芳徳禅寺は 柳生但馬守宗矩が亡き父・石舟斎宗厳の供養のために創建したもので開山は沢庵和尚。宗矩のの死後まもなく、将軍・家光の内意によって二百石を寺領として付与され、当時11歳の列堂和尚義仙が 当寺の第一世となった。 列堂時代の堂宇は1711年に焼失したが、飛騨守・宗冬が父・宗矩の七回忌のために作らせた宗矩像と沢庵和尚像は厄を免れ、現在も本堂釈迦如来左右の壇に安置されている。 廃藩後は寺は荒れ、廃寺の危機にさらされたが、1911年、尾州 柳生の末裔にあたる基夫氏は亡き父の遺志によって本堂を修復し、寺運回復に至ったという。 芳徳禅寺は奈良駅から369号線で東へ進んだ柳生の里にあります。 このロマンあふれる山里には柳生藩家老屋敷、陣屋跡、十兵衛杉などをはじめ、柳生新陰流を学んだとされる正木坂道場などもあります。 そして柳生一族の墓所があるのが芳徳禅寺の境内です。 墓所の入り口には歴代の住職の塔所があり、さらに奥にはいったところには柳生一族のお墓が所狭しと並んでおりました。 ほぼ中央には柳生三代の墓 (柳生宗冬 柳生宗矩 柳生三厳)があり、これを取り囲むように代々の柳生藩主のお墓が並んでいます。 その数は約70墓所くらいでしょうか。 部分的に系図を作ってみましたが、そのうち全墓所の系図を作ってみたいと思います。 かの有名な柳生列堂の墓所がみあたらず、不思議におもっておりましたが、列堂は第一世住持となっており、一族の墓所ではなく、寺の住職の塔所にあったのかもしれません。 実はこの柳生の里までの途中に後醍醐天皇の宮があった笠置へ抜ける33号線が続いており、是非ともいってみたかったのですが、時間の都合で次回に行きたいと思います。
柳生三代の墓 (柳生宗冬 柳生宗矩 柳生三厳)
柳生新陰流祖 (柳生家厳 柳生宗厳 柳生厳勝)
柳生家厳1497-1585(菅原氏支流、赤松氏同族)
┗柳生宗厳1527-1606(石舟斎)柳生新陰流(上泉信綱)後継者
┣柳生厳勝
┃ ┗柳生利厳1579-1650(兵庫助)尾張柳生家初代 加藤清正,徳川義直に仕える
┃ ┣柳生利方 家督を継ぐ
┃ ┗柳生厳包1625-1694 尾張柳生流派2代 徳川義直に仕える
┣柳生宗章1566-1603 小早川秀秋に近侍
┗柳生宗矩1571-1646大和柳生藩初代 但馬守 家康に仕える
┣柳生三厳1607-1650(十兵衛)第2代 徳川家光剣術指南役
┃ ┣跡部良隆室
┃ ┣渡辺保室
┃秋篠和泉守娘
┣柳生友矩1612-1639(母側室)徳川家光に寵愛される
┃ ┗不明
┣柳生宗冬1613-1675徳川家綱の兵法師範 柳生藩3代
┃ ┣柳生宗春1649-1675第4代(室:九鬼久隆娘)
┃ ┃┣柳生俊方1673-1730第5代
┃ ┃┃┗養子:柳生矩実,俊平(松平定重11男)1699-1768第6代(室:稲葉恒通娘)
┃ ┃┗九鬼副隆 ┗柳生俊峯(養子)1719-1763第7代(室:牧野康重娘)
┃ ┣柳生宗在1654-1689第4代┣娘(池田政朗室)
┃ ┃┣九鬼隆久 ┗娘
┃ ┃五条為庸娘 ┣柳生俊永,俊睦(廃嫡)
┃ ┃ 柳生俊則(養子)1730-1816第8代 家斉剣術指南
┃ ┣小出尹重室 ┗俊豊(養子)1790-1820第9代
┃ ┣朽木則綱室 ┣俊章1809-1862第10代(室:田沼意正娘)
┃ ┣曽我近祐室 堀直方娘┗俊能(養子)1830-1850(田沼意正次男)第11代
┃京極高通娘 ┗┏俊順(養子)1836-1862第12代
┃ ┃ ┣三条公恭室
┃ ┃木下俊敦娘
┣柳生義仙1635-1702(列堂)大和 芳徳寺住持┗俊益(俊順弟)1851-1927第13代
おりん・松下之綱娘 ┣娘(柳生俊久室)
富子,多鶴子(四辻公績娘)