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川中島合戦の地

2009年05月11日 | 戦国時代

 武田信玄 は1521年に清和源氏の名門である甲斐武田氏の17代目として甲府で生まれた。 武田氏の本拠・躑躅ヶ崎館ではなく 要害山城とも積翆寺とも云われている。 父は信虎、母は大井氏の娘である。 武田信玄が家督を継いだのは父より受け継がれたのではない。 信虎は信玄(晴信)を忌み嫌い、弟の信繁に家督を継がせたいと考えていたた。 信繁は武田家の当主になろうという野心はなく、(兄信玄の部下として忠誠を誓った副将で 戦国の名将真田幸村の本名は信繁。 ) 信玄は父を追放する。 武田家の家臣が当主として選んだのは子の信玄のほうであった。 信玄は元服して初陣で手柄を立てたのであるが、 父と共に攻め立てた城が落ちずに引き上げた後、信玄は殿軍を願い出た。 殿軍は退却の際に大将をかばって敵と戦い、逃げ延びる時間稼ぎを行うのが目的である。 しかし信玄はその目的とは反して、城に籠もった敵を攻め立てて呆気なく落としてしまった。(敵の大将・平賀源心を討ち取ったのは騎馬隊侍大将の馬場信春) 初陣で大勝利を収めた信玄に対して父・信虎は命令違反を咎め、評価しなかった。 これにより自分が当主になることを誓った信玄は父を追放したのである。 このとき信虎の重臣であった板垣信方、甘利虎泰の賛同を得ているから謀略の片鱗をこのときから見せている。 信玄の姉は今川義元に嫁いでいたため、父を今川家に保護してもらおうとし、今川義元はこれに応じたのである。 今川義元も信玄の器量に呼応したのは信玄の姉の賛同もあったと考えられる。 信玄は息子・義信の妻に今川義元の娘を迎え入れている関係でもある。 (これにより、今川、北条、武田の三国同盟が成立) 後に今川義元は桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られ、後継者として氏真が当主となったが、氏真は戦国史上名高いバカ殿であった。 お互いの政略結婚により均衡を保っていた武田家と今川家の同盟均衡が破れたのはこのときである。 武田信玄は今川領攻めに出たのであるが、これに反対したのが今川の娘を妻にしていた義信である。 そして義信は父に対して反乱を企てた。 義信は捕らえられ東光寺に幽閉されると、後に自刃して果てたとされる。 このときに連座したのが嫡男・義信の傅役であった飯富虎昌である。虎昌は信虎の寵愛をうけたが、武田信玄が信虎を追放したときに板垣、甘利同様、虎昌も信玄を推した。 そして義信の傅役を務めることとなったが、謀反の罪に問われては飯富家も廃絶するしかなかった。 虎昌には弟・三郎兵衛がいて、謀反の企てを告発せよといい含めたことから、三郎兵衛だけは功が認められた。 後に武田信玄の四天王となる山県昌景がその人である。 

 1572年武田信玄が京への道を確保する際、織田の同盟軍である徳川家康軍を蹴散らしたが、このとき武田信玄側の中核にいたのが山県昌景率いる騎馬隊である。 家康はかろうじて浜松城へ逃げ帰ったが、このとき恐怖のあまり脱糞していたという。 家康はこれを契機に戦略を武田流に変え、軍学・甲州流の祖である小幡勘兵衛を召抱えた。 家康は本能寺の変後、甲斐国に進出して多くの武田遺臣を採用しており、徳川四天王の一人・井伊直政に 赤備え(鎧兜を赤で統一したスタイルで、自分をアピールする必要のあった戦国時代に始めて山県昌景が行った) を受け継がせたというから家康がいかに武田軍および昌景を尊敬していたかがわかる。 昌景と同じ騎馬隊侍大将に馬場信春がいる。 抜群の武勇と勘のよさを持ち、築城術は山本勘助に学び 最後に1575年長篠の戦で討死するまではかすり傷ひとつ負わなかったという。 長篠の戦での大将は武田信玄の後を継いだ勝頼(諏訪御料人の子)であったが重臣たちはその力を信じていない。 それに反発する勝頼と信春らの重臣との間にできた分裂を突いて、攻めてきた織田軍との戦いが長篠の戦である。 勝頼を諌めて退却させ、殿軍を務めた信春はここに倒れたのである。 馬場信春、山県昌景と並んで武田四天王の一人に内藤昌豊がいる。 父・工藤虎豊を先代の信虎に手打ちにされ放浪していたが、武田信玄の父追放によって呼び戻された昌豊は領地を与えられ 内藤家を継いで武田信玄に忠誠を誓った。 川中島の合戦で騎馬隊大将を務め北条氏康との三増峠の戦いでは補給部隊の大将を務めた。勝頼の時代になり長篠の戦で山県昌景に続いて 内藤昌豊も犬死したところでやっと勝頼は退却に従った。 最後の四天王は高坂昌信、といって他の3人と違って百姓生まれで春日源助といった。 父を早くに亡くした源助は遺産相続に負けてたが、そのときに武田信玄の眼に留まって近習となったのであるが、その理由は男色の相手としてである。 しかし武勇にも優れており、上杉謙信との防衛線である海津城の城大将(お目付け役に小幡虎盛といって甲州流軍学の祖・小幡勘兵衛景憲の祖父である )にしていたというから四天王なのである。 現在、武田信玄に関する武功は、「甲陽軍艦」に記載されていることからその詳細が知られているが、これを書いたのが実は高坂昌信であるから、現代への功績は昌信が一番であろう。 

