平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

当尾・浄瑠璃寺

2009年06月20日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 当尾の郷に浄瑠璃寺があります。京都でありながら奈良の雰囲気のある祈りの郷にふさわしいお寺です。 笠置街道には岩船寺、東小田原寺、西小田原寺、鳴川山寺、中川寺が沿って立ち並び、西小田原寺が後に名を変えたのが浄瑠璃寺です。 このあたりは小田原聖といわれる修行僧たちが修行をしていた土地で、修行僧は庶民に信仰を広め、浄財を募って石仏や石塔を立てたので一帯では多くの石仏が楽しめる。 西小田原寺に本堂が造られたのは1047年、9体の阿弥陀如来像がつくられたのは1107年である。 その後興福寺の僧侶・恵信が寺の興隆に尽力し境内の池や庭を整備し1178年に三重塔が移築され、現在の浄瑠璃寺ができあがった。 浄瑠璃世界は西方極楽浄土に対して、薬師如来が東方に司る浄土のことで、三重塔の中には秘仏としての薬師如来が安置されている。 池を隔てて三重塔の反対側には本堂・阿弥陀堂がある。 つまり東の薬師如来に対して西の阿弥陀如来を配したのは浄土形式といわれる伽藍で平安時代の特殊な形式である。 阿弥陀浄土への憧れが強まり、末法にはいるといわれた藤原中期以降には、天災や異変が続き、祈りが続けられた。 現世を満月にたとえた藤原道長は法性寺を建て、その息子・頼通は宇治の別荘を平等院と名づけ阿弥陀堂を建立した。 鳳凰堂である。 ここ浄瑠璃寺もこのころに建てられたものなのである。  阿弥陀堂・本堂には9体の阿弥陀如来座像が安置され拝観することができる。 当時数多くの9体阿弥陀如来像が作られたが、唯一の遺物が浄瑠璃寺にある。

浄瑠璃寺への参道両脇には馬酔木でいっぱいで、本日はバスガイドさんの研修があったようです。

 

 

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日本最古の醍醐寺五重塔

2009年06月19日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 

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浄瑠璃寺・三重塔

2009年06月18日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 

 

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大津皇子二上山墓

2009年06月17日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 大田皇女は鸕野讃良皇女(後の持統天皇)の姉にあたり、鸕野讃良皇女が草壁皇子を生んだのに対して、大田皇女は大津皇子を産んでいます。 草壁皇子と同じ年の大津皇子は人望溢れ、将来有望視されていましたが、早くに母をなくし、その人生は暗転します。 草壁皇子を溺愛する持統天皇は後に、謀反の罪で大津皇子を排除し、自害に追い込むます。 前々から是非訪れたいと思っていただけに、標高約520mの二上山雄岳山頂までの登山は一苦労しましたが達成感はひとしおです。

