摠見寺は安土城の内に、曲輪と思わせるような位置にある。織田信長の建立の意図は、イエスズ会の宣教師フロイスの「日本史」に「自らが単に地上の死すべき人間としてでなく、あたかも神的生命を有し、不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを希望した。そしてこの冒涜的な欲望を実現すべく、自邸に近く城から離れた円い山の上に一寺を建立することを命じ・・・」とある。摠見寺である。そして信長に見立てた石「盆山」を「すべての仏の上」に置いたと書いている(松田毅一・川崎桃太訳「フロイス日本史5」中央公論社 1978)。
その摠見寺は「信長公記」では、天正九年(1561)「七月十五日は、安土御殿主、幷に惣見寺に挑灯余多つらせられ、・・・」と出てくるのが初見である。翌十年には「今度は大名・小名によらず、御礼銭百文づつ自身持参候へと、・・・」と毘沙門堂、舞台そして本丸御殿を公開している。摠見寺は寺としての機能はあったであろうが、信長にとっては接待所としての舞台があり、功徳をもたらす「盆山」が置ける本堂があるといった形が大事であったのであろう。
創建時は、本堂・鎮守社とその拝殿・表門・裏門、毘沙門堂・舞台、そして現存する三重塔と仁王門である。毘沙門堂と舞台は新設であろうが、そのほかは他からの移築である。「明治村」的発想であり、形を整えるのに手段を選ばなかったということであろうか。豊臣秀頼寄進の書院・庫裡の礎石が残るが、その下層から礎石が発掘されており、舞台と推定される。何処かに移設された可能性がある。
秋田裕毅「織田信長と安土城」創元社 1990
滋賀県教育委員会編「安土 信長の城と城下町」サンライズ出版 2009
仁王門
三重塔
長寿寺塔跡
(注)2019年12月撮影
その摠見寺は「信長公記」では、天正九年(1561)「七月十五日は、安土御殿主、幷に惣見寺に挑灯余多つらせられ、・・・」と出てくるのが初見である。翌十年には「今度は大名・小名によらず、御礼銭百文づつ自身持参候へと、・・・」と毘沙門堂、舞台そして本丸御殿を公開している。摠見寺は寺としての機能はあったであろうが、信長にとっては接待所としての舞台があり、功徳をもたらす「盆山」が置ける本堂があるといった形が大事であったのであろう。
創建時は、本堂・鎮守社とその拝殿・表門・裏門、毘沙門堂・舞台、そして現存する三重塔と仁王門である。毘沙門堂と舞台は新設であろうが、そのほかは他からの移築である。「明治村」的発想であり、形を整えるのに手段を選ばなかったということであろうか。豊臣秀頼寄進の書院・庫裡の礎石が残るが、その下層から礎石が発掘されており、舞台と推定される。何処かに移設された可能性がある。
秋田裕毅「織田信長と安土城」創元社 1990
滋賀県教育委員会編「安土 信長の城と城下町」サンライズ出版 2009








(注)2019年12月撮影