 武田信玄が冷血(実は人は城、人垣、堀・・・と言っているように決して冷血ではないのであるが。) とされる理由に諏訪氏の滅亡がある。 甲斐国と接する諏訪郡の領主に諏訪頼重がいた。 頼重には武田信玄の妹・禰禰が嫁ぎ、虎王丸を産んでいた。武田信玄はこの諏訪を攻め、油断していた義兄・諏訪頼重はすぐに降伏に追い込まれ、和議が成立したのであるが武田信玄は頼重を切腹させたのである。 頼重がすぐに降伏に追い込まれたのには理由があり、諏訪家の分家である高遠頼継という男が諏訪家を裏切り、武田家の味方をしたのである。 本家に不満を持つ頼継を調略した結果の成果といえるが、このあたりに影響力を持つ諏訪大社については頼継に一切手をつけさせなかったことから、怒った頼継は挙兵して上原城を落とし、諏訪大社を奪い取った。 これに反応した武田信玄は諏訪家の遺児である虎王丸を担いで軍の総大将として頼継を討ち、諏訪大社を含む領地すべてを奪い取るのである。 虎王丸はいつの間にか歴史から消えたが、武田信玄の謀略である可能性は高い。 このとき、頼重の娘で絶世の美女といわれた諏訪御料人は武田信玄の側室になっていた。 諏訪家を継ぐ幼児・虎王丸を餌にされて側室にならざるをえなかった諏訪御料人が悲劇のヒロインになる所以である。   多くの家臣は御料人を側室にすることは反対であったが、軍師・山本勘助が一人異を唱え、諏訪家の血を残して諏訪の民を心服させることが必要と進言したというが、 結果、諏訪家は高遠家とともに滅ぼされている。 理由はもちろん武田信玄と諏訪御料人との間に男子が生まれたからである。名を勝頼といい諏訪家一族として家督を継いでいたが、後に武田家当主となる。 武田信玄次男は生まれつきの盲目で、三男は早世したからである。17歳で勝頼を産み、25歳でなくなった御料人は諏訪湖を望む小坂観音院に墓所があるという。

