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織田信長が比叡山を焼き討ちする 元亀2年(1571

2011-06-25 00:44:12 | 歴史隠れ話

歴史かくれ話と今日は何の日


2006年09月12日


織田信長が比叡山を焼き討ちする 元亀2年(1571)

ブログ村 歴史ブログ

当時ですら700年以上もの歴史を持つ鎮護国家の大道場・比叡山延暦寺を焼き討ちするとは、部下も思っていなかった。だから、信長から比叡山を焼くように命せられた時は、驚愕であったであろう。明智光秀や佐久間信盛などは、必死になってのぶながを諫めたが、一切聞き入れられなかった。

織田信長が比叡山を攻めたのは、近年激しく対立していた浅井・朝倉両家に比叡山も味方していたからであるという。
根本中堂、社寺堂塔500以上が消失、寺域内にいた3千名以上が、老若男女を問わず一人ずつ斬殺された。

明智光秀が本能寺の変を起こすきっかけになったのではないかとも言われる、信長の狂気の行動である。

⇒比叡山延暦寺周辺の地図(livedoor地図情報)


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(その他の9月12日の出来事)

●嘉吉の徳政令 嘉吉元年(1441)
⇒嘉吉の乱に伴って、出された徳政令。

●石山合戦開戦 元亀元年(1570)
⇒天下統一を推し進める信長に、決して屈しようとしない石山本願寺が抵抗。10年に及ぶ長期戦に。

●加藤嘉明没す 寛永8年(1631)
⇒ちょっと影が薄いけど、賤ヶ岳の七本槍の一人ですよ。

●塙保己一没す 文政4年(1821)
⇒目が見えないから手に書いてもらって字を覚え、膨大な巻数に及ぶ「群書類従」を編纂した超人。


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比叡山焼き討ちについて、光秀が諫めたところ、信長にブチギレされてひどい仕打ちを受けたから、この頃から謀反を考え始めたとかいう話も聞いたことがあります。

しかし、信長公も容赦ないねぇ。奈良の大仏殿焼き討ちしちゃうヤツもいるけど…。


恵美押勝の乱起こる 天平宝字8年(764)

2011-06-25 00:40:02 | 歴史隠れ話
フレパ


歴史かくれ話と今日は何の日

2006年09月11日




恵美押勝の乱起こる 天平宝字8年(764)

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恵美押勝の乱は、一応高校日本史の教科書にも太字で記載されている事件なのであるが、あまり有名ではないので、覚えている人はいないかもしれない。

恵美押勝は、本名を藤原仲麻呂という。父は藤原武智麻呂といって、大化の改新の立役者・藤原鎌足の孫にあたる人物であった。恵美押勝の名前は、淳仁天皇から賜った名前である。

当時は、朝廷内で権力争いが相次いでいた。天平元年(729)には長屋王の変が起こり、藤原氏が権力を一時手中にしたが、藤原家で隆盛を誇った4兄弟が没すると、今度は橘諸兄(たちばなのもろえ)という人物が権力を握る。しかし、必ずしも政情が安定したとは言えず、天平12年(740)には藤原広嗣が九州で乱を起こしている。

のち、藤原仲麻呂が聖武天皇の妻である光明皇太后のもとで権力を握るようになるのだが、やがて孝謙上皇は、僧道鏡を信任するようになる。道鏡は、一時時期天皇の位を約束されるほどに上皇の信任を受けて、大きな権力を握ったため、仲麻呂がこれに反発して兵を挙げたのである。これが恵美押勝の乱。

ちなみに結局、乱は失敗し、仲麻呂は妻子共に斬殺された。


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(この他の9月11日の出来事)

●空也没 天禄3年(972)
⇒口から仏像の像で有名。

●平田篤胤没 天保14年(1843)
⇒江戸後期の国学者。国学といえば、本居宣長なども有名。

●公衆電話第一号機が、新橋・上野駅に設置される。 明治33年(1900)
⇒今や個人で持つ時代ですが…。

●稲荷山古墳から銘文入り鉄剣出土。 昭和53年(1978)
⇒埼玉県にあるさきたま古墳群のなかにある古墳。

●アメリカで同時多発テロ事件発生 平成13年(2001)
⇒ニューヨークのワールドトレードセンタービル2棟やペンタゴン(米国防総省)などにジャックされた飛行機が激突。


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道鏡という男には、巨根伝説がありますよね。孝謙上皇という人は女性なのですが、あまりに孝謙上皇が道鏡をかわいがるので、道鏡がその巨大マラで上皇をとりこにさせたんじゃないかというわけ。なんじゃそりゃ。

