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寺社百景

長勝寺 ー 菩提寺

2018-02-09 09:43:15 | 寺院
藩祖津軽為信の菩提寺、革秀寺は慶長十四年(1609)創建、弘前城築城の一年前であるが、直後に火災、慶長十五年に修復と伝える。この革秀寺と同様八間取り、且つ仏殿を内部に取り込んだ典型的な曹洞宗本堂が長勝寺である。弘前城下形成の一環としての移転であった。

長勝寺が津軽家菩提寺であったのは長くはない。明暦三年(1657)天台宗報恩寺が寺号・寺領を受けいるところを見ると、この頃には報恩寺が公式の菩提寺になったのであろう。藩主は四代信政(石田三成三女の孫)であったが、幼年のため、信英(家康養女の子)が後見となっていた。親豊臣から親徳川へと表向き切り替わったときである。

庫裏は大浦城台所を慶長十五年に移築したと伝えられてきたが、古材が使われたいたが、裏付ける史料はないようである。寛政六年(1794)建て直したという棟札はあったようであるが(「重要文化財長勝寺庫裏保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会編 2012)。

寛永六年(1629)三門と廻廊が出来上がり曹洞宗寺院としての恰好が整う。三門は伊賀・伊勢、更に出羽・近江の番匠を奉行とし建立している(「重要文化財長勝寺三門修理工事報告書」 1953年)。前年建立の岩木山神社(百沢寺)楼門と、通し柱、詰組とよく類似する。同じ集団による造営であろうか。なお廻廊は昭和二十年(1945)空襲に備え延焼防止のため撤去されている。


   三門

  本堂

 御影堂

  庫裏

禅堂の建立願が出されたのは明和二年(1765)とのこと。これ以前はその有無はわからないが、臨済宗の影響をうけたのか、或いは曹洞宗の僧録寺院としての役割に専念していたのであろうか。嘗ての禅堂、今の蒼龍窟は百沢寺の廃寺に伴い、その仏像で埋まる。

 蒼龍窟