 さて、武田信玄亡き後嫡流で跡を継ぐものは誰もいなかったのは諏訪勝頼にとっては幸いであった。ところが織田信長との長篠の戦で多くの戦力を失った勝頼はほぼ武田家を滅亡させたといっていい。しかし信長は勝頼にとどめはさしていなかったため、国に帰った勝頼は再起を期すことができたのである。その最大の好機が1578年の御館の乱であった。 上杉謙信亡き後家督相続の遺言を残していなかった上杉家は、謙信の甥・景勝と北条氏政の弟・景虎が分裂し家督争いをし、御館の乱に発展したのである。 武田勝頼は断交していた北条家と同盟を結び、氏政の妹を妻とした。 最初の妻の信長の養女は信勝を産んだ後に死んでいた。 これで武田勝頼と上杉景虎は義兄弟となった。 妹を勝頼の嫁にだしていた北条氏政より、弟の景虎の援護を依頼してきたのである。 上杉は強大ではあるが分裂した今となっては勝頼が援護すれば、それで勝敗は決し、武田、上杉、北条の大同盟ができあがる。 はじめは景虎の援護をするつもりであったが、途中で心変わりし武田勝頼は上杉景勝側の援護を行ったのである。 これに激怒した北条氏政は信長、家康とともに武田家に総攻撃をかけて呆気なく倒したのである。 心変わりの原因は劣勢にたたされていた上杉景勝からの賄賂であったという。 金銀の宝庫であった越後で謙信は多大な金を春日山に残していた。 この資金を抑えた上杉景勝はこの金を使って勝頼を味方に引き入れた。 結果、優勢だった景虎は自刃に追い込まれ、弟を失った北条氏政が織田、徳川と連合を組んで襲ってきたのである。 そのとき勝頼は援護を上杉景勝に求めたが何の援護もなく、追い詰められた勝頼は北条夫人と嫡子・信勝とともに天目山で自害し、1582年武田本家は滅亡したのである。尚、天目山ふもとの景徳院には 勝頼と北条夫人、嫡子・信勝の墓がある。

武田信虎1494-1574     
  ┃諏訪頼重-1542(諏訪領主 信玄に攻められ)  
  ┃ ┗娘1530-1555(諏訪御料人)
  ┃  ┣武田勝頼1546-1582 
  ┃  ┃ ┣信勝1567-1582 
  ┃  ┃信長養女 
  ┣武田信玄1521-1573
  ┃  ┣義信1538-1567(父に謀反自刃)
  ┃  ┃ ┣
  ┃  ┃┏今川義元1519-1560娘
  ┃  ┃┗今川氏真1538-1615
  ┃  ┣黄梅院1543-1569(北条氏政室)
  ┃  ┣海野信親1541-1582(龍宝)
  ┃  ┣信之1543-1553 
  ┃  ┣見性院1545-1622(穴山梅雪室)
  ┃  ┣真理姫1550-1647(木曾義昌室 母:不明)真竜院
  ┃  ┣仁科盛信1557-1582(高遠城主)
  ┃  ┣菊姫1563-1604(上杉景勝室 母:油川夫人)
  ┃  ┣松姫1561-1616(織田信忠と婚約 母:油川夫人)信松尼
  ┃┏三条の方(三条公頼娘)1521-1570
  ┃┗如春院(顕如室) 
 
  ┣武田信繁1525-1561(川中島4戦で戦死)  
  ┣武田信廉1532-1582(画才有)
  ┣松尾信是-1571(母:松尾信賢娘) 
  ┣河窪信実-1575 
  ┣一条信龍1539-1582()
  ┣武田信友-1582(母:内藤氏)
大井の方1497-1552大井氏(本拠地:佐久郡)

 

 上杉謙信は1530年越後国守護代(室町幕府から各国ごとに任命される守護)・長尾為景の次男として生まれた。 守護代の任命は守護に任命された大名の権限であり多くの守護は地元の豪族を守護代に任命した。 応仁の乱以降足利将軍が没落して無実となると、名門大名も次々と衰え、地元に強い勢力を持つ守護代が守護を無視して国を支配するようになる。 尾張の織田、越前の朝倉、越後の長尾家はこの代表であり、戦国大名と呼ばれる。 長尾為景は守護である上杉房能を追い落として自刃に追い込んだが、そのために関東管領上杉氏を敵に回すこととなる。 それは上杉房能の実兄・上杉顕定である。 上野国平井城から出陣した顕定は為景を包囲すると、為景は敗走し佐渡へ逃亡する。 越後国を奪ったが、統治が悪かったため為景に戻ってほしいという声が広がり、為景は柿崎氏などの同族の地元豪族をたばねて越後国に攻め込み上杉顕定は、信濃の豪族・高梨政盛(長尾為景の祖父)の軍勢が為景の援軍として率いて来てくれたこともあり追い落とされ戦死した。

