延喜式神名帳には、氷川神社は名神大 月次新嘗とある。奉幣に預かるのは東海道では、他に三島、安房、香取、鹿島であったが、氷川の神階は高くなく、元暦二年(878)で正四位上と官社として、鎌倉幕府・室町幕府の崇敬を得て存続した。神社の社格、性質を変えたのは明治元年(1868)の明治天皇の行幸であった。「鎮守勅祭」の社とされ、「祭政一致の顕現」という目的と勅書はいう。明治新政府にとっては、今後統治するのは江戸幕府ではなく、民衆には未知の天皇であるという示威行動であった。
この時元禄以来の三社三神主鼎立供僧一寺体制を廃し、男体社を本社、他は摂末社とした。明治四年(1871)には官幣大社となり、神主は中央から派遣、従前の神主は禰宜となった。明治十五年には官幣大社に相応しい社殿ということで本殿・幣殿・拝殿を新築、寛文七年(1667)造営の三社殿は移築される。昭和十五年(1940)には楼門・廻廊を増築し、現在のすがたとなった。



(注)2025年2月撮影
この時元禄以来の三社三神主鼎立供僧一寺体制を廃し、男体社を本社、他は摂末社とした。明治四年(1871)には官幣大社となり、神主は中央から派遣、従前の神主は禰宜となった。明治十五年には官幣大社に相応しい社殿ということで本殿・幣殿・拝殿を新築、寛文七年(1667)造営の三社殿は移築される。昭和十五年(1940)には楼門・廻廊を増築し、現在のすがたとなった。







(注)2025年2月撮影
鳥取東照宮は、嘗て因幡東照宮と呼ばれていたが、神仏分離令後の明治七年(1874)に所在地の名をとり、樗谿神社と改称、140年弱後の平成二十三年(2011)に鳥取東照宮と名を変えた。
外様大名の、地元への東照宮勧請は幕府への臣従の表明と幕府はみたが、池田家は準親藩との自負があっての勧請か。御三家はそれぞれ久能山東照宮を模した東照宮をそれぞれの土地に造営している。
池田家は岡山藩池田光政の備前東照宮(現玉井宮東照宮」)、正保二年(1645)造営、に始まる。この時幕府から「軽く御造営」の意が伝えられたという。また棟札に幕府御大工木原杢允義久の名がある。因幡池田家の東照宮造営は慶安三年(1650)である。この時も木原義久の名が残るが、「軽く造営」とは権現造りは不可の意で、木原義久を介入させたと推定される。本殿は透塀で囲まれ一段高く、且つ拝幣殿とは離れている。すなわち徳川宗家また御三家の東照宮とは一線を画すことが意図されている。

(注)1. 1969年6月撮影
2.唐門が見えない。

(注)2024年12月撮影
外様大名の、地元への東照宮勧請は幕府への臣従の表明と幕府はみたが、池田家は準親藩との自負があっての勧請か。御三家はそれぞれ久能山東照宮を模した東照宮をそれぞれの土地に造営している。
池田家は岡山藩池田光政の備前東照宮(現玉井宮東照宮」)、正保二年(1645)造営、に始まる。この時幕府から「軽く御造営」の意が伝えられたという。また棟札に幕府御大工木原杢允義久の名がある。因幡池田家の東照宮造営は慶安三年(1650)である。この時も木原義久の名が残るが、「軽く造営」とは権現造りは不可の意で、木原義久を介入させたと推定される。本殿は透塀で囲まれ一段高く、且つ拝幣殿とは離れている。すなわち徳川宗家また御三家の東照宮とは一線を画すことが意図されている。





(注)1. 1969年6月撮影
2.唐門が見えない。



(注)2024年12月撮影
大瀧神社は日野川の東、四十八ケ村の鎮守であった。製糸業を生業とする今立五箇もその中に入る。その下御堂(里宮)が古くなり立替請負の要望が地元五箇村の大工四人から世話人三田村氏をとおし神主に出されたのは天保十一年(1841)であった。
重なり合う破風はシドニー・オペラハウスに似ているが、一度の設計変更を経て出来上がった。天保五年(1835)の「板地着色大瀧児大権現祭礼図絵馬」には建替前の本殿と拝殿が柄が描かれているが、その場での建替であれば充分余地があり、密接させて造営する必要はない。五間三間pan style="font-size:16px;">大瀧神社は日野川の東、四十八ケ村の鎮守であった。製糸業を生業とする今立五箇もその中に入る。その下御堂(里宮)が古くなり立替請負の要望が地元五箇村の大工四人から世話人三田村氏をとおし神主に出されたのは天保十一年(1841)であった。
重なり合う破風はシドニー・オペラハウスに似ているが、一度の設計変更を経て出来上がった。天保五年(1835)の「板地着色大瀧児大権現祭礼図絵馬」には建替前のo奥宮と同じ一間の本殿と石段下に桁五間梁三間の拝殿が描かれており、その場での建替であれば充分余地がある、密接させて造営する必要はない。拝殿を廃し本殿に密着させたのは、神社色を強めるとの意図であろうか。当初設計案で十分意図は達成しているが、現本殿は千鳥破風と唐破風の装飾的な屋根を付加し、脇障子を斜めにし、千木・鰹木を載せる。社殿彫刻は中国の故事を題材とする、国学ではなく儒教である。
氏子の反応は判らない。この江戸末期の風潮に受け入れる素地はあったのであろう。しかし屋根の上に屋根を重ねることは次の建て替えに採用されるだろうか、少なくとも今までのところ模倣はない。