  壬申の乱の戦後処理が終わった676年、朴井連雄君が遣新羅大使に任ぜられた。時の新羅王は文武王である。ところが、朴井連雄君は脳卒中で倒れ、後任に物部連麻呂を指名した。 この頃、壬申の乱の功績者が続々と亡くなっている。朴井連雄君の死に際しては、天武は内大紫という26階級中5位という高位を与えている。 それに比べると物部連麻呂は19位の大乙上であり、朴井連雄君に代わって 遣新羅大使となるにはあまりにも位が低かったが、元大友派としては仕方がない。 しかし、物部連麻呂の遣新羅大使としての仕事ぶりは群を抜いており天武に好評を得たようである。 これにより物部連麻呂は貴族達に一目を置かれる存在になていくのである。 天武は能力主義を貫いている。 たとえ壬申の乱時に大友皇子側であったとしてもである。 中臣連大嶋は中臣連金の甥であったが、博学であったがゆえに神祇次官に任じて重用している。 物部連麻呂が大山中に昇進したのは679年、40歳の頃である。 大山中は26階級中14位で、貴族の最下位・小錦下のすぐ下にあたるから貴族になるのもすぐに迫っていた。 落ちぶれた物部の末裔が、壬申の乱に敗れた後に、ここまで上がるのは並大抵ではない。しかも物部連麻呂は娘を藤原朝臣不比等に入れている。  679年、天武は吉野で盟会を行った。 異母兄弟である草壁、大津、高市、川島、忍壁、施基皇子を集め、天皇の命に従い助け合うように誓約させている。 長子は高市皇子であるが、母が筑紫の宗像氏で有力豪族でもなんでもない。 従って皇后が生んだ草壁皇子が皇太子となった。  しかしこの頃から皇子達の間にお互いに競争相手視する意識が強まったともいえるのである。というよりも草壁皇子を溺愛する皇后の他の皇子に対する牽制が目に余ったためか・・・。皇后が人望のある大津皇子を恨み、それが表面化したとも考えられる。 草壁皇子は病弱であり凡庸である。次の天皇になる器ではなかった。皇后が苛立つのも無理はないが、天武天皇が亡くなれば皇太子草壁が天皇になるであろうが、皇后が亡くなれば、天皇は草壁から皇太子の位を剥奪し、大津皇子に与えるであろう。反発するものもほとんどいないであろう。 天武と皇后の間には間違いなく亀裂がはいっていると物部連麻呂は感じていた。 亀裂は草壁皇子の問題だけではなく後宮の女人に次々と手をつける天武に対する皇后の気持ちを推し量れば容易に理解できる。 なにしろ壬申の乱の際に吉野を脱出して夫とともに桑名までいった皇后はまだ28歳であったからである。 この頃、物部連麻呂は石上神社の巫女であった振姫という女性を後宮にいれている。思ったとおり彼女は侍女となり皇后に仕えると、定期的に物部連麻呂に皇后の心境などを報告している。それによると朝廷が分裂ぎみであるというのである。 天皇の大津皇子への寵愛ぶりにより官人が迷い始めているという。 これに対して皇后は草壁皇子の補佐役として無位の大舎人・中臣連史をつけた。 大織冠・藤原鎌足の子で後の藤原朝臣不比等である。鎌足は先の天皇・天智の片腕として蘇我入鹿を倒し蘇我本宗家を滅ぼした。 この大化の改新という革命は彼がいなければなし得なかった。そして天智は鎌足に安見児と鏡女王の二人の女人を与えた。 当時安見児は天智の子を身篭っており、それが不比等であると考えられている。生まれた史は天智に似ており、壬申の乱の前に史は山科の田辺史大隈の家に移されたことも噂を広げた原因である。 物部連麻呂は振姫を通じて皇后が史の出生の秘密を知っているのを掴んだ。このとき物部連麻呂は天武と皇后のどちらにつくかが自分の将来を大きく左右されるのを知った。 681年、物部連麻呂の努力が報われる。とうとう貴族である小錦下に任ぜられたのである。同時期に貴族になったのは柿本臣猿、粟田臣真人、中臣連大嶋、高向臣麻呂といった蒼々たる連中がいた。貴族になると邸宅の敷地はこれまでの10倍になり、10人以上の従者が国からの給料付で与えられる。 この頃、天武と皇后の亀裂はさらに広がりを見せた。 天武が大津皇子に政治の一端をまかせるようになったからである。天武は草壁皇子の位を浄広壱、大津皇子を浄大弐とし、一位の差をつけることにより皇后の気持ちを和らげようとしたが、天武の大津皇子に対する期待感溢れる様子に嫉妬は和らぐはずもなかった。 この年草壁皇子と后の阿閉皇女(後の元明天皇)は軽皇子(後の文武天皇)を産んでいる。 阿閉皇女は天智の娘で母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘で、その母も石川麻呂の娘・遠智姫である。 天武と皇后の間に溝が深まるに連れて天武はやせ細り、太り始めた皇后は政治に対する発言も増し、本格的な都の地として藤原の地を押し始めた。 そして視察に史や物部連麻呂も従った。緊張感が高まる中で一人自由奔放に山中で狩を楽しみ、漢詩を詠むのは大津皇子である。大津皇子と行動を共にするのは天智の子・川島皇子、天武の子・御方皇子、八口朝臣音樫、巨勢朝臣多益須、中臣朝臣臣麻呂など数え切れない。 狩場は大和周辺であるが吉野に通じる竜門岳まで及んだ。 物部連麻呂は振姫を通じて調べたことを皇后に報告する。 668年、天武の容態は悪化し、陰陽師に占わせた結果、草薙剣の祟りであるという。早速飛鳥浄御原宮の宮殿に祀っていた剣は熱田神宮に戻されたが効果は薄く、胃の痛みに喘ぐ天武の声が宮中に響き、侍女も官人も耳をそばだてる。 物部連麻呂は久しぶりに天武を見たがあまりのやつれように叩頭で視線を逸らせた。大津皇子の妃は天智の娘・山辺皇女で20歳になったばかりであるが、ある噂が流れた。 草壁皇子が惚れている若い女人に大津皇子が言い寄っているという。 草壁が大名児と呼ぶその女人・石川郎女は美貌と歌才で有名で、草壁が後宮に入れた蘇我系の女人である。大津皇子は、微妙な立場にあるにもかかわらず大胆な行動にでたことに物部連麻呂は呆れた。 しかも酒宴の席で堂々と詠んだのである。 「大船の津守の占に告らむとはまさしに知りてわが二人宿し」 そしてこの直後大津皇子は一人伊勢神宮の斎宮に行き、姉の大伯皇女に会っている。皇后がなみなみならぬ決意を感じ取った頃、天武は正殿で亡くなり、宮の南に殯宮が建てられた。 物部連麻呂は法官の長として誄に加わったが、これは物部連麻呂が皇后に認められたことを意味する。 そして川島皇子から大津皇子が謀反を企てているとの密告に対して、物部連麻呂は物部氏を率いて大津の屋形を取り囲む。壬申の乱で大将であった高市皇子も皇后側についている。大津皇子の謀反事件はあっというまに終わった。 大津は逮捕されると翌日には死を賜った。 それを知った妃・山辺皇女は大津の死体にすがって殉死したという。大津の狩に従った多くの者も逮捕され、物部連麻呂は彼等の名を皇后に報告している。事件を知らなかった草壁皇子は大津の刑死に衝撃を受けて鬱々とした日々を過ごすのである。気の強い女帝は草壁の回復を信じたが、鬱は続き、天武の長い殯の儀式が終わり遺体が大内陵に葬られた直後に草壁は病床の身となり、半年後に亡くなったのである。

