一葉一楽

寺社百景

若一王子神社 ー 在地領主のアイデンテティ

2012-12-28 11:04:40 | 神社

「仁科濫觴記」(仁科宗一郎「安曇の古代」柳沢書店1972年の巻末にあり)に、「若宮一王子ノ霊廟ヲモ増営ヲ成サシメ賜イテ若一王子大権現ト奉祭祀ト也」。この「若宮一王子ノ御廟」(若宮一王子は仁品王の長子)は「御所ノ北ナル林中」にあると云う。孝徳天皇の白雉年間(645-654年)である。「仁科濫觴記」が何処まで史実を反映しているかは判らないが、この前半はあたかも「信濃国風土記」の一部のようでもある。後半は続編か。しかし中世この地の在地領主であった仁科氏の存在と関係なしとは出来ないであろう。若一王子を熊野から勧請したのは、承久二年(1220年)仁科盛遠である。この熊野参詣は承久の乱の遠因となっているのだが、神社に伝わる十一観音像は、若一王子の本地仏、平安期の作であるという。仁科氏が若一王子神社にアイデンテティを求めた可能性があるのでは。

                   

                 

本殿は弘治二年(1556年)仁科盛康、と棟札にあるそうである。盛康は武田信玄との攻防に明け暮れ、最後は信玄の麾下に入った。またこの年は仁科神明宮の造替と、戦国の世でも、何があっても若一王子であり、神明宮であったかのように見える。盛康の子盛政で仁科氏は滅びる。仁科氏のアイデンテティを求めた最後となった。この時から両社の大工棟梁は金原氏となったようである。本殿は承応三年(1654年)金原周防定兼により大幅改修されたという。これに先立って仁科神明宮は寛永13年(1636年)同じく定兼により造替が行われている。金原氏はその後も若一王子大権現に関与する。宝永三年(1706年)の観音堂・厨子、また宝永八年(1711年)の三重塔の大工は地元大町の金原氏である。意匠の独特さは健在であった。

                                     

                                          

(注)2012年9月撮影


浄念寺 ー 江戸・鯖江そして村上

2012-12-19 16:19:00 | 寺院

元禄二年(1689年)、芭蕉と曽良が村上に着いたのは新暦で8月13日であった。肝心の松芭蕉は「此の間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事を記さず」(「奥の細道」)の状態であった。曽良はその「旅日記」に「七月朔日朝之内、泰叟院ヘ参拝己ノ尅、村上ヲ立」とある。この時村上藩の最盛期で、榊原式部大輔政邦であった。泰叟院が浄念寺となったのは何時か分からない。榊原政邦が姫路に移封となった後、本多家、松平家、そして享保二年(1717年)間部詮房が失脚し、高崎からこの村上に移ってきた。詮房の死後間部家は鯖江に移る。内藤家が入ってきたのは享保五年(1720年)である。浄念寺の現在の本堂は文化15年(1818年)、間部詮房の100回忌に合わせて建て直された。鯖江間部家と村上内藤家が江戸を介して関与したようである(後藤治:日本建築学会計画系論文集1994年)。

                                       

                              

棟札によれば、大工棟梁は村上の板垣伊兵衛、脇は板垣作太夫。伊兵衛は山車の屋台彫刻に技術を持っていたようである(水野耕嗣:日本建築学会大会学術講演会梗概集1993年)。本堂そのものは、装飾の少ない土蔵造であるが、唐破風の向拝は、彫刻多く木造本堂と変わらず、統一感に欠く。江戸設計、村上施工とは云え、向拝部分は全く地元の板垣伊兵衛ではなかったか。これを地方色というのであろうか。

         

(注)2012年6月撮影


講安寺 ー 江戸の実用主義

2012-12-17 10:46:06 | 寺院

旧岩崎邸、維新前は榊原式部大輔の屋敷、とは無縁坂を挟んで講安寺は小じんまりと伽藍を構える。「御府内寺社備考」によれば、創建は慶長11年(1606年)、大名屋敷に囲まれた現在地に移ったのは元和2年(1616年)とある。今の土蔵造の本堂が再建されたのは、欄間墨書によれば寛政元年(1789年)である(「東京都の近世社寺建築」)。瓦屋根、土蔵造が奨励されたのは享保五年(1720年)であるが(「徳川実紀」)、延享二年(1745年)・宝暦10年(1760年)・明和九年(1772年)と大火が続く。明和の大火の時には、講安寺の近くの湯島天神も被災している。講安寺も延焼したのであろうか。

                

伝統の木造本堂を捨て、装飾も殆どなく実用に徹した土蔵造である。人が集う仏堂としての性格より、防火が前面に出て、閉鎖的な空間を構成する。小規模の寺院にしか、本堂をも土蔵造にはすることは出来なかったであろう。

                

                   

                

(注)2012年12月撮影


曼殊院 ー 離宮造営のかたわらで

2012-12-06 08:50:51 | 寺院

桂離宮を造営した八条宮智仁親王の子、良尚法親王が現在の一乗寺に曼殊院を洛中(現在の京都御苑内)から移したのは明暦二年(1656年)である。同年修学院離宮も着工している。

           

栗田勇は京の女性を使って「はんなり」と表現している(「石のかろみ」栗田勇著作集 1979年)。寺とは思えない。�達葺、大書院、小書院を結ぶ廊下、そして深い軒と、当時の御所が斯くあったのではないかと思わせる。何故移転したのか、或いはさせられたのか分からないが、日常を変えず場所を変えたいとの意識があったのではないか。朝廷と幕府の軋轢があった頃である。秀吉の息がかかった父智仁親王が、桂離宮の造営にと世情から逃れ、従兄である良仁親王は仁和寺に追いやられているのを見ていたのである。

                   

                      

内部装飾に桂離宮と同じ感性を感じるだけでなく、建物そのものにも、曼殊院に、特に父八条宮による古書院・中書院(創始の頃、森蘊「桂離宮」1956年)の感性と似たものを感じる。桂離宮が夏の蒸し暑さを逃れる別荘であるのに対し、曼殊院が山麓にある寺院との差はあるが。父八条宮の桂離宮は、兄八条宮の桂離宮新御殿と曼殊院には継承されているように見える。智忠親王の桂離宮は、その意匠に現代性が見出されたが、良尚法親王の曼殊院は如何。もっとも伝統として現代まで継続されてきたか否かは別問題である。

(注)2011年3月撮影