しかし、この時期はちょうど権力争いでドロドロしていた時期…。鎌倉幕府初期の権力争いにも通ずるものを感じる…。貴族も武士も結局は、権力によだれを垂らすんですなあ。

比企能員は、源頼朝の乳母である比企禅尼の甥であり、養子である。

2011-06-15 10:53:06 | 歴史隠れ話

歴史かくれ話と今日は何の日

2006年09月02日


比企能員殺される 建仁3年(1203)

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比企能員は、源頼朝の乳母である比企禅尼の甥であり、養子である。さらに、能員自身、頼朝の挙兵以来数々の功のあった男であり、それだけに頼朝の信任も厚く、能員の妻が頼朝の嫡子・頼家の乳母に任ぜられるほどだった。

さらに、能員は自分の娘(若狭局)を頼家の妻とし、しかも頼家の子・一幡を産んでいたから、鎌倉御家人のなかでもその地位は抜きん出ていた。

しかし、出る杭は打たれるのが世の常である。例外ではなく能員も打たれることになる。

初期の鎌倉幕府は、御家人の権力争いの激しい組織だった。力を合わせて平家を滅亡に追いやると、今度は仲間だった者同士で、一番になろうとする。頼朝もこれをまとめきらないうちに死んでしまったから、争いはますます激化していった。この比企能員殺害事件はその中でも初期に起こった事件であった。

能員を討ったのは、北条時政である。時政は頼朝の妻・政子の父親で、まさに能員と権力を二分する地位にいる男だった。もともと能員を出し抜いて、トップに立ちたいという意欲の旺盛な男であったと思われるが、都合よくその機会が転がり込んできた。

それは頼家の病である。病は重く、一時は助からないとさえ思われた。そこで、時政は早急に次の幕府のトップを決めてしまう。通常であれば、頼家には一幡という子供がいるのだから、この一幡が将軍職を継ぐのだが、北条時政は、娘の政子が頼朝の未亡人であることを利用して、関東28ヶ国の地頭職と惣守護職を一幡に、関西38ヶ国の地頭職を千幡(実朝:頼家の弟)に譲ると発表した。将軍権力を2分しようとしたのである。

当然ながら能員はこれに不満を持った。そこで、娘の若狭局を通して奇跡的に病が快癒に向かいかけていた頼家に、事の次第を訴えた。頼家もこれには怒り、ただちに時政を追討するよう命じた。ところが、これを隣室で北条政子に聞かれていた。

政子はすぐに父・時政にこのことを報告。時政は一計を案じた。「頼家の病気平癒祈願のため、名越の北条屋敷で供養を行うから参加してほしい」と能員を呼び寄せたのである。能員の子息らは、「罠に相違ありませぬ」と能員を止めたが、能員は「供養の席で罠もあるまい」と言って、出かけていってしまった。

北条屋敷で部屋に通された能員は、突然天野遠景に抱きつかれて身動きが取れなくなったところを、仁田忠常に刺し殺された。

さらに時政は、これと同時に能員の屋敷に軍勢を派遣しており、若狭局、一幡他比企一族100余名が一網打尽に殺害されたという。

⇒比企一族の墓がある妙本寺周辺の墓(livedoor地図情報)



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(キーワード)

●比企能員(ひきよしかず)

生年不詳。鎌倉時代前期の武将。通称藤四郎。源頼朝の御家人。阿波国出身。

比企能員は、頼朝の乳母をつとめ、伊豆に頼朝が幽閉されている時も傍に付き従った比企禅尼の甥であり、養子である。そして、自分も頼朝の挙兵に参加して、平家追討に尽力した。

頼朝の信頼も厚く、寿永元年(1182)10月に頼朝の嫡子・頼家が生まれると、能員の妻が頼家の乳母に任命されている。能員自身は、主に源範頼(頼朝の弟)に従って、平家追討戦で転戦した。さらに、奥州藤原氏の追討の際には、北陸道大将軍となり、出羽を平定。建久元年(1190)には、出羽で叛乱を起こした大河兼任を鎮圧した。

同年12月に右衛門尉に任じられ、頼朝の側近として大きな権力を得る。

娘・若狭局が頼家に嫁いだため、頼家の舅となり、その発言力はさらに強まったが、これを快く思わない者がいた。北条時政である。

やがて時政は、能員を除く計画を実行に移す。能員が頼みとしている頼家の病気にかこつけて、頼家の弟・千幡(のちの実朝)と頼家の子の一幡の2人へ将軍権力を分断しようとしたのである。能員は当然これを了承しなかった。

そこで、時政は「頼家様の病気平癒祈願」と称して能員を自邸に呼び出して殺害した。
比企一族は、一幡や若狭局も含めて、これに連座してのきなみ殺害されてしまったのである。


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鎌倉時代初期の権力闘争はどろどろしすぎです。特にこの北条時政ってヤツがやることえげつないんだよねぇ。下手すると、こいつさえいなければ、もう少しまとまっていたかもしれないのになあという気さえするほど。あと政子様ね。

