慶応二年(1866年)半井梧庵は「愛媛面影」に「湯月八幡宮」として「伊佐爾波神社」を載せる。河野氏断絶の後、社殿は壊れ、慶長八年(1603年)の至り加藤嘉明が再建。現在の社殿の前身であろうが、その様式は伝わらない。「寛文七年丁末春(1667年)松山城主少将定長公神夢の告に依新に再建あり此時山城国石清水の壮観を宝殿回廊彫物ニ至まで寸分不摸させ玉ふ・・・」と「愛媛面影」は続ける。
久松氏は本姓は菅原氏であると云われているが、松平姓を称することになって源義家の末裔としたようである。八幡太郎義家は射芸に秀でていたと云われていること、また八幡太郎は石清水八幡に因む。松平定長は弓の競射にあたって、義家にあやかろうとしたのであろうか。とすれば八幡社は宇佐ではなく、石清水でなければならなかったのも当然である。
(注)2010年3月撮影