 上杉謙信が22歳の1552年、関東管領上杉憲政が越後へ亡命してきた。 関東では幕府の総督であった鎌倉公方が御家騒動で古河公方と堀越公方に分裂したことで、弱体化した堀越公方が北条早雲に滅ぼされて伊豆国を奪われた。 北条早雲を祖とする後北条家を継いでいた北条氏康は謙信と同時代に関東全体に勢力を伸ばし始め、危機感を抱いた上杉憲政は、古河公方・足利晴氏、上杉朝定らと組んで、後北条の堀河越後を包囲しようとしたが、奇襲により撃破された。 居城まで落とされた上杉憲政は救いを求めてきたのである。 こうして関東管領を保護下においた上杉謙信は、将軍家を中心とした秩序を回復させたい思いで、13代将軍足利義輝に会い、朝廷より官位も賜る思惑もあったのである。 そして従五位下、弾正大弼の官職をえた。  翌1553年村上義清ら武田信玄に敗れた信濃の諸将が次々と越後に亡命に来る。 信玄に奪われた領地を取り戻そうと謙信にすがってきた。 本来であれば何の得にもならない戦争であるが、謙信は義の人である。 こうして謙信と信玄は川中島の戦いであいまみえることとなる。 また上杉謙信は、戦いが終結していないのに、上杉憲政の北条征伐を頼まれ、関東の反北条の大名に呼びかけ、連合軍を結成して関東の覇者・北条氏康と戦った。 北条軍はいったん東上洲の地をあきらめて退却した。 この時、上杉謙信は仮の本拠地として上洲厩橋城で越年を行い、1561年憲政を奉じた上杉謙信は北条氏康の本拠地・小田原城を攻めたのである。 しかし、小田原城は難攻不落の巨城で、小田原という城郭都市を土塁・空堀で囲んだ壮大なものである。 上杉謙信は結局戦果を挙げることができずに退却をする。 しかし上杉謙信の献身的な奉仕に感動した上杉憲政は上杉の名跡と関東管領の職を謙信に譲りたいと言い出したのである。 関東管領就任式は鎌倉鶴岡八幡宮で行われたという。 ここは相模国、つまり北条氏康の本拠地内であったが氏康を小田原城に封じ込めていたために就任式は行われた。これにより謙信は上杉政虎となる。 1560年の厩橋での戦いで功を挙げた家臣・斎藤朝信は”越後の鍾馗”といわれ無類の戦上手であった。 上杉軍に強固に抵抗したのは下野国の名門・佐野氏で、平将門を討った名将・俵藤太秀郷の築城といわれる唐沢山城の篭り謙信軍の攻撃に耐えるが、朝信はこの戦で活躍したことで知られている。

 式が終わり、越後に戻った後の8月、上杉謙信は大軍を引き連れて4回目の川中島の戦いを行っている。 関東管領に就任した上杉謙信を討ち取るべく、武田信玄は軍師・山本勘助に作戦の立案を命じた。 川中島に城を持たない上杉謙信は妻女山の山頂に陣を敷いていた。 武田軍を本陣と闇に紛れて奇襲する二手に分けたが、上杉謙信はそれを見破り、奇襲される前に山を下りて手薄となっている本陣を突こうと考えた。読みは的中し上杉謙信軍有利のなか、武田信玄の弟・信繁、山本勘助はともに戦死したのである。 勘助を討ち取ったのは為景の代からの家臣で猛将といわれた柿崎景家だといわれている。騎馬隊が交替で波状攻撃を加える車掛戦法で武田軍を壊滅状態に追い込んだのである。 景家が63歳の1575年、敵の大将織田信長と内通した疑いで謙信の手によって討たれている。 ところで、川中島の奇襲作戦から別働隊が戻ってくるまでに信玄を討ち取ることはできず、お互いに多くの犠牲者を出して戦は終結した。 この時上杉謙信は武田信玄に単騎切り込みを行ったという。 

 後に1559年、謙信は宿敵である一向一揆を和睦を結び、二度目の上洛を果たす。 目的は衰えている足利将軍家の再建であり、13代将軍・義輝は謙信の将軍家への忠節を知り呼び寄せたのである。 ところがその後都の周辺を牛耳っていた大名・松永久秀は義輝を襲って殺した。 直ちに上洛して仇を討ちたいところであるが、武田信玄、北条氏康、今川義元の間で三国同盟が成立し上杉謙信にとっては大きな打撃であった。 しかし桶狭間の合戦で織田信長が今川義元を討ち取ると、武田信玄は今川家を滅ぼして領地を奪い取ってしまった。 三国同盟を破った信玄に怒った北条氏康は息子・氏政に嫁いでいた信玄の娘を離縁した。 三国同盟により関東の拠点を次々と失っていた謙信は、一気に形勢が逆転し、氏康から同盟の申し出をしてきた。 ともに信玄と戦おうという越相同盟が成立する。 上野国の半分を上杉領として認めさせ人質の要求にも北条氏は応じた。 このときの人質が北条氏康の息子・氏秀で、上杉家の養子となり後に上杉景虎となのるのである。 この頃に上杉輝虎改め、上杉謙信と名乗ることとなる。 1571年北条氏康が病死すると跡を継いだ息子の氏政は謙信と手を切り信玄と結ぶことを考え、甲相同盟が成立する。 これにより謙信を牽制することができた信玄は、足利義昭の上洛要請に応えて西上の軍を起こしたのである。 しかし信玄は遠征の途中で病死する。

