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一葉一楽

寺社百景

長谷寺 ー 山腹に立つ観音菩薩

2013-02-19 22:06:27 | 寺院

一本の流木から長谷寺は始まる。寛平八年(896年)菅原道真の書で知られる「長谷寺縁起文」である。この霊木は藤原氏因縁の十一面観音となる。当初のみたけは2丈6尺と、「大和名所図会」は「拾芥抄」を引用する。、現在の観音像は天文7年(1528年)造立で3丈3尺6寸(1018cm)である(「大和名所図会」では1丈6尺とする)。これを覆う本堂・礼堂は、天正16年(1588年)豊臣秀長寄進による再建であったが、同時に興福寺支配、藤原氏からの脱却でもあった。ところが現存の本堂・礼堂が江戸幕府により慶安3年(1650年)供養と、新規に建て替えられている。豊臣氏再建では困ることがあったのであろうと、箱崎和久は推察している(「奈文研ニュース」No.14,2004年)。

         

                

懸造の礼堂からは、十一面観音の上半身しか拝することが出来ない。創建当時は、現在の本坊のあるあたりから、山腹に浮かぶように観音像を拝むことができたのではないか。観音信仰の高まりが、もっと近く、同じ空間でと考えた時に礼堂を、山腹のため斜面に懸造で、建て、登るために登廊を建てたのでなかろうか。勿論庶民のためではなく、藤原氏の便利のためであろう(登廊、「大和名所図会」では一条院の頃、10世紀末建立という)。

                   

                

豊臣秀頼再建の三重塔は明治九年(1877年)落雷で焼失。ということは本堂建替えは、秀長による興福寺圧迫に対する興福寺の逆襲か。

                   

(注)2013年1月撮影

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率川神社 ー 神仏分離の余波

2013-02-08 10:34:23 | 神社

明治12年(1879年)八月、大神神社は内務省に「率川神社摂社御改定願」を提出し、同十月承認された。維新前まで興福寺の支配下にあったが、神仏分離令により、興福寺は廃寺ときまり、率川神社は春日神社の末社となったためである。

平城京遷都前には存在していたようである。「大神神社史」には「推古天皇元年(593年)二月大三輪君白堤詔を奉じ、春日率川の地に於て初めて祠を立て之を祀る。爾来大三輪氏世世祭事を掌る」とある。「令集解」に三枝祭の条に「謂率川社祭也、以三枝花飾酒樽」とし、大神氏の祭祀とする。三輪山の麓を拠点とする大三輪氏が何故春日氏の根拠地である御蓋山の麓に社を構えたのか判らない。花ではなく、神前に奉げる酒ゆえであろうか。養老元年(717年)に至り、藤原不比等が関与し、興福寺との関係が生まれる。春日社が出来るまえのことであるが、春日社造営あるいは造替の度に率川社も手が加わっていたようである。現社殿の文久二年(1862年)修理も春日社造替の前年である。なお大神神社の末社は軒並み春日造である。

              

                 

(注)2013年1月撮影

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大神神社 ー 「社」の表現

2013-02-01 14:01:16 | 神社

1.大神神社

「社」は「杜(もり)」と訓むことが、万葉集では一般的のようである。三輪山が神体として祀られていた時は確かに「杜」であろうが、大物主神として祀るようになって「社」と表現するのがふさわしい。三輪君族と同祖であると「古事記」に書かれている鴨君族では、本殿を持つようになったが、神山を神体として祀っていた。大神神社の拝殿は、上賀茂神社の本殿と同じように、小川に橋をかけ、やや高みの開けた、嘗ての祭祀の場と思しき場所にある。拝殿の南北には勅使殿、勤番所があり、あたかも祭祀の場を取り囲むように建つ。残る記録によれば拝殿は文保元年(1317年)造営という。現在の拝殿は寛文四年(1664年)公儀普請である。三輪山を神体と再認識して始めて、拝殿を拝殿として認識されるようになったのであろう。拝殿であることを強調するかのような、割拝殿の様式を取り入れていることが意図的である。当初は拝殿とは意識しない何らかの建物があったと考えたほうがいいような気がするが。明治6年(1873年)までは「大和名所図会」も挿絵の通りであったようである。変わったのはこの後である。楼門は老朽化のため、取り壊され、柱二本にしめ縄となった。昭和28年になって拝殿に拝所が取り付けられ、また変わってきている。(参考文献:「大神神社史」大神神社史料編修委員会編 昭和50年10月)

                

               

2.大直禰子神社(旧若宮大御輪寺)

「今昔物語集」巻二十、「高市中納言、依正直感神語 第四十一」に、「今昔、持統天皇ト申ス女帝ノ御代ニ、中納言大神ノ高市麿ト云フ人有ケリ。・・・・。大和ノ国、城上ノ郡ニ三輪ト云郷、其ノ中納言ノ栖也。其ノ家ヲバ寺ト成テ三輪寺ト云フ。其ノ流ヲ以テ其ノ社ノ司トシテ、今ニ有トナム語リ伝ヘタリトヤ」(「新日本古典文学大系」 岩波書店)とある。この大御輪寺は始めから神仏習合で創建されたようである。大神高市麿は若宮の祭神である大田田禰子命の子孫と云われており、同時に祀ったようである。現在の社殿は、弘安八年(1285年)古材を用いて、叡尊により再建と伝わる。同じ大神神社の神宮寺である平等寺と比べ、衰退していたためであろうか。昭和62年(1987年)には復原修理し、応永19年(1412年)の姿、全くの仏堂である、になった。しかし内陣には神壇である。叡尊は国は神、個人救済には仏と思っていたようだが、この姿はどう見るであろうか。

                  

               

(注)2013年1月撮影

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