一葉一楽

寺社百景

石上神宮 ー 天神庫(あめのほくら)

2019-06-24 10:28:44 | 神社
現拝殿は鎌倉前期の建築、楼門には文保二年(1318)との棟木墨書がある。また本殿は大正二年(1913)建立で、それまでは本殿はなかったと云われている(奈良県文化財保存事務所編 「国宝石上神宮拝殿重要文化財同楼門修理工事報告書」奈良県教育委員会 1987)。拝殿・楼門のない鎌倉以前の姿は、延喜式巻三臨時祭の「凡石上社門鑰一勾。匙二口。納官庫。臨時祭在前。遣官人。神部。ト部各一人。開門掃除供祭。自餘正殿忸伴佐伯二殿匙各一口。同納庫不得輙開。」との記事がある。また「大和志料」記載の「神宮略記」に「上代ハ高庭之地ノ前ニ御門ヲ立テ・・・」、「振神宮略抄」には「神府(亦曰神庫)者昔ハ高庭之地ノ左右ニアリ・・・」とあるが、延喜式にある「正殿」の文字がない。「正殿」は「拝殿」の前身であった可能性も考えられる。即ち門のなかに、東西神庫に挟まれた正殿があり、その背後には祭祀跡、布留遺跡の一つとしての、があるという姿である。文明二年(1470)の拝殿檜皮葺修理の棟札には仮殿を造り遷宮を実施と、当時実質本殿の扱いをしていたようである。
日本書紀垂仁天皇八十七年の条に「大中姫命辞びて曰さく「吾は手弱女人なり。何ぞ能く天神庫に登らむ」。五十瓊敷命の曰さく「神庫高しと雖も、我能く神庫の為に梯を造てむ。豈庫に登るに煩はむや」といふ。」(岩波文庫 1994)。この高床式の倉庫は、正殿のことを云っているのであろうか。
延喜式完成のほぼ一世紀前の、承和七年(841)完成の「日本後紀」に、「此神宮所以異於他社者何。或臣奏云。多収兵仗故也」(延暦二十四年の条)とある。石上神宮を兵器庫との認識である。刀に神性を見出していたのは上古のこと、この頃には事務的に取り扱うようになっていたようである。
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楼門

    拝殿

   摂社拝殿

(注)2019年6月撮影