現造としたのは江戸中期以降の神社建築の主要形式の一つになっていたからであろう。
参道 神門 拝殿
本殿 翼廊
末社下山神社は備中郡司渡辺日向守の子、渡辺源五郎照政を祭神として、天徳二年(1330)創建と伝える。兵火・雷火で焼失と奥宮と同じ経過を辿ったようである。奥宮の権現造の祖形と云われる北野天満宮と同じく八棟造で再建されたのは、財政窮乏中の津和野藩、亀井矩賢寄進により、文化二年(1805)であった。
下山神社
(注)2019年11月撮影
寛政八年(1796)の焼失後、再建されたのは文化二年(1805)である。京都の大工棟梁三輪平太による、ただし完成を見ず自死している。地元大工の嫌がらせを受けてと云われている。拝殿から翼廊を広げた形の権現造である。翼廊は修験者参籠のためであろうか、規模の大きさは大山信仰の隆盛を意味するのであろう。しかし権現造としたのは江戸中期以降の神社建築の主要形式の一つになっていたからであろう。
参道 神門 拝殿
本殿 翼廊
末社下山神社は備中郡司渡辺日向守の子、渡辺源五郎照政を祭神として、天徳二年(1330)創建と伝える。兵火・雷火で焼失と奥宮と同じ経過を辿ったようである。奥宮の権現造の祖形と云われる北野天満宮と同じく八棟造で再建されたのは、財政窮乏中の津和野藩、亀井矩賢寄進により、文化二年(1805)であった。
下山神社
(注)2019年11月撮影