  大津皇子は葛城山の北端にある雄岳、雌岳が並ぶ二上山に、持統女帝の意思により埋葬された。二上山は西方浄土の入り口のようなところで、無実の大津を罠にはめた女帝が祟りに怯えて鎮魂の目的で決めたと考えられる。   大津皇子は死の直前、たとえ姉弟といえども男子禁制の伊勢の斎宮に、姉・大伯皇女に会いにいっています。 目的については諸説があるようです。 伊勢の神の神意を問うためとする説、謀逆の成功を神に祈るためとする説、不成功を予見して姉に別れを告げるためとする説などです。

 

 

わが背子を大和へ遣るとさ夜深けて暁露にわが立ち濡れし

  ただひとりの同母姉である大伯皇女は、すべてを覚悟の上で大和へ還らなければならない弟・大津皇子の身を案じながら、明けゆく空にも気がつかずただ朝露に身を濡らしながら立ち尽くす・・・・。

二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が独り越ゆらむ

 二人で行っても寂しくて越えがたい秋山を今頃どの様にしてあなたは一人で越えているのであろうか・・・。  大伯皇女は政治・世間の事もわからないあまりに小さく隔離された世界に住み、彼女の視点は低く視野はとても狭かった。その限定された思考の中で、大津が皇太子になるのだと当然のように信じていたのです。  大津皇子が死を賜わった時、その妃山辺皇女は狂乱して髪をふり乱し、素足のままで駆けつけ、夫の遺骸の傍らで自害します。 大津が刑死した後、姉大伯は解任されて伊勢から都へ戻ります。 その後十五年、大伯皇女は “自分はなぜ命を捨てても弟を逃がさなかったのだろう”という悔恨、 “山辺は命を捨てて弟を私から奪い取ってしまった”という絶望、にさいなまれ続けたといいます。

うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟世(いろせ)とわが見む

 あとに生き残った私は明日からあの二上山をわが弟と思って眺めよう・・・と詠んだ悲痛の歌です。  

磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありと言はなくに

  磯のあたりに咲いている馬酔木を手折ろうと思いますけれども、手折ったとて、お見せする皇子は、もはやこの世には、おれらませんのに・・・・。

                                  阿部倉梯麻呂
仏教賛成派             ┏ 吉備姫王  ┗ 小足媛624-
蘇蘇我稲目-579?          ┃   ┣ 軽大郎女 ┣ 有間皇子639-   ┓
 ┣ 蘇我堅塩媛?-?        ┃   ┣ 36孝徳天皇(軽皇子)594-654 ┓┛
 ┃ ┃     ┏━━━━━━━━━┛  ┃  飛鳥宮 ┏漢皇子     ┃
 ┃ ┣ 桜井皇子            ┣ 35皇極天皇(宝皇女)594-661 ┃
 ┃  ┣ 炊屋姫(33推古天皇) -628   ┃  ┃板葺宮 (37斉明)       ┃
 ┃  ┃ ┣ 菟道貝鮹皇女573-599大俣女王┃  ┣ 間人ハシヒト皇女628-665  ┛  ┓
 ┃ ┃ ┣ 鸕鶿守皇女  574-    ┣ 茅渟王   ┣ 40天武(大海人皇子)630-686┃
 ┃ ┃ ┣ 竹田皇子571-       ┃       ┃   ┣ 十市皇女648-678     ┃┓                       
 ┃ ┃ ┃ ┗志紀皇女(馬子娘)  ┃          ┃ 額田王631-        ┃┃       
 ┃ ┃ ┣ 小墾田皇女   ━━┓ ┃     ┣ 38天智(中大兄皇子)626-671┛┃     
 ┃ ┃ ┃       息長真手王 ┃ ┃     ┃乳母は蘇我,葛城で育つ ┃┃  ┃                     
 ┃ ┃ ┣田眼皇女┗広姫    ┃ ┃     ┃   ┣ 大友皇子648-    ┃┃  ┛                      
 ┃ ┃ ┣尾張皇子  ┣押坂彦人皇子        ┃ 宅子娘┗葛野王669-705┃┃   
 ┃ ┃ ┗━━━━┓┃        ┃     ┃                      ┃┃                       
 ┃ ┃広子     ┃┃小熊子女?┣ 34舒明天皇(田村皇子)593-641      ┃┃                       
 ┃ ┃ ┣麻呂子 ┃┃┣ 太姫  ┃    ┃ ┣ 古人大兄皇子 622-    ┃┃                       
 ┃ ┃ ┣酢香手姫┃┃┣ 糠手姫皇女-664 ┃法提郎女         ┗ 倭姫王┃        
 ┃ ┣ 31用明天皇┃┃┃   ━━┓      ┣ 蚊屋皇子                 ┃
 ┃ ┃ ┗田目皇子┃┃┃        ┃      ┃                           ┃        
 ┃ ┃宣化     ┃┃┃     ┃     蚊屋采女            ┃
 ┃ ┃ ┗┓    ┃┃┃        ┣ 来目皇子578-                      ┃
 ┃ ┃石姫皇后   ┃┃┃        ┣ 殖栗皇子┏━━━━━━━━━━━━┛
 ┃ ┃ ┣ 30敏達天皇538-585   ┣ 茨田皇子┣ 大田皇女644-667       
 ┃ ┃ ┃     ┣難波皇子  ┃      ┃  ┣ 大伯皇女661-701  
 ┃29欽明天皇509-571┗春日皇子  ┣ 厩戸皇子┃ ┣ 大津皇子662-686   
  ┃  ┃                 ┃      ┃  ┃  ┣ -
 ┃  ┃                 ┃      ┃  ┃ 山辺皇女 
 ┃ ┣穴穂部間人皇女-621   ━━┛     ┃  ┃尼子娘(胸形君徳善娘)
 ┃ ┣穴穂部皇子 -587               ┃  ┃ ┣ 高市皇子654-696
 ┃ ┣宅部皇子 -587           ┃  ┣ 草壁皇子662-689
 ┃ ┣泊瀬部皇子558-(32代崇峻天皇)     ┃  ┃ ┣ 吉備皇女683-707 
 ┃ ┃ 河上娘        ┣錦代皇女   ┃  ┃ ┣ 軽皇子683-707(42文武)
 ┃ ┃    ┏大伴連糠手━小手子      ┃  ┃阿閉皇女661-721(43元明)
 ┗ 小姉君 ┗大伴連囓               ┗ 41持統天皇645-703  

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性空上人が隠棲した草庵・弥勒寺

2009年06月16日 | 平安時代

 書写山円教寺から置塩城跡を経由して、車でほんの近く(北へ8kmほど)のところにあるのは弥勒寺です。 長保2年(1000年)書写山開基の性空上人が隠棲し、草庵を営なんだのが始まりのお寺である。 当時の院である花山天皇が性空上人の徳を慕い、1002年に行幸し、播磨国の国司・巨智宿禰延昌に命じて諸堂を建立させたのが弥勒寺の起源とされる。 本堂は入母屋造・本瓦葺きで、1380年に備前・美作・播磨の三カ国の守護であった赤松義則1358-1427(赤松則祐1314-1372の子)が建立した。

