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唐招提寺と智努王・文室浄三

2009年05月30日 | 奈良・飛鳥時代

 文室浄三693-770は、奈良時代の皇親で後に臣籍降下することによって政治的な圧力から逃れて自己の意思を全うした人物である。 父は天武天皇の皇子・長親王で、初名は智努王といい、兄弟に大市王等がいた。  717年従四位下に叙されると、造宮卿などを歴任し、平城京の造営を手がけたといわれる。 752年文室真人の姓を賜って臣籍に下り、761年頃浄三と名を改めた。 これは唐招提寺に帰依した鑑真より戒律を授かったためである。 757年参議となり、中納言を経て762年御史大夫(大納言)に昇任すると、764年には職を辞している。 770年の称徳天皇の崩御後、吉備真備に次期天皇に推されたが、浄三はこれを辞退し、 その約2ヵ月後に亡くなった。 藤原仲麻呂による権勢を批判した鑑真とともに唐招提寺の建立に尽力した。

 文室浄三は、聖武天皇の招きに応じ、苦難の末、日本にやってきた唐僧鑑真和上とともに唐招提寺の建立に尽力します。 鑑真は日本に着いてから5年間、戒壇院での授戒を制度として確立するためを東大寺で過ごしましたが、東大寺から解放された後の758年、故新田部親王(天武天皇の第七皇子)の旧宅を賜り、そこを「唐律招堤」と称し、戒院として教学の場を営むことになります。 聖武太上天皇はすでに崩御していたが、光明皇太后と孝謙天皇の鑑真への帰依は深く、当時権力を振るっていた藤原仲麻呂も鑑真を歓迎していた。 やがて鑑真を支持する人々から居室や宿舎を贈られ、倉庫、食堂、講義用の講堂、本尊を安置する仮金堂などが建てられ、鑑真の没後も金堂や東塔が建立されます。 平安時代初頭に伽藍全体が完成し、そのころ「唐律招堤」から「唐招提寺」となります。 

 唐招提寺の 「金堂」は ”天平の甍” として知られ奈良時代に建立された金堂としての唯一の遺構です。 「過去」の「薬師如来立像」、「現在」の「盧舎邦仏坐像」、「未来」の「千手観音立像(阿弥陀如来像)」があり、 過去、現在、未来の「三世仏」といわれているが、一般的には盧舎邦如来の脇侍に薬師如来、千手観音が立つことはなく、 鑑真と文室浄三の思惑が反映されている。 上記の三尊と「講堂」の本尊「弥勒如来坐像」とで、「東」の「薬師如来立像」、「南」の「盧舎邦仏坐像」、「西」の「千手観音立像(阿弥陀如来像)」、「北」の「弥勒如来坐像」となり、これが東西南北の「四方仏」となっている。  金堂中央の本尊・盧舎邦仏坐像(3.05m)は、「脱活乾漆坐像」としては最大のもので、膨大な漆を使用していることがわかっています。 二重円光の光背の高さは515cmにもおよび、864体の小さな釈迦像の化仏を付けた数十の小光背により構成されている。 結跏趺坐し、右手は上に上げ、左手は掌を上にして膝上に置いている。(施無畏与願印と違って親指と人差し指で輪を作る来迎印) 写真は小学館「古寺を巡る」より

金堂 三尊像                                盧舎邦仏坐像

  

 金堂向かって左の千手観音立像(5.4m)は、「木心乾漆造」では最古最大の像で、右側に位置する薬師如来立像(3..4m)とともに「木心乾漆造」です。 ただし 木心乾漆造の漆の使用量は盧舎邦仏坐像に比べて極端に少なく、当時の鑑真、文室浄三の権勢の衰えと仏像建造の資金との関わりをうかがうことができる。 頭上に十面を乗せ、42本の大脇手を含めて953本の脇手を付けている。 もともとは1000本を備えていたと思われ、正しくは千手千眼観自在菩薩といい、掌それぞれに一眼が墨書きされている。  光背は唐草や火焔をあしらった円形の頭光で、中央には八葉蓮華がある装飾性豊かなものである。  講堂の中央須弥壇に座す弥勒如来は弥勒菩薩が釈迦に次いで如来になったもので未来仏と云われる。 左の掌は下にして膝のうえに乗せる蝕地印を結び、釈迦が悟りを開いた状態を示す珍しいものである。 

金堂・千手観音立像                          講堂・弥勒如来坐像

 

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