一葉一楽

寺社百景

伊佐爾波神社 ー 近世大名の祈りのカタチ

2013-07-26 13:30:25 | 神社

慶応二年(1866年)半井梧庵は「愛媛面影」に「湯月八幡宮」として「伊佐爾波神社」を載せる。河野氏断絶の後、社殿は壊れ、慶長八年(1603年)の至り加藤嘉明が再建。現在の社殿の前身であろうが、その様式は伝わらない。「寛文七年丁末春(1667年)松山城主少将定長公神夢の告に依新に再建あり此時山城国石清水の壮観を宝殿回廊彫物ニ至まで寸分不摸させ玉ふ・・・」と「愛媛面影」は続ける。

                 

久松氏は本姓は菅原氏であると云われているが、松平姓を称することになって源義家の末裔としたようである。八幡太郎義家は射芸に秀でていたと云われていること、また八幡太郎は石清水八幡に因む。松平定長は弓の競射にあたって、義家にあやかろうとしたのであろうか。とすれば八幡社は宇佐ではなく、石清水でなければならなかったのも当然である。

             

     

             

(注)2010年3月撮影


信濃国分寺 ー 官から民へ

2013-07-21 11:03:03 | 寺院

「将門記」に「追着於信濃國少縣郡國分寺之邊。便帶千阿川、彼此合戰間、無有勝負。」とある。承平八年(938年)平将門が平貞盛を追った時、信濃国分寺は焼失したと云われている。嘉永二年(1849年)刊行の「善光寺道名所図会」は「縁起」の意を採ったとして、「・・・さてまた後鳥羽院御宇、右大将頼朝卿より前に勝れて再建善美尽くせり。・・・その後慶長年間、上田乱に伽藍また灰燼となり、ただ薬師の像と三重の塔のみ残りて荒敗の地となりしなり」。

                

三重塔の建立は室町時代中期と云われているが、文明十二年(1480年)書写の「牛頭天王之祭文」に見られるように「蘇民信仰」が盛んになった時であろうか。牛頭天王は本尊薬師如来の垂迹である。神仏習合で維持されてきたのは、塩田平の寺院とは異なる。この三重塔、「善光寺道名所図会」に文政九年(1826年)の図が載っているが、二層目に「昔らんかんありし所」と注記がある。塩田平の前山寺の三重塔を思い起こされる。

                   

                 

国分寺として毎月八日金光明経の読経は行われているようだが、八日はまた縁日として民衆の中で長く続いている。元和または元禄の頃と云われている「八日堂縁日図」には茅葺寄棟造の八日堂(薬師堂)、三重塔と同時に民衆の姿が描かれている。現在の薬師堂、発願から30年の万延元年(1860年)の竣工である。人々の寄進の結果である。撞木造ではないが、善光寺に似た裳階の着いた、長野県では善光寺に次いで大きな建物である。

                

(注)2012年9月撮影


長門一の宮住吉神社 ー 同居する神々

2013-07-13 21:25:57 | 神社

鎮座地が変わったという伝承は残っていない。瀬戸内海側の長府から山を越えた日本海側に位置する。他の摂津、筑前一の宮の住吉社は明らかに海に面し、船出の地であったことを示しているが、ここ長門一の宮の住吉神社は海岸線の移動を考慮しても、どちらかというと山の麓の感が強い。

文明12年(1480年)大内政弘の誘いを受け山口に下った宗祇が筑紫を訪問した時の紀行文「筑紫道記」に、長門一の宮住吉神社を「これも社中神さびて、木深き松の響き身に染み、言う由なし。・・・鎮座の御神は西の第一住吉明神、次八幡大菩薩、高良大明神、神功皇后、諏訪明神以上五柱なり」と記す。しかし「延喜式」には「荒御魂神社三座」と住吉三神のみを祀るとある。これは神功皇后はともかく、住吉三神との関係がよく判らない、残る三柱を勧請したのは後人であることを意味する。

                  

               

                        拝殿

「長門国守護職次第」に30代大内弘世、政弘の曽祖父、「正平十三年(1358年:南朝方の年号)当府御入部。当日御社参」、続いて「同御代社頭皆造御遷宮。応安三年(北朝方年号:1370年)御出仕有之」とある(なお拝殿は天文八年(1539年)毛利元就の寄進)。南朝方周防守護大内氏が北朝方長門守護厚東氏を追い出し、南朝方周防長門守護となった後、北朝方として周防長門守護として安堵された頃である。長門国を手中にし、その一の宮の本殿造営は力の誇示としかいいようがない。住吉三神の他四柱を合祀したのは、大内弘世の意図であろう。住吉三神は主祭神の座を明け渡すことになったのであろう。西向から、全く海とは関係のない南向に変わった所以であろうか。

                            

                

                 

                                                  本殿

(注)2013年6月撮影


功山寺 ー 鎌倉武士の祈り

2013-07-02 11:06:22 | 寺院

仏殿身舎入側柱に「此堂元応二年(1320年)卯月五日柱立」と墨書があるそうだが、元禄五年(1692年)写の「長門府金山功山禅寺略記」には「当寺草創後醍醐天王嘉暦二年(1327年)也」と、また開基は寛永十六年(1639年)の棟札には「平時直」とある。仏殿の建立が寺の開創より古い。天保四年(1833年)中村徳美「金山旧記考」で開基を「北条時仲」とし、矛盾はないとする。「時直」も「時仲」も長門探題であった。(参照 「国宝功山寺仏殿修理工事報告書」功山寺 1985年3月)。

                   

                   

                        山門

山あいに寺はある。総門から山門へと登りが続き、仏殿はその突き当たりにある。禅宗とは云え伽藍を構成してとは思えない。長門探題が何処にあったのか不明だが、さして離れていない場所にあったのではなかろうか。政村流時村系がこの長門探題に派遣されてから長い。鎌倉では建長寺、円覚寺が1316年頃相次いで焼失からの仏殿再建を果たして、祈りの場を確保している(関口欣也「増補 鎌倉の古建築」有隣堂 2005年)。この影響なのか禅宗様で仏殿を造る。「時仲」にしろ「時直」にしても得宗家ではない。中央、鎌倉から派遣とはいえ地盤のない西国に長い。北条氏にとっては、鎮西探題とともに、対元の軍事的重要拠点である、この地に寺院の開創は地盤確保への祈りのためであろうか。

             

                                  

                                         

                                                    仏殿

(注)2013年6月撮影