 

 

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神戸の夜

2009年06月15日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 先週神戸・メリケン波止場の対岸に日本最大級の帆船日本丸(約2500トン)と海王丸(約2500トン)と銀河丸(約6200トン)が同時入港しました。 早速、雄姿と夜景を撮りに。 2009/7/3まで停泊し、ライトアップは夜10:00までです。

 

左:日本丸   中央:銀河丸   右:海王丸

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置塩城主・赤松政則

2009年06月15日 | 鎌倉・室町時代

 室町幕府が設立されたのは1336年、建武式目という幕府の基本法が発布されたときである。この時楠木正成は湊川の戦いで戦死し、尊氏は京を奪回して後醍醐天皇を軟禁し神器をとりあげた。実はこの時幕府の将軍の御所は室町にあったわけではなく、三大将軍義満の時に室町御所ができたのである。 幕府は本来東国武士団の政権であり足利氏も東国であったが、幕府軍の中核が畿内の武士であったために京に幕府が置かれた。 建武式目は鎌倉幕府の全盛体制を理想とし、保守的なものであったため、足利直義の政治体制に激しい不満を示した人々がいた。婆沙羅大名がその中核で、高師直という足利家の執事、名門京極氏出身の佐々木導誉、土岐頼遠が代表される。 尊氏の弟で政権を握っていた直義はこれらの横暴に対して土岐頼遠を死罪にしたが、尊氏が寵愛する高師直は抑制できないでいた。天皇家、公家、寺社の訴えに対して直義は高一族を抹殺する決意をした。1349年直義は高師直を評定所に呼び出し暗殺を実行しようとしたが、これは失敗する。師直の弟・師泰はこれを聞いて大軍勢を率いて京に向かうと直義が脱げ込んだ御所を包囲した。要求は直義の執事・上杉重能、畠山直宗の引渡しである。この時尊氏が仲裁にはいり事件は一応解決するが、越前に流罪になった上杉重能、畠山直宗は契約違反により流罪先で殺害され、直義も出家に追い込まれた。義直の養子で 越前局を母に持ち尊氏を実父とする足利直冬も地位を追われて九州に逃亡していたが、勢力を中国へも広げていた。尊氏は高師泰軍団を送り込んだが手ごわく、自ら討とうとする。これに激怒したのは直冬を実子同様に寵愛していた直義である。当時壊滅状態であった南朝側の後村上天皇を見方にし南朝を完全復活させ、これを後ろ盾として反尊氏派・文治派を集めて、若い足利義詮を攻め、京を陥落する。弟・直義との直接対決を避けた尊氏は和議を申し立て高師直、師泰兄弟を出家させたが、その途中で暗殺されている。 今度は上杉重能の養子となっていた能憲の手にかかったのである。  尊氏は近江の佐々木導誉、義詮は播磨の赤松則祐と連携して東西から直義を挟み撃ちにして討とうとしたが、察知した直義は京を脱出して北陸で兵を集めると鎌倉に向かった。尊氏はなんとしても武家政権発祥の鎌倉を陥落させるわけにはいかない。京を留守にするにあたって直義が復活させた南朝側に攻められるわけにもいかない。 そこで尊氏は南朝側に無条件降伏することによって支持を仰ぎ、後村上天皇から直義追討の宣旨を受けた後、鎌倉を攻め直義を降伏に追い込み毒殺するが、この時北畠親房の画策により北朝側の天皇・上皇・皇太子は息を吹き返した南朝側に捕われ、留守番をしていた義詮は京を逃げ出したことによって京は再び南朝側の支配下となった。1352年、北朝の光厳・光明・崇光上皇と直仁皇太子は捕虜として幽閉された。 ところが近江で勢力を立て直した義詮は佐々木・土岐氏の支援を得て再び京を攻め、後村上天皇・北畠親房は敗走し、短い南朝の時代は終わり二度と復権することはなかった。

