平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

上醍醐寺・登山道

2009年06月09日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 上醍醐への登山道入り口の女人堂から途中の不動の滝を経て准胝堂まで2.7km、最終目標である上醍醐陵・白河天皇皇后賢子御陵までは約3.5kmあります。 色々な景色とお堂を見ながら・・・というような生易しい道のりではありません。 上醍醐へいくのに笠取山を経由するルートがあります。 これは京滋バイパスの笠取ICから北上し、横嶺峠からの登山道を約1km歩いて上醍醐の五大堂へ通じるルートです。 登山道入り口で入山料600円を払ってひたすら登山。 横嶺峠道通行止めのショックが疲労を誘います。

横嶺峠道は通行止めのため再び女人堂入り口へ 

 

 

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上醍醐寺・准胝観世音菩薩

2009年06月09日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 平成21年は、「花山法皇一千年御忌記念結縁ご開帳」に伴い、5月1日より11月30日まで、醍醐寺開山聖宝理源大師1100年ご遠忌にあわせ、下醍醐・金堂に秘仏・准胝観音像を奉安し、ご開帳を行っています。 上醍醐・准胝堂と秘仏ご本尊は、昨年8月に落雷による火災で焼失しています。 その後、ドイツ・ボンで開かれた寺宝展にも出品された准胝観音像を新たにご本尊として祀り、女人堂から国宝・金堂に移され、5月1日よりご開帳されています。 准胝観音像は像高31.5センチの木像で、江戸期の寛政10年の作とされています。  残念ながら写真撮影は厳禁でした。

書写山円教寺の巡礼道にある准胝観音像

 

 醍醐の花見で知られる醍醐寺には朱雀天皇が父・醍醐天皇の冥福を祈るために建立した五重塔があり、951年に完成して以来兵乱の災も免れて京都最古の建築物となっている。 この寺の子院のひとつである三宝院の殿堂や庭園は豊臣秀吉が造営に関与したものとして名高く、唐門は伏見城の遺構として名高い。1598年に醍醐寺一帯で大掛かりな花見が行われるに際して近畿各地から桜の木を移植させているが、このとき多くの武士たちが二度目の朝鮮出兵を強いられていたという裏面があることも事実である。 実は醍醐寺は一般的にいう下醍醐ではなく、東方の笠取山にそびえる上醍醐から信仰は始まった。 醍醐天皇が907年に醍醐寺を天皇の御願寺としたときに建立されたのが薬師堂で、現在の建物は1124年に再建された。 上醍醐では最古の建物である。 薬師堂からさがったところには観音の霊場である准胝堂(本堂)があり、すぐ下には醍醐水といわれる聖なる泉がある。 この上醍醐に聖宝・理源大師が草庵を建てたのは874年と伝えられており、醍醐寺縁起によって伺える。 ( 上醍醐山上で地主横尾明神の示現によって霊泉・醍醐水を得、小さな堂宇を876年に建立し、柏の霊木から彫った准胝観音像・如意輪観音像を安置したのに始まる。 ) 聖宝は皇族の末裔で、天智天皇の子孫である。最澄、空海のように入唐の経験はないが、人々が認めたものは葛城などでの修行であったようである。 聖宝は修験道の中興の祖ともいわれ今日でも醍醐寺は修験山伏の寺としての側面を持っているのはそのためである。  聖宝は理源大師ともいわれ、800年遠忌にあたって醍醐寺が申請して東山天皇の勅によって贈られた大師号であり、修験道の祖である役行者(役小角)と肩を並べるほどに崇められた。少年期の聖宝は東大寺で修行をしたという。 東大寺の鬼神がいるといわれていた室で暮らし、鬼神を退散させたという。聖宝の死2年後に笠取山頂上に開山堂・御影堂が建立され廟の意味合いを持っていたが、兵火で焼けたあと 豊臣秀頼が再建したのが現在のものである。 

醍醐寺・西大門

 

