平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

円教寺・摩尼殿と本尊・六臂如意輪観音坐像

2009年06月02日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 摩尼殿は懸け造りを踏襲したもので1921年の火災後の1933年に再建されたものである。 「摩尼」とは梵語で「如意」のことをいい、本尊は六臂如意輪観音坐像である。 性空上人910-1007が拝した六臂如意輪観音坐像 (性空上人が弟子の安鎮に命じて彫らせたもの) は1492年の火災で焼失し、摩尼殿の再建とともに製作された。 平安時代から伝わる四天王立像とともに秘仏で、毎年1月18日の修正会に開扉される。 実は堂内奥の厨子にはもう一躯の秘仏を安置しており、何百年も開扉されなかったが性空上人の千年遠忌の2006年に特別開帳された。 これは鎌倉前期1239年の仏像で当初の本尊の姿を伝えるものであることが確認された。 ところで、2009年5月31日、5年ぶりに円教寺を訪れると、摩尼殿の内陣から1933年作の六臂如意輪観音坐像と四天王立像を拝観することができました。 やはり内陣での写真撮影は禁止でした。

 性空上人は、平安中期の910年に、橘善根の次男として京都に生まれた。 幼い頃の上人は、人と交わるよりも静かな所で1人で遊ぶのが好きな少年だったという。10歳の時に法華経を習い、密かに出家を志したが、貴族である橘氏の復権を願う両親はこれを良しとしなかった。 したがって、出家を許された時には、既に36歳になっていた。 出家した上人は、まず比叡山に上り、慈恵大師・良源に従事して天台教観を学んだ。上人は、僧としての栄達よりも、大衆教化に生きる聖の道を選び、修験の山として知られる九州の霧島山・背振山に20年余り籠って修行を続けた。 そして、康保3年(966)、上人は、新たな修行の地を求めて姫路市の書写山に入山し、山内の西の谷に草庵を結んで修行の日々を送った。  上人の徳と名声は、やがて、都にまで届くようになった。上人は、寛和2年(986)頃に再々訪れた花山法皇から「圓教寺」の寺号を授かった。そして、永延元年(987)、三間四面の講堂が完成し、比叡山から名だたる高僧を招いて落慶法要が営まれるなど、現在の圓教寺の基礎となる数々の堂塔が整えられていった。 この頃、圓教寺を訪れる人は引きも切らず、圓教寺は華やかな光の中で輝いていた。 その中にあっても、上人は、権勢や栄華を誇る人々との交わりを避けて慎ましい日々を送りたいと思っていた。そのためか、上人は、長保2年(1000)に書寫の北方の草深い里に草庵(弥勒寺)を建てて隠棲し、聖の心を失わずに、ひたすら信仰と修行の道に生きたという。  その7年後、上人は、自らの死期を悟り、寛弘4年(1007)3月、高身に「明日、生身を棄てる」と告げ、言葉通り翌日に98歳で入寂、聖としての生涯を終えた。

摩尼殿                      六臂如意輪観音坐像(巡礼の道に立つ)

 

1933年の六臂如意輪観音坐像   (古寺を巡るより抜粋)   1239年の六臂如意輪観音坐像

 

 六臂つまり六本の腕を持ち、印相は思惟手、その他の手には宝珠・宝輪・宝塔などを持ちます。 頭には宝冠を被り、足は両足の裏を合わせる輪王座。 鎌倉前期の六臂如意輪観音坐像がまとっている衣と懸裳は截金文様(きりかね)をほどこす、いわゆる皆金色(かいこんじき)の表現である。

コメント    この記事についてブログを書く
«  | トップ | 興福寺・不空羂索観音菩薩坐像 »
最新の画像もっと見る

陵 古墳 墓 遺跡」カテゴリの最新記事