村上天皇-具平親王-源師房1008-1077
          ┣顕房1037-1094-季房-季則--赤松則景-家範-重則→
         藤原尊子1003-1087(藤原道長娘)
→赤松則村(円心)1277-1350⇔後醍醐天皇1288-1339(鎌倉倒幕の功立てるが冷遇)
  ┣赤松範資 ?-1351円心とともに足利尊氏派
  ┣赤松貞範1306-1374(姫路城基礎築く) 
  ┗赤松則祐1314-1372 
    ┣赤松義則1358-1427(弥勒寺本堂再建)
    ┗有馬義祐-1421 ┣義雅-時勝 
    (摂津有馬氏祖)  ┗赤松満祐1381-1441⇔義教1394-1441(嘉吉の乱)  
              ┣赤松教康1423-1441 幕府軍(山名宗全)追討を受け自殺
              ┗赤松時勝 
      置塩城を築城 ← ┗赤松政則1455-1496(室:細川勝元娘 赤松氏を再興)
                 ┗娘 
                  ┣
                 赤松義村?-1521(置塩城主)
                  ┣赤松晴政1513-1565
                 ┗赤松政元1500-?(上月城主) 

 

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柳生一族の菩提寺・芳徳寺

2009年06月14日 | 陵 古墳 墓 遺跡

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上醍醐寺・五大堂

2009年06月14日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 五大明王を祀る五大堂は醍醐天皇の御願堂として薬師堂とともに913年に創建された。 もともとは如意輪堂のちかくにあったが1608年の復興の際に現在の地に移された。 しかし1932年に焼失し、1940年に再建される。

 

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上醍醐寺・五大明王

2009年06月14日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 上醍醐寺・五大堂に祀られている五大明王の圧巻に触れて、明王の代表である五大明王について記載します。 五大堂で思いつくのは現在の東福寺である法性寺に、藤原道長が1006年創建し、供養を行った話である。 法性寺(平安時代には定額寺)は藤原忠平(880-949 基経の4男)の建立であり、摂関家の氏寺である。 本堂、礼堂、五大堂、南堂、尊勝堂などがあり、958年に火災により大きな被害を受けたが、道長が五大堂を再建した。 五大堂には不動、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉の五大明王を安置する堂である。 この五大明王を本尊として修する五壇法は、良源(慈恵大師912-985)によって広められた。 967年、冷泉天皇の狂気が強まったときには、良源は五壇法の中壇を務め、またその後も円融天皇の病を回復させたことから、名声を博した。 道長は五壇法を篤く信じたようで1008年、彰子の出産間じかに土御門第で行った五壇法の祈祷は「紫式部日記」や「栄華物語」に記されている。  「ほど近うならせたまふままに、御祈りども数をつくしたり。五大尊の御修法おこなはせたまふ。 観音院の僧正、二十人の伴僧とりどりにて御加持まいりたまふ。」  道長の五大堂への信仰は篤く、供養の翌年には五壇法を修し1013年には前年の病気を受けて五壇法を修し、1018年には病の為に十日間以上五大堂に参籠し、頼通の病の時には実資とともに籠もったりもしている。 その後も五大堂で頼通の算賀が行われたり、師通や中宮賢子が五壇法を修するなど、道長一門の祈祷の場として重要な位置を占めた。

-----------------------上醍醐寺・五大明王------------------------

 大威徳明王像は、密教特有の尊格である五大明王の一尊で 西方の守護者とされる。 大威徳明王は阿弥陀如来(西方の位置)、文殊菩薩に対応する教令輪身で、阿弥陀・文殊が人々を教え導くために敢えて恐ろしげな姿をとったものとされる(怨敵降伏などの戦いの仏)。 六面六臂六脚で、神の使いである水牛にまたがっている姿で表現されるのが一般的で、脚が多数ある仏尊は他にほとんど無く、大威徳明王の際立った特徴となっている。  6つの顔は六道(地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界)をくまなく見渡す役目を表現したもので、6つの腕は矛や長剣等の武器を把持して法を守護し、6本の足は六波羅蜜(布施、自戒、忍辱、精進、禅定、智慧)を怠らず歩み続ける決意を表していると言われる。

 不動明王(快慶作)は五大明王の筆頭で、激しく燃えさかる炎(迦楼羅炎)を背後にし、眼光鋭く、右手には「降魔の剣」、左手には「綱」をもち、八大童子などの使者を従えている。 大日如来の化身で、煩悩をかかえ、最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしている。憤怒の相は、我が子を見つめる父親としての慈しみ=外面は厳しくても内心で慈しむ父愛の姿を表現したものであると言われる。 密教の明王像は多面多臂の怪異な姿のものが多いが、不動明王は一面二臂で剣と羂索・鞭を持つのを基本としている。また、その身体は基本的に醜い青黒い色で表現される像容が多い。これはどぶ泥の色ともいわれ、煩悩の泥の中において衆生を済度せんことを表しているといわれる。