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柳原政房・政祐墓所

2009年06月08日 | 陵 古墳 墓 遺跡

  江戸時代慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の主力となった秀家は八丈島に流刑となり、宇喜多家は改易となると、代わって小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として入城した。 秀秋は本丸中の段を拡幅し、三之丸の外側に15町余の外堀を掘り三之外曲輪の整備をして城下町の拡大を行った。 慶長六年には、中の段南隅に沼城天守を移築したとされ、これは大納戸櫓と呼ばれ、岡山城最大の櫓で二層の大入母屋造りの上に望楼を乗せた形式の三層四階の櫓であった。 秀秋は2年後の慶長7年(1602年)10月に岡山で急死し、嗣子がなく小早川家は断絶した。  慶長8年、備前28万石は姫路城主池田輝政の次男忠継に与えられたが、幼少(五歳)であったので兄の利隆が「備前監国」として代政し、「石山」の西端の西之丸を整備したと言われている。 慶長18年(1613年)に忠継は岡山城に入ったが、慶長20年(1615年)に死去した。  1615年、忠継の弟・忠雄が淡路島より31万5千石で入封し、 本丸中の段を大幅に北側に拡張し、本段の御殿に加え新たに表書院も設けている。また大手の南門を造り替え、岡山城の縄張りが完成する。 月見櫓はこの頃の創建とされ、中の段の北西角の隅櫓で一部地下付き、本葺き、総白漆喰塗籠の壁仕上げの二階建てである。 三之曲輪の内の南半分は小早川氏時代の武家地であり、三之外曲輪は武家地、外堀を隔てて寺町や下級武士の屋敷や町人町がさらに広がっていた。  寛永9年、(1632年)忠雄の子・光仲が鳥取へ転封し、入れ代わって鳥取から池田光政が31万5千石で入封した。 利隆の子である光政は、姫路城で生まれたが、父の死後元和元年(1615年)に鳥取城主となり、幕末まで光政系池田氏の居城となる。 光政は土木事業に積極的で、百間川の整備が行われ、1687年、光政の子・綱政により14年の歳月をかけて後楽園が造営される。

  

土田弥平次  
 ┣  
生駒吉乃1528-1566
  ┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死
 ┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難 
 ┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)
 ┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
 ┃┣森可隆1552-1570
 ┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃   ┣- 督姫(家康次女)
 ┃┃┏━━娘  ┣池田忠雄1602-1632
 ┃┃┃     ┣池田忠継1599-1615 榊原忠次1605-1665(姫路藩主)
 ┃┃┃     ┣池田輝澄1604-1662   ┗榊原政房1641-1667(姫路藩2代)
 ┃┃┣━━池田輝政1565-1613(姫路城主)   ┣榊原政倫1665-1683(姫路藩3代)
 ┃┃┃     ┣池田利隆1584-1616  ┏富幾  ┣榊原政邦1675-1726
 ┃┃┃  中川清秀娘・糸姫┣池田光政1609-1682 鍋島娘┗榊原政祐1705-1732(養子)
 ┃┃┃          ┣池田恒元1611-1671     ┗榊原政岑1713-1743(養子)   
 ┃┃┃     柳原康政娘・鶴姫(徳川秀忠養女)
 ┃┃┃
 ┃┃┃
 ┃┃┣━━池田元助1559-1584
 ┃┃┃
 ┃┃┃ 片桐半右衛門娘
 ┃┃┃  ┣-
 ┃┃┣━池田長政1575-1607(母:荒尾善次娘 犬山城にて生)
 ┃┃┃  ┣池田長明1606-1678(伊賀守)
 ┃┃┃加藤嘉明娘┣長重 
 ┃┃┃     ┣長久1645-1697
 ┃┃┃     妾 ┣長喬1676-1723
 ┃┃┃      香昌院 ┣長處1696-1754
 ┃┃┃         峯松院 ┣長仍1725-1796
 ┃┃┃             妾 ┗長玄1741-1814
 ┃┃┃                 ┗-
 ┃┃┃
 ┃┃┣━━若御前   菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
 ┃┃┃日秀┣-      ┣
 ┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
 ┃┃┃三好吉房1522-1600
 ┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃                    ↑
 ┃┣森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 【小牧長久手戦】
 ┃┗森忠政1570-1634
 ┗━━━━━━┓              ↓
        ┣2織田信雄1558-1630(本能寺の変時に伊勢に撤退 宇陀松山藩初代)
        ┃ ┃┣高長1590-1674(宇陀松山藩2代藩主)   
        ┃ ┃┃ ┣長頼1620-1689(宇陀松山藩3代藩主)  
        ┃ ┃┃富田氏      ┣信武1655-1694(宇陀松山藩3代藩主)
        ┃ ┃久保三右衛門娘  津川氏   
        ┃ ┣秀雄1583-1610(亀山城主 関ヶ原合戦で西軍)   
 ┏織田信広-1574┃北畠具教娘(千代御前) 
織田信秀    ┣徳姫(見星院)1559-1636 
1510-1551    ┃  ┣登久姫                  毛利輝元娘
    ┃          ┃  ┣熊姫 ┏━━5勝長-1582岩村城主 二条御所で討死┣-  
   ┃          ┃徳川信康 ┃┏━4羽柴秀勝1568-1586(母不祥)丹波亀山城で病死 
   ┃          ┃     ┃┃┏3信孝1558-1583(母坂氏)伊勢神戸氏継ぐ 四国征伐
  ┗織 田 信 長1534-1582

