「仁科濫觴記」(仁科宗一郎「安曇の古代」柳沢書店1972年の巻末にあり)に、「若宮一王子ノ霊廟ヲモ増営ヲ成サシメ賜イテ若一王子大権現ト奉祭祀ト也」。この「若宮一王子ノ御廟」(若宮一王子は仁品王の長子)は「御所ノ北ナル林中」にあると云う。孝徳天皇の白雉年間(645-654年)である。「仁科濫觴記」が何処まで史実を反映しているかは判らないが、この前半はあたかも「信濃国風土記」の一部のようでもある。後半は続編か。しかし中世この地の在地領主であった仁科氏の存在と関係なしとは出来ないであろう。若一王子を熊野から勧請したのは、承久二年(1220年)仁科盛遠である。この熊野参詣は承久の乱の遠因となっているのだが、神社に伝わる十一観音像は、若一王子の本地仏、平安期の作であるという。仁科氏が若一王子神社にアイデンテティを求めた可能性があるのでは。
本殿は弘治二年(1556年)仁科盛康、と棟札にあるそうである。盛康は武田信玄との攻防に明け暮れ、最後は信玄の麾下に入った。またこの年は仁科神明宮の造替と、戦国の世でも、何があっても若一王子であり、神明宮であったかのように見える。盛康の子盛政で仁科氏は滅びる。仁科氏のアイデンテティを求めた最後となった。この時から両社の大工棟梁は金原氏となったようである。本殿は承応三年(1654年)金原周防定兼により大幅改修されたという。これに先立って仁科神明宮は寛永13年(1636年)同じく定兼により造替が行われている。金原氏はその後も若一王子大権現に関与する。宝永三年(1706年)の観音堂・厨子、また宝永八年(1711年)の三重塔の大工は地元大町の金原氏である。意匠の独特さは健在であった。
(注)2012年9月撮影