頼朝も意外と優柔不断な面があったといいますが、とにかく政子に頭があがらない。これがいかんですよね。政子の親父の時政は、自分の家来のはずなのに、やっぱり政子の地位を利用して大きく出ようとしてくるんだから。
でも、北条一族がいなかったら幕府はどうなっていたんだろう…。

マッカーサーが占領軍として来日 昭和20年(1945)

2011-06-14 19:54:52 | 歴史隠れ話


歴史かくれ話と今日は何の日


2006年08月30日


マッカーサーが占領軍として来日 昭和20年(1945)

ダグラス・マッカーサーは、米陸軍元帥。太平洋戦争開戦時は、極東軍司令官としてフィリピンにいた。
日本は開戦間もなくシンガポール上陸作戦を中心とする南方作戦を展開。マッカーサーはこれの撃滅にあたったが、マッカーサーの軍は訓練の行き届いていない兵が多く、一週間足らずでマッカーサーはマニラから兵を引き、オーストラリアに退くことになる。

この際に、言い残した「アイ・シャル・リターン(私は再び戻ってくる)」という言葉はあまりにも有名で、実際、マッカーサーは昭和19年(1944)にフィリピンを奪回している。

終戦後は連合国軍最高司令官として、昭和20年(1945)のこの日、厚木基地に降り立った。この後、占領軍はおよそ40万人が来日して、マッカーサーの指導のもと、占領政策を実行していく。

まず、9月17日に東京日比谷の第一生命ビルに連合国軍総司令官総司令部(GHQ)を置いたマッカーサーは、日本の「非軍事化」と「民主化」に主眼を置いて占領政策を進めた。そして9月27日にはアメリカ大使館で昭和天皇の訪問を受け、この場で天皇の「先の戦争の全責任を負う。」という発言に深く感銘を受けた。

当時は連合国からは「天皇の戦争責任を追及すべきだ」という声があがっていたが、マッカーサーは、それらの声に反して「天皇制の維持」を掲げて、その後も天皇陛下に占領政策についての意見や助言を求めたのである。ちなみにこの会談の時の記念写真が、有名なマッカーサーと昭和天皇が並んで撮影されている写真である。
陛下は正装で直立であられるのに対し、マッカーサーは軍服姿で腰に手を当て力を抜いた格好で写っている。日本では、戦前、戦中は天皇陛下を現人神として奉っていたので、この写真は不敬であるとされたが、GHQはこれの掲載を許可したため、朝日新聞などがこれを掲載し、当時の人々もこの写真を目の当たりにしたという。

マッカーサーは憲法改正にも取り組み、また、時の首相・幣原喜重郎に、民主化のための五大改革指令を出した。また、極東国際軍事裁判(東京裁判)を開いて、戦犯の裁判を行ったり、農地改革に着手するなど、日本の復興にあたった。

※写真は『実録日本占領―GHQ日本改造の七年』。おなじみ歴史群像シリーズです。相変わらず写真や図も豊富で、解説も読みごたえあり。入門編には最適です。


※こちらはマッカーサーの占領政策は詳述した『マッカーサーの二千日』。上記の「日本占領」と合わせて読めば、占領政策について、マッカーサーについての理解もより深まります。


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●連合国軍総司令官総司令部(れんごうこくぐんそうしれいかんそうしれいぶ)

通称GHQ(General Head quarters of the Supreme Commander for the Allied Powers)。東京日比谷の第一生命ビルに拠点が置かれた。最高司令官は米国陸軍元帥のダグラス=マッカーサー(のちリッジウェイが後任)。「連合国軍」の名を冠しているが、事実上はアメリカ合衆国の単独機関である。

GHQは、最高司令官のマッカーサーを中心として、高級調官にB=M=フィッチ、最高司令官軍事秘書にB=F=フェラーズを配し、参謀長にR=K=サザーランド、以下人事、情報、作戦、補給の各部、さらにその下に民政局や法務局など9つの局を置いた一つの組織で、通常は2千名のスタッフで構成されていたという(一時は6千人とも)。

基本的には占領政策を行うが、目的としているのは日本国の米国への隷属化ではなく、日本の民主化と非軍事化であった。ただし、はじめは連合国による日本の分割統治案も出ていたという(アメリカ、イギリス、ソ連、中国で日本を4分割して占領するというもの)。また、軍政統治案もあったというが、これも予算や準備期間の関係でお流れとなった。ただ、沖縄だけは米軍のアジアの拠点として、沖縄本島の20パーセントほどは今も米軍軍用地のままである。


●五大改革指令(ごだいかいかくしれい)