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書写山円教寺塔頭・十妙院

2009年06月08日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 書写山円教寺塔頭十妙院は、第106世長吏実祐の住房で、実祐を中興第一世とする。 1558年に十妙院の勅号を賜っている。 本尊は、千手観音で、脇侍は毘沙門天、将軍地蔵である。 塔頭寿量院と左右逆ではあるが、ほとんど同じ平面構成である。寿量院とともに、圓教寺独特の塔頭形式を持つ。なお方丈部の室には、狩野永納(1634-1700)筆の襖絵があり、山水図、唐人物図、花鳥図が措かれている。 狩野永納は江戸時代狩野派の画家・京狩野派の一人で、狩野派の大御所狩野永徳の筆頭門人で、秀吉に仕え、秀吉の命により狩野山楽の養子となった。狩野山雪1589-1651は父にあたる。 

 

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三室戸寺・千手観世音菩薩御開帳

2009年06月07日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 「覚醒 観世音菩薩 慈悲の心」 これは西国三十三所結縁御開帳を行うにあたっての意義書だそうです。 この行事は、西国霊場各御寺院のご本尊を平成20年9月より平成22年5月末までの間に、順次御開帳するというものです。 ここ三室戸寺では、 西国巡礼中興の祖花山法皇の一千年御遠忌を迎えるに当たり、 千手観世音菩薩立像を84年ぶりに御開帳しており、本堂前には回向柱が立てられておりました。 千手観世音菩薩立像は二臂でありながら「千手観音」と称されています。

  

 

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三室戸寺にて、高石ともやさん

2009年06月06日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 2008年が西国巡礼の中興者とされる花山法皇の一千年忌にあたることから、2008年から2010年にかけて、西国三十三所の全札所寺院にて札所本尊の「結縁開帳」が行われることとなった。 西国十番目の三室戸寺では本尊・千手観音像が2009年10月1日 - 11月30日に開扉されることになった。 これは前回開扉(1925年)以来84年ぶりの公開なのである。 ということで、早速三室戸寺を訪れた。 84年ぶりに姿を現した千手観音立像のことは次に紹介するとして、本日6月6日は高石ともやさんが、本堂前にて西国巡礼ミニコンサートを決行していましたので、その様子です。

 

 

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三室戸寺・千手観世音菩薩立像

2009年06月06日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 三室戸寺本堂に祀られている本尊・千手観世音菩薩像は、厳重な秘仏で、本尊厨子の前に立つ「お前立ち」像は飛鳥様式の二臂の観音像で、二臂でありながら「千手観音」と称されている。 1460 - 1466年の火災で失われたが、胎内に納められていた一尺二寸の二臂の観音像は無事であったという。 天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇)は、毎夜宮中に達する金色の霊光の正体を知りたいと願い、右少弁・藤原犬養なる者に命じて、その光の元を尋ねさせた。 犬養がその光を求めて宇治川の支流志津川の上流へたどり着くと、滝壺に身の丈二丈ばかりの千手観音像を見た。 犬養が滝壺へ飛び込むと1枚の蓮弁が流れてきて、それが一尺二寸の二臂の観音像に変じたという。光仁天皇がその観音像を安置し、行表を開山として創建したのが当寺の起こりで、当初は御室戸寺と称したという。 その後、桓武天皇が二丈の観音像を造立、その胎内に先の一尺二寸の観音像を納めた。 

 千手観音は十一面四十二臂が一般的である。 四十二臂の意味については、胸前で合掌する2本の手を除いた40本の手が、それぞれ25の世界を救うものであり、「25の世界」とは、仏教で言う「三界二十五有」のことで、天上界から地獄まで25の世界があるという考えである (欲界に十四有、色界に七有、無色界に四有があるとされる)。 ちなみに「有頂天」とは二十五有の頂点にある天上界のことである。

 2008年が西国巡礼の中興者とされる花山法皇の一千年忌にあたることから、2008年から2010年にかけて、西国三十三所の全札所寺院にて札所本尊の「結縁開帳」が行われることとなった。 三室戸寺本尊の千手観音像は2009年10月1日 - 11月30日に開扉されることになった。 これは前回開扉(1925年)以来84年ぶりの公開である。

 