 本来であれば謙信は信玄の死に乗じて武田領に侵攻するところであるが、それをしなかった。 また先に北条氏政が越相同盟を破ったときも、北条氏からの人質である氏秀・上杉景虎を殺すどころか、養子として遇している。 義を重んじる謙信の温情がこの後裏目にでる。 謙信が亡くなった後跡目を争って景虎と景勝(姉の子)により家中が分裂するのである。ところでこの分裂に終止符を打ったのが四天王・直江景綱の娘婿・信綱といわれている。 最初劣勢であった景勝を支持し後に景虎を自刃に追い込んでいる。しかし景虎派の憎しみを集めて殺された。そして景勝の名軍師でしられる直江兼続が跡を継ぎ直江家を守り立てることとなる。       信玄の死によって足利義昭は京を追放され西国の毛利家に亡命し、上杉謙信に書状を送ってきた。 それは信長を討って京を奪回せよ、というものである。 織田信長は一向一揆と対立したため、一向宗の総本山本願寺は 信長を最大の敵とし他の勢力とは和解の姿勢をとった。 これにより上杉謙信上洛の可能性が高まり、信長は岐阜から安土に拠点を移し謙信上洛の阻止をはかった。 こうしたなか、これまで信長方であった能登国の畠山氏が上杉方になりたいとの申し入れをしてきた。 能登国の主城である七尾城争奪で上杉謙信と織田方の柴田勝家が戦い、上杉謙信が勝利を収め、引き上げる途中の織田軍を急襲して撃破した。 手取川の合戦である。 1578年、上杉謙信は本拠の越後春日山城から関東に攻め入る大号令をだすが、出陣を前にして倒れ、意識を回復することなくこの世を去った。 

 折角、川中島決戦の地へ行ったにもかかわらず、軍師・山本勘助の墓を行き忘れるとは・・・一生の不覚で御座いました。是非ともまた行きます。 

  ┣仙桃院1524-1609     桂岩院?-1604(四辻公遠娘)
  ┃ ┣義景(10歳で早世)   ┣定勝1604-1645(直江兼続夫妻が養育)
  ┃ ┣景勝1556-1623 (豊臣5大老の一人)
  ┃ ┃ ┣- 
  ┃ ┃菊姫1563-1604(武田信玄六女)  
  ┃ ┣娘(上杉景虎室 清円院 1556-1579)
  ┃ ┣娘(畠山義春室)   武田信玄1521-1573
  ┃長尾政景1526-1564溺死   ↑
  ┃房長┛          ↓
  ┣長尾景虎(上杉謙信)1530-1578
  ┃ ┃ 宇佐美定満1489-1564 軍師 政景暗殺
  ┃ ┃ 柿崎景家 1513-1575(車掛り 信長と内通?手討)━晴家-1578(景虎派)
  ┃ ┃ 斉藤朝信 1527-1592(内政 蓄財 景勝派) 
  ┃ ┃ 直江景綱 1509-1577(宿老筆頭 内政) 
  ┃ ┃  ┃┃ 樋口兼豊-1602
  ┃ ┃  ┃┃   ┣直江兼続1560-1619
  ┃ ┃  ┃┃   ┣大国実頼  ┣直江景明1594-1615
  ┃ ┃  ┃┃   藤      ┣於松
  ┃ ┃  ┃┣お船1557-1637(直江信綱-1581室)
  ┃ ┃  ┃娘
  ┃ ┃ 山吉政久娘(-1570正国尼)
  ┃ ┣景勝1556-1623(養子) 
  ┃ ┗景虎1538-1590(養子:北条氏康7男)
青岩院(虎御前)1512-1568

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