偏屈者の世迷言

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ラジオデイズ『壬申の乱―古代日本最大の内乱―(遠山美都男)』を聞いて

2012-06-19 08:44:30 | ちょっと考えたこと

 ラジオデイズ『壬申の乱―古代日本最大の内乱―(遠山美都男)』を聞いた。

 日本書紀をはじめとした史料に基づいて説明されていて、さらにその史料の矛盾や書かれていない空白のことがあるようなところには自身の考えを述べられている。私は恥ずかしいことに日本書紀などの史料にあたることなく歴史を捉えようとしてしまうので、先生の話にはいろいろな発見があった。壬申の乱に興味がある人は是非聞いてもらいたい。

  それで、以下の内容は感想ではなく、遠山先生の話を聞き刺激されて、いろいろと考えたことがあったのでそれを書いたものである。

 

 

 

 壬申の乱というのは672年に起こった、天智天皇の弟である大海人皇子と息子である大友皇子とが争った内乱である。

 遠山先生の話を聞いていて一番疑問に思ったのは、なぜ大海人皇子が戦争を起こしたのか?ということだった。

 通説では、近江の大友皇子の方から排除しようとする動きがあったため、身を守るためにやむなく立ち上がったということになっていた。しかし、遠山先生の話では大海人皇子には皇位継承権がそもそも初めからなく、壬申の乱は大海人皇子が皇位を狙って起こした反乱だったというものだった(かなり話を端折っている。詳しくはコンテンツを直接聞いてほしい)。

 大海人皇子が初めから皇位継承権がなかったというのは通説とは真逆だけれども、それは説明を聞いて納得できた。でも大友皇子の次の大王位は大津皇子か草壁皇子が継承することが、その時代の全体的な合意事項となっていたということは通説どおりの話だった。

 ここで疑問が生じるのである。

 反乱は成功の見込みがほとんどないものだった。自分の息子(大津皇子か草壁皇子)への皇位継承が既定路線だったのならば、それほどの危険を冒してまで決起するだろうか。

 

 日本書紀では、君側の奸を除くことが大海人皇子の反乱目的だったとしているという。「君側の奸を除く」というのは主君に対して反乱を起こす者の常套句であり、本当の理由であったかどうか怪しいところではある。

 しかし、私は意外とこれは真実なのではないかと思っている。

 大友皇子を支えた有力豪族、蘇我赤兄、中臣金、蘇我果安、巨勢人を滅ぼすことが、大海人皇子の一番の目的だったのではないだろうか。

 

 私が壬申の乱の話を聞いていて、共通点があると思った歴史上の出来事が二つある。

 一つが、称徳天皇崩御後の白壁王(光仁天皇)の即位と、その後その後継者と決められていたはずの他戸親王が謀略により死に追いやられた事件。

 もう一つは、1600年の関ヶ原の戦いである。

 大友皇子は、自分を支えてくれている有力豪族たちと結んで既定路線である大海人皇子の子供への皇位継承を反故にして、中継ぎに過ぎないという自らの立場をひっくり返そうとしたのではないだろうか。

 有力豪族たちは、中大兄皇子を支えてきた実力のある大海人皇子(実行部隊として大きな役割を果たしていたのではないだろうか)を排除することで、大化の改新以後、大王家と比して著しく低下した豪族(古代氏族と言ったほうが適当かな)の勢力の盛り返しをはかろうとしたのではないだろうか。

 もし大友皇子が壬申の乱で勝利を収めていたら、有力豪族の助けで勝利することができた以上、再び大王と有力豪族による連合政権という大化の改新以前の体制へと逆戻りすることになっただろう。

 しかし、大海人皇子が勝利した。

 関ヶ原の戦いは徳川家康と石田光成との戦いというイメージが強いが、戦争の意味としては、五大老である毛利氏・宇喜多氏・上杉氏の巨大な所領を大幅に削り(宇喜多氏は取り潰し)、逆に徳川氏は400万石という圧倒的巨大な所領を持つようになって天下を支配できる力を手に入れることができたということである。

 同様に壬申の乱も、最後に残っていた有力豪族を一掃できたということがこの乱の一番の意味だろう。

 これによって「古代」というものが完全に終わったのだと思う。

 以前と以後とでは全く違う社会なのである。法令に関しても、乱の以前から様々なものが出されていたが、以後のものは全く意味合いがことなるものである。

 言ってしまえば、「豪族主権」から「天皇主権」への革命(こういうのを革命と呼んでいいのかわからないが)が起こったのである。ちょっと言い過ぎかもしれないが。

 律令制度(特に班田収授法)の制定は、豪族というものが政権に対して力をもう持たなくなった後の、新たな統治システムづくりを意図して為されたものであろう。豪族たちの談合による政治という、有力豪族個人の思わくが強くはたらくような統治支配ではなく、律令とそれによって規定された太政官という、制度と組織による統治へと移行したことの宣言でもあったのではないだろうか。

 壬申の乱後の律令制定というのは、大王の地位を選定するような豪族がいなくなった事実を、固定化・永続化させるというのが一番の目的であったように思えるのである。

 

 

※6月19日文章修正


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