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瑞光院休憩所にて

2009年06月05日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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松平直基の墓所

2009年06月05日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 松平直基は、越前松平家初代1604年、徳川家康の次男・結城秀康の五男として生まれる。 越前勝山藩3万石、越前大野藩5万石、山県15万石と加増を受け、1648年、姫路に国替えを命じられたが、そのわずか2ヶ月後に姫路に赴く途上で死去した。 後に直基の子・直矩が姫路城主になってからの1670年に書写山に墓所を作った。

 

 

松平広忠━━徳川家康1543-1616 ┓幼名:竹千代 徳姫(信長・長女)1559-1536 
   ┏━━━━━━━━━━━┛               ┣登久姫 1576-
   ┃                                      ┣熊姫  1577-
正室・篠山殿━┳長男・松平信康(1559年 - 1579年)(母:築山殿)       
正室・朝日姫 ┣長女・盛徳院 (1560年 - 1625年)(母:築山殿)
側室・お津摩 ┃ 
側室・お万  ┃ 
側室・小督局 ┣次男・結城秀康(1574年 - 1607年)(母:小督局)
       ┃    ┣松平忠直1595-1650   (母:中川一茂娘・清涼院) 
       ┃    ┣松平忠昌1598-1645   (母:中川一茂娘・清涼院)
       ┃    ┣松平直政1601-1666   (母:三谷氏・月照院) 
       ┃    ┣松平直基1604-1648   (母:三好長虎娘・品量院) 
       ┃    ┃ ┣松平直矩1642-1695
       ┃    ┃堀氏 
       ┃    ┗松平直良1605-1678   (母:津田信益娘・長寿院)
側室・西郷局 ┣三男・徳川秀忠(1579年 - 1632年)(母:西郷局)━━┓幼名:長松
       ┣四男・松平忠吉(1580年 - 1607年)(母:西郷局)  ┃
       ┗次女・良正院 (1565年 - 1615年)(母:西郡局)  ┃
                                                         ┃ 
     ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 
正室・於江与の方━┳千姫(天樹院):豊臣秀頼室、のちに本多忠刻室
母は信長の妹お市 ┣徳川家光 三代将軍 福・春日局に養育 幼名:竹千代 
         ┗徳川忠長                            

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2009年06月04日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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室生寺 太鼓橋

2009年06月04日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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興福寺・不空羂索観音菩薩坐像

2009年06月03日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 興福寺の南円堂には不空羂索観音菩薩坐像が納められています。 1189年慶派の仏師・康慶によるもので手に持つ羂索によって一切の衆正を漏れなく救済し、空しさを取り去るというものである。 日本に現存する仏像は、ほとんどが一つの顔と8本の手、眉間に三つ目の眼を持つ一面三目八臂像である。 手には羂索を持ち肩に鹿皮を着けるのが特徴である。 東大寺三月堂の本尊も代表的な不空羂索観音菩薩である。その他の特徴として印相は合掌手、開敷蓮華・錫杖を持ち、阿弥陀仏を埋め込んだ宝冠を被っている。(写真は円教寺巡礼の道にて)  

 

興福寺南円堂 不空羂索観音菩薩坐像(小学館古寺を巡るより)

 

 興福寺南円堂は813年、藤原冬嗣が父・内麻呂追善の為に建てられたもので、 基壇築造には和同開珎や隆平永宝が撒かれたことが発掘調査で明らかにされ、また鎮壇には弘法大師が係わったことが諸書に記されている。 不空羂索観音菩薩像を本尊とし法相六祖像、四天王像が安置されている。 興福寺は藤原氏の氏寺であったが、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、その祖である内麻呂・冬嗣ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めた。その不空羂索観音菩薩像が身にまとう鹿皮は、藤原氏の氏神春日社との関係で特に藤原氏の信仰を集めたという。 南円堂は毎年10月17日の大般若経典読会の際に特別開扉される。 

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円教寺・摩尼殿と本尊・六臂如意輪観音坐像

2009年06月02日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 摩尼殿は懸け造りを踏襲したもので1921年の火災後の1933年に再建されたものである。 「摩尼」とは梵語で「如意」のことをいい、本尊は六臂如意輪観音坐像である。 性空上人910-1007が拝した六臂如意輪観音坐像 (性空上人が弟子の安鎮に命じて彫らせたもの) は1492年の火災で焼失し、摩尼殿の再建とともに製作された。 平安時代から伝わる四天王立像とともに秘仏で、毎年1月18日の修正会に開扉される。 実は堂内奥の厨子にはもう一躯の秘仏を安置しており、何百年も開扉されなかったが性空上人の千年遠忌の2006年に特別開帳された。 これは鎌倉前期1239年の仏像で当初の本尊の姿を伝えるものであることが確認された。 ところで、2009年5月31日、5年ぶりに円教寺を訪れると、摩尼殿の内陣から1933年作の六臂如意輪観音坐像と四天王立像を拝観することができました。 やはり内陣での写真撮影は禁止でした。

