春宮の現社殿は安永八年(1779)、秋宮は翌九年(1780)の上棟である。延宝七年(1679)の「下諏訪大明神春秋両社之絵図」に描かれた姿と変わらない。しかし上、下社の争いで下社焼失後の、長享二年(1488)造営時のことが、春秋両宮ともに、「春秋之宮造営之次第」に「御宝殿、御門屋、舞台、三間拝殿、五間拝殿」と記されている。この規模は延文元年(1356)「諏訪大明神絵詞」の頃まで遡ることが出来るかも知れないが、現在の片拝殿に相当するのか判らないが、三間、五間と非対称となっており、江戸以降の対称性を重んじた社殿配置とは異なる。とはいえ御神木を中心とする境内は、整然としており、延喜式の頃より式年造替が行われ踏襲されてきたとすると、上社を意識し創られた社ではないかとの疑念が起きる。先住の縄文的な上社に、あとから下社が入り込んだような感じを受けるのである。延喜式に二座とあるのは、ニ座に”した”のではないかと思われるほど、下社は出来あがっている。(参照:1.東京芸術大学大学院美術研究科文化財保存専攻保存修理建造物研究室編「信濃国一之宮諏訪大社上社本宮建造物調査報告書」2012、2.文化財建造物保存技術協会編著「重要文化財諏訪大社下社春宮幣拝殿ほか六棟保存修理工事報告書」2012)
春宮
下馬橋
神楽殿
幣拝殿
宝殿
(注)2015年9月撮影
延文元年(1356)には既に春秋二宮あったことが「諏訪大明神絵詞」で分かる。しかし創建当初より存在したのか否かは分からない。春秋、季節によって遷座するということは、上社の狩猟祭祀とは異なり農耕神の趣を持つ。二座というよりは、二社と全く異なる社といったほうがいいようである。
秋宮
神楽殿
幣拝殿
(注)2009年2月撮影
春宮







(注)2015年9月撮影
延文元年(1356)には既に春秋二宮あったことが「諏訪大明神絵詞」で分かる。しかし創建当初より存在したのか否かは分からない。春秋、季節によって遷座するということは、上社の狩猟祭祀とは異なり農耕神の趣を持つ。二座というよりは、二社と全く異なる社といったほうがいいようである。
秋宮





(注)2009年2月撮影