(注)2024年10月撮影
(参考文献)
1. 国京克己「大滝神社本殿及拝殿の普請経過と設計変更時期について」
若越郷土研究66巻1号、2021.
2. 国京克己 「大滝神社社殿と柏原八幡宮社殿ー社殿の類似性と独創性」
若越郷土研究68巻1号、2023.
重なり合う破風はシドニー・オペラハウスに似ているが、一度の設計変更を経て出来上がった。天保五年(1835)の「板地着色大瀧児大権現祭礼図絵馬」には建替前の本殿と拝殿が柄が描かれているが、その場での建替であれば充分余地があり、密接させて造営する必要はない。五間三間pan style="font-size:16px;">大瀧神社は日野川の東、四十八ケ村の鎮守であった。製糸業を生業とする今立五箇もその中に入る。その下御堂(里宮)が古くなり立替請負の要望が地元五箇村の大工四人から世話人三田村氏をとおし神主に出されたのは天保十一年(1841)であった。
重なり合う破風はシドニー・オペラハウスに似ているが、一度の設計変更を経て出来上がった。天保五年(1835)の「板地着色大瀧児大権現祭礼図絵馬」には建替前のo奥宮と同じ一間の本殿と石段下に桁五間梁三間の拝殿が描かれており、その場での建替であれば充分余地がある、密接させて造営する必要はない。拝殿を廃し本殿に密着させたのは、神社色を強めるとの意図であろうか。当初設計案で十分意図は達成しているが、現本殿は千鳥破風と唐破風の装飾的な屋根を付加し、脇障子を斜めにし、千木・鰹木を載せる。社殿彫刻は中国の故事を題材とする、国学ではなく儒教である。
氏子の反応は判らない。この江戸末期の風潮に受け入れる素地はあったのであろう。しかし屋根の上に屋根を重ねることは次の建て替えに採用されるだろうか、少なくとも今までのところ模倣はない。











(注)2024年10月撮影
(参考文献)
1. 国京克己「大滝神社本殿及拝殿の普請経過と設計変更時期について」
若越郷土研究66巻1号、2021.
2. 国京克己 「大滝神社社殿と柏原八幡宮社殿ー社殿の類似性と独創性」
若越郷土研究68巻1号、2023.
中津宮本殿は永禄九年十二月(1566)大宮司氏貞が造営した。氏貞は庶子と猶子との間の家督相続を制し大宮司八十代(七十九代?)となった。造営に先立って氏貞は官位の沙汰を乞い、永禄八年(1568)吉田兼右から「中納言は往古より不審、傍例に委すべき」との回答で、宗像氏本流であること表す「正三位中納言大宮司宗像朝臣氏貞」を名乗ることになる。本流最後の当主の誕生である。
中津宮本殿の鰹木は、吉田神社大元宮の鰹木を模した形をとる。大元宮の祭神は宇宙の根元神であるとする虚無太元尊神である。宗像三女神も吉田神道に組み込まれたことの象徴であろうが、中津宮本殿が向き、海上の参道を通して先にある、天正五年(1577)造営の辺津宮本殿ではその置札に「正三位中納言大宮司宗像朝臣氏貞」と書くものの、中津宮本殿の形は模すが、鰹木は大元宮のそれを採らない。




吉田神社大元宮
(注)2023年5月撮影
中津宮本殿の鰹木は、吉田神社大元宮の鰹木を模した形をとる。大元宮の祭神は宇宙の根元神であるとする虚無太元尊神である。宗像三女神も吉田神道に組み込まれたことの象徴であろうが、中津宮本殿が向き、海上の参道を通して先にある、天正五年(1577)造営の辺津宮本殿ではその置札に「正三位中納言大宮司宗像朝臣氏貞」と書くものの、中津宮本殿の形は模すが、鰹木は大元宮のそれを採らない。











(注)2023年5月撮影