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小六の嫡男・蜂須賀家政

2009年05月28日 | 戦国時代
 蜂須賀家政1558-1639は蜂須賀正勝(小六:中国大返しでは黒田官兵衛孝高とともに貢献し成功に導く) の嫡男として、尾張国に生まれ、織田信長、羽柴秀吉に仕える。 1582年、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、秀吉に従って山崎の戦いに参加し、1583年の秀吉と柴田勝家の決戦・賤ヶ岳の戦いで勝利したときには播磨佐用郡内に3,000石を与えられた。 1585年の紀伊雑賀攻めの後に行なわれた四国征伐では、阿波木津城攻め、一宮城攻めなどで武功を挙げ、四国征伐後、その戦功により秀吉は正勝に対して阿波一国を与えようとしたが、正勝は秀吉の側近として仕える道を選んで辞退し、秀吉はやむなく家政に阿波を与えたという。 因みに父・正勝はこれを見届け、翌年に没している。 こうして家政は1586年に阿波18万石の大名となり、徳島城を築城した。 朝鮮出兵には、文禄の役・慶長の役の2度とも出陣、南原城の戦い、蔚山城の戦いでは救援軍の一端を担い、浅野幸長を助け出すという武功を挙げたが、戦線縮小を主張する石田三成らにかえってこの戦闘行為を非難され、預かっていた蔵入地を没収される懲罰を受けた。 1598年に秀吉が死去し、1599年に前田利家が死去すると、福島正則や加藤清正、浅野幸長らとともに三成襲撃を蜂起し、子の至鎮と徳川家康の養女の縁組を結ぶなど、典型的な武断派・親家康大名として活動している。 1600年の関ヶ原の戦いでは、時代の流れを察知し、自身は出馬せず、西軍に対しては軍勢だけを送った。 家康とは直接戦うことのない丹後田辺城攻防戦に加わった。 ここは細川忠興の父・幽斎が東軍として立て篭もっていた城であったが戦闘まもなく補給と称して阿波に戻り、アリバイ工作としての西軍参加を表明したようであるが、西軍が敗れたときには家来は無断で西軍に味方したとして蜂須賀家を追放されている。 一方、 家康の上杉景勝征伐に同行させていた至鎮は関ヶ原の本戦で東軍として参加させ、武功を挙げたため、家康から所領を安堵された。 家政は西軍についた責任を取る形で剃髪し隠居したが、早くに至鎮が病死したために、その子・忠照の成長と家臣団の統制に務め81歳まで生きたのである。
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