一本の流木から長谷寺は始まる。寛平八年(896年)菅原道真の書で知られる「長谷寺縁起文」である。この霊木は藤原氏因縁の十一面観音となる。当初のみたけは2丈6尺と、「大和名所図会」は「拾芥抄」を引用する。、現在の観音像は天文7年(1528年)造立で3丈3尺6寸(1018cm)である(「大和名所図会」では1丈6尺とする)。これを覆う本堂・礼堂は、天正16年(1588年)豊臣秀長寄進による再建であったが、同時に興福寺支配、藤原氏からの脱却でもあった。ところが現存の本堂・礼堂が江戸幕府により慶安3年(1650年)供養と、新規に建て替えられている。豊臣氏再建では困ることがあったのであろうと、箱崎和久は推察している(「奈文研ニュース」No.14,2004年)。
懸造の礼堂からは、十一面観音の上半身しか拝することが出来ない。創建当時は、現在の本坊のあるあたりから、山腹に浮かぶように観音像を拝むことができたのではないか。観音信仰の高まりが、もっと近く、同じ空間でと考えた時に礼堂を、山腹のため斜面に懸造で、建て、登るために登廊を建てたのでなかろうか。勿論庶民のためではなく、藤原氏の便利のためであろう(登廊、「大和名所図会」では一条院の頃、10世紀末建立という)。
豊臣秀頼再建の三重塔は明治九年(1877年)落雷で焼失。ということは本堂建替えは、秀長による興福寺圧迫に対する興福寺の逆襲か。
(注)2013年1月撮影