 性空上人は、平安中期の910年に、橘善根の次男として京都に生まれた。 幼い頃の上人は、人と交わるよりも静かな所で1人で遊ぶのが好きな少年だったという。10歳の時に法華経を習い、密かに出家を志したが、貴族である橘氏の復権を願う両親はこれを良しとしなかった。 したがって、出家を許された時には、既に36歳になっていた。 出家した上人は、まず比叡山に上り、慈恵大師・良源に従事して天台教観を学んだ。上人は、僧としての栄達よりも、大衆教化に生きる聖の道を選び、修験の山として知られる九州の霧島山・背振山に20年余り籠って修行を続けた。 そして、康保3年(966)、上人は、新たな修行の地を求めて姫路市の書写山に入山し、山内の西の谷に草庵を結んで修行の日々を送った。  上人の徳と名声は、やがて、都にまで届くようになった。上人は、寛和2年(986)頃に再々訪れた花山法皇から「圓教寺」の寺号を授かった。そして、永延元年(987)、三間四面の講堂が完成し、比叡山から名だたる高僧を招いて落慶法要が営まれるなど、現在の圓教寺の基礎となる数々の堂塔が整えられていった。 この頃、圓教寺を訪れる人は引きも切らず、圓教寺は華やかな光の中で輝いていた。 その中にあっても、上人は、権勢や栄華を誇る人々との交わりを避けて慎ましい日々を送りたいと思っていた。そのためか、上人は、長保2年(1000)に書寫の北方の草深い里に草庵(弥勒寺)を建てて隠棲し、聖の心を失わずに、ひたすら信仰と修行の道に生きたという。  その7年後、上人は、自らの死期を悟り、寛弘4年(1007)3月、高身に「明日、生身を棄てる」と告げ、言葉通り翌日に98歳で入寂、聖としての生涯を終えた。

摩尼殿                      六臂如意輪観音坐像(巡礼の道に立つ)

 

1933年の六臂如意輪観音坐像   (古寺を巡るより抜粋)   1239年の六臂如意輪観音坐像

 

 六臂つまり六本の腕を持ち、印相は思惟手、その他の手には宝珠・宝輪・宝塔などを持ちます。 頭には宝冠を被り、足は両足の裏を合わせる輪王座。 鎌倉前期の六臂如意輪観音坐像がまとっている衣と懸裳は截金文様(きりかね)をほどこす、いわゆる皆金色(かいこんじき)の表現である。

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2009年06月02日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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本多家廟屋・十一墓碑

2009年06月01日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 書写山の大講堂横に「本多家廟屋」として十一基の墓碑が土塀に結界されて祀られている。 西岸院殿忠勝公、大乾院殿忠政公、法輪院殿政朝公、高松院殿政長公、徳崇院殿忠国公は立派な宝形造りの廟屋内に五輪の石塔で祀られています。 忠勝公の廟屋横にある大きな五輪の塔に祀られているのが本多平八郎忠刻公とその子幸千代君の墓碑で、他には大谷三兵衛政明(政朝の伴)、宮本三木之助(忠刻の伴)、宮田角兵衛(三木之助の伴)、岩原牛之助(忠刻の伴)の切腹殉死者の墓碑がある。 

 

本多忠高?-1549     
 ┣本多忠勝1548-1610(本多宗家初代)       
 ┃   ┣小松姫1573-1620(母:乙女 真田信之室)   
上村氏義娘┣もり姫(奥平家昌室)  
     ┣本多忠政1575-1631(母:阿知和右衛門娘 本多氏藩主 姫路城主) 
     ┗本多忠朝1582-1615┣本多忠刻1596-1626(室は徳川秀忠娘・千姫)  
       ┣本多政勝   ┣本多政朝1599-1638(室は本多忠朝娘)┗勝姫,幸千代
       ┗千代      ┣本多忠義1602-1676(室は森忠政娘)┗政長1633-1679(宗家5代) 
                ┣国姫               ┗忠国1666-1704(養子)
                ┣亀姫                ┣忠孝1698-1709
           松平信康娘・熊姫               池田綱政娘

   

   

  

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