1945年10月に、連合国軍総司令官であるマッカーサー元帥が時の首相・幣原喜重郎を呼び出して、口頭で伝えた日本民主化のための方針指令。

「五大改革指令」だから、内容も5本の柱で成り立っている。
①婦人参政権の導入による婦人の解放、②労働組合の結成の奨励、③学校教育の自由主義化、④秘密警察などの全廃、⑤財閥、地主制度などを解体し、独占的な経済機構を民主化すること。
以上の5項目。戦後日本の方針はこの指令の中に集約されているといえる。ちなみに⑤については、この後大々的に財閥解体、農地改革が行われていくことになる。


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日本の民主主義化は連合国軍の方針で行われたというわけで、結局あの殺伐とした戦前の軍事国家時代からすっぱり足を洗えたのは、太平洋戦争で敗れたおかげともいえるんですかね。

私なんかは戦争とか嫌いですし、徴兵とかされて行きたくないですから、この流れは歓迎ですが、最近は多少秩序が乱れ始めてきたなあという気もしますね。毎月毎月未成年者の放火とか犯罪とか起こりまくってるしね。

記白村江の戦いで大和朝廷軍が敗れる 天智天皇2年(663)</事のタイトルを入力してください(必須)

2011-06-13 09:54:07 | 歴史隠れ話



歴史かくれ話と今日は何の日


2006年08月27日


白村江の戦いで大和朝廷軍が敗れる 天智天皇2年(663)

白村江というのは、現在の大韓民国の中央を流れる綿江のことである。この河の河口付近で、大和朝廷軍と、唐・新羅連合軍の戦いが行われた。

背景として、まずは朝鮮半島の当時の状況を簡単に整理してみると、まず当時の朝鮮半島には3つの勢力があったことがわかる。すなわち高句麗、新羅、百済である。

はじめ、新羅が高句麗に対抗しようとして、大和朝廷に協力を求めてきたため、大和朝廷は援軍を送って高句麗と戦い、確保した任那国に出先機関として日本府を置いた。
ところが、しばらくして、新羅はこの日本府を潰してしまう。大和朝廷はこれに怒って、今度は百済と組んで新羅と戦う。しかし、新羅は新羅で唐(中国)と結んだため、百済は滅ぼされてしまった。

しかし、百済にも忠誠の厚い遺臣である福信という男が生き残っており、再興を願って大和朝廷を頼ってきた。大和朝廷では、朝鮮半島の背後に立つ巨大な唐の影に危機感を持っていたため、百済再興に力を貸すことにする。

時の天皇は女帝・斉明天皇であったが、渡海を前にして崩御なされた。皇太子だった中大兄皇子は、すぐには即位はせず、皇太子のまま遠征の準備を進めた。周到な準備を重ね、ついに663年3月、2万7千の大軍が朝鮮半島に渡る。

これに対し、唐・新羅連合軍も動く。連合軍の水軍は、8月17日、劉仁軌の率いる170艘が白村江の河口に布陣した。そして、はじめ、半島南部で転戦していた大和朝廷の蘆原君(いおはらのきみ)の水軍が、最初にこれと激突。しかし、旗色は悪かった。万全の状態で待ち受ける連合軍に転戦で疲弊していた大和朝廷軍は苦戦させられたのである。

その後も大和朝廷軍は攻撃を繰り返したが、やがて包囲されて火攻めにあった。決定的な戦闘力の差を見せつけられて日本軍は大敗を喫したのである。

白村江での大敗により、百済にも再興の目はなくなった。やがて新羅は半島南部を統一する。

※写真は『図説韓国の歴史』。朝鮮半島の歴史が豊富な図や写真と、解説でよくわかります。活字の苦手な方には最適。
白村江の記述はほとんどないので、白村江についての本なら↓を。

※『白村江―古代東アジア大戦の謎』という本も、新書なので、値段が安いのが魅力的。私は読んだことないんですが、レビューを見るとそこそこの評価です。日本よりも朝鮮半島の歴史を知りたい人にオススメ。


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(キーワード)

●新羅(しらぎ)

4世紀ごろから10世紀ごろまで朝鮮半島南部に勢力を広げた古代国家。「しんら」ともいう。日本とは戦争もしたが、交流もあった。

成立当初は、北朝鮮の強国・高句麗の従属下だった国だが、6世紀ごろまでにめきめきと勢力を伸ばし、高句麗、百済と共に朝鮮半島の三国時代を形成した。高句麗・百済との抗争に当たっては、大陸の唐と同盟して、660年に百済、668年には高句麗と、一挙に朝鮮半島の覇権を掌握し、統一政権を樹立させた。

8世紀後半から中央貴族の反乱などで弱体化し、地方豪族も自立するようになって、935年に北に成立した高麗に降伏して滅亡した。


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素直に読めば「はくそんこう」ですが、学校では「はくすきのえ」とも読むと習った気がします。当時はそう読んだということなのだろうか…。