 降三世明王は、五大明王の1人で、東方に配され、金剛大日如来の化身であるとされる。  過去、現在、未来の「三世」を降伏するもの、という意味を持ち、貪欲、瞋恚、愚痴の三毒を取り除いてくれる。 強情な衆生を力をもって仏道の入らせるために恐ろしい形相であらわれた姿とされ、その姿は、『降三世成就深密門』にもとづき正面を三目とする三面八臂で、左右第一手で降三世印を結び、第二の右手は金剛杵、左手は金剛戟を持ち、第三の右手は矢、左手は弓を持ち、第四の右手は刀、左手は索を持っている。 左足下に大自在天(シヴァ神)、右足下にその妃である烏摩を踏まえるものが一般的である。

 軍荼利明王は、五大明王の1人で南方に配されている。また、八大明王として祀られる時には「大咲明王」と名が変わる。阿修羅や悪鬼といったあらゆる外敵から人間を守護し、障害を取り除いてくれる。また、歓喜天を支配してもいる。「宝生如来」の変化した姿であり、4つの顔で4本の腕をもつもの、1つの顔で4本の腕をもつもの、1つの顔で8本の腕をもつものなどのバリエーションがある。いずれも、首や手足に赤い蛇がまとわりついており、それは執念を象徴している。

 金剛夜叉明王像 は、五大明王中北方に位置し、天台密教ではこの尊格の代わりに烏枢沙摩明王を祭ることも多く見られ、この尊格だけ金剛という冠称を持ってます。この尊の特徴は特に正面の顔に五眼を持ち、不空成就如来の変化した姿で一切の悪衆生と三世の様々な欲望を起こす心をを清め、速やかに取り除く

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上醍醐陵 白河天皇皇后・藤原賢子

2009年06月13日 | 天皇・皇后陵

 上醍醐陵は桜で有名な醍醐寺から東へ登山道を進んだ上醍醐山頂にあります。 体力のなさを実感しながら歩くこと約3km、頂にある上醍醐寺は、比叡山延暦寺・高雄山神護寺といったお寺と並んで江戸時代まで女人禁制でした。 いずれも密教系の山岳寺院で、厳しい修行に打ち込むのは男性に限定され、それゆえ修行のさまたげとなる恐れのある女性は近づくことができなかったといいます。 陵墓は上醍醐寺のさらに頂に位置し、開山堂の近くにあります。 この陵墓には白河天皇の中宮だった藤原賢子、その娘で堀河天皇の中宮になった媞子内親王、賀茂の斎院になった令子内親王の三人の母子が眠っています。

  白河天皇皇后 藤原賢子・第72代白河天皇中宮の父は右大臣源顕房、母は源隆俊の女隆子。  後三条天皇は藤原頼道の嫡男・師実を呼び、養女賢子を1071年、東宮貞仁親王(白河天皇)に入内させた。 これにより村上源氏の祖・源顕房は宮廷に威勢を誇るようになる。 白河天皇即位に伴い女御となり、翌6年長子敦文親王誕生に伴い中宮となる。 1077年敦文親王を亡くすも、1079年善仁親王(後の堀河天皇)を出産し、ほかに、媞子内内親王(郁芳門院)、令子内親王、子内親王を生んだが病にかかり、三条第にて28歳で崩御する。 鳥辺野にて火葬され、翌年醍醐山頂の円光院にて遺骨を納めた。 賢子を非常に寵愛した白河天皇は、重態に陥った時も宮中の慣例に反して退出を許さず、ついに崩御した際には亡骸を抱いて号泣し、食事も満足に取らなかったという。 これを見かねた権中納言源俊明が、遷幸を勧めると、「例はこれよりこそ始まらめ」と反論した逸話は有名である。 白河天皇の嘆きは一方ならず、1086年円光院を建て遺骨を納め、毎月仏像を造り、さらに円徳院、勝楽院、常行堂などを建てて供養した。 1087年、堀河天皇が即位すると皇太后を追贈された。 実は賢子の異母妹である師子も白河上皇の後宮にはいり、後の覚法法親王を身篭って退出し、その後に藤原師実の妻となっている。  白河天皇皇女尊称皇后・媞子内親王(郁芳門院)は中宮 藤原賢子の娘で同母弟に堀河天皇、同母妹に皇后宮令子がいる。 3才で斎宮に卜定されるが、母の死により退下後は母・賢子の面影が色濃かったため、最愛の中宮を亡くした白河天皇に鍾愛されました。 12才の時、5才年下の弟・堀河天皇の准母となり、入内。4年後、初の配偶者以外の中宮に冊立され、2年後、16才で女院号宣下されるが21才で早世し、父・白河上皇は悲しみのあまり直後に出家しました。

藤原顕季アキスエ1055-1123             
 ┗長実             
  ┗藤原得子(美福門院 八条院)1117-1160              
     ┣体仁親王(ナリヒト)76近衛天皇1139-1155             
     ┣女朱内親王(高松院)1141-1176             
    ┃ 藤原泰子(高陽院)1095-1155藤原忠実娘             
堀河天皇┃ ┃             
  ┣鳥羽天皇74代1103-1156 鳥羽の護衛・遠藤盛遠は袈裟を愛し袈裟を討後、文覚                 
藤原苡子┃      ┃    佐藤義清(後の西行)も護衛             
     ┃      ┣統子内親王1126-1189(上西門院、袈裟御前が出仕)             
   祇園女御    ┣顕仁親王75崇徳1119-1164         ┣              
    ┣清盛?   ┃    ┣重仁親王1140-1162   源渡            
    ┃      ┃    ┃     乳母:有子           
    ┗━━━┓  ┃    藤原聖子1122~1181藤原忠通娘 皇嘉門院               
藤原基子1049-  ┃  ┣雅仁親王後白河天皇77代1127-1192(藤原通憲(信西)側近)         
 ┣実仁親王    ┃  ┣禧子内親王1122-         
 ┃(白河皇太子) ┃  ┣覚性入道親王1129-1169仁和寺門主         
 ┣輔仁親王    ┃ 藤原璋子(待賢門院)1101-1145公実・娘         
後三条天皇   ┃  ┃  (祇園女御,白川に寵愛)                
 ┣白河上皇72代1053-1129貞仁親王 六条帝                    
藤原茂子┃┃           ┣覚行法親王
    ┃祇園女御・妹兵衛佐局  経子
    ┣善仁親王(堀河天皇)1079-1107           
    ┃   ┃        ┃ 
    ┃   ┃        篤子内親王 
    ┣媞子内親王1076-1096斎宮(郁芳門院)
    ┣令子内親王1078-1144斎院 
源顕房 ┣子内親王1081-1156土御門斎院 
 ┃┣藤原賢子1057-1084 
 ┃隆子 
 ┗師子1070-1148(後に藤原師実妻) 
  ┣覚法法親王1092-1153 
 白河上皇

 

 

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上醍醐寺・薬師堂

2009年06月12日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 薬師堂は913年の創建で、現在の建物は平安時代後期の再建である。 醍醐寺にある建物では最古のものである。 記録では907年に醍醐天皇の御願により理源大師・聖宝が仏像を作り始め、909年の没後は弟子の観賢がこれを引き継ぎ山上に薬師堂と五大堂を建てたとされる。 薬師堂の本尊・薬師如来坐像の印相は来迎印であるが右手第一指と三指を捻った珍しい形である。

 

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上醍醐寺・開山堂

2009年06月11日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 開山堂は911年に建立され、三度の火災の後1608年に豊臣秀頼が再建したものが現在残っています。 内陣の厨子の中央には聖宝僧正、右には第一世座主観賢僧正、左には弘法大師の御影を祀っています。

 

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上醍醐寺・如意輪堂

2009年06月10日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 上醍醐寺・開山堂の隣には如意輪堂があります。 醍醐寺の開山・聖宝は醍醐山を密教の聖地とし、如意輪、准胝の2観音像を彫り、堂を建てて祀りました。 当初の如意輪堂は1260年に焼失し、現在のものは1608年に豊臣秀頼により再建されたものです。 如意輪観音坐像は上醍醐根本本尊のひとつで後に寺の鎮守となる清滝権現の本地とみなされ、もとは清滝宮にあったものと云われる。 印相は思惟手ですが、右掌を頬に添わせる(円教寺の本尊)のではなく、指を曲げて頬に当てているのが特徴です。 六臂が持つのは宝珠・宝塔・宝輪、座式の輪王座は一般的な形です。 (如意輪観音像:古寺を巡るより)

 

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上醍醐寺・醍醐の花見跡

2009年06月10日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 

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