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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

平盛俊を討った源氏・猪俣小兵六則綱

2009年08月17日 | 平家物語

 猪俣小兵六則綱は武蔵国の武士で、児玉郡猪俣にその館があったことから猪俣党と呼ばれ、頭領であり源氏側の勢力にありました。 源義朝の頃より源氏に仕え、保元の乱に参戦、平治の乱では源義平に従われて功績をあげています。 後の戦国期には北条氏邦に従い上野へと進出しています。 播磨国、一ノ谷の戦いでは中納言・平知盛を追い詰めたことで知られています。 中納言知盛は生田の森の大将軍、東から攻め掛かかる源範頼率いる、源氏の応戦に苦慮しておりました。 源氏の軍団・児玉党の中より、知盛に使者が遣わされ、  「知盛殿、貴方はその昔、我等が武蔵の国の国司であらせられたによって、そのよしみを以って、お知らせ申す。目前の敵に気を取られて、よもや後の敵を御忘れでは」と、申し送りました。  知盛ら平家の武者が後ろを振り返ると、一ノ谷で上がった黒煙が、既に生田の森まで迫っています。  「あれ、西の手は、既に破れたか」と、平家軍は、たちまち総崩れとなって浜を目指して逃げ始めます。  山手の侍大将である越中前司盛俊は、東西陣営が総崩れになる中、今更と留まって居りました。 それを見つけた猪俣小兵六則綱が、これぞ良き敵と二人は組み合います。  猪俣は、八カ国にその名も聞こえた鹿の角をも引き裂く怪力無双と云われています。 一方の盛俊も船を、一人で引く程の怪力です。 力に勝る盛俊は、猪俣を取り押さえて、身動きできなくしました。  がっちりと押さえ込まれた猪俣 「名前の分からない首を取っても、手柄にはならぬ。互いに、名を名乗ろうではないか」と申します。   盛俊も、「それもそうだ」と思われたか、 「元は、平家一門に連なる、越中前司盛俊と申す。して、汝は何者ぞ、名を聞こう」、  「武蔵の住人・猪俣小平六則綱と申す者なり。ところで、越中前司殿、我を助けては呉れまいか。さすれば、貴方はもとより、貴方の一門が喩え何十人おはそうとも、拙者の功名に替えて、お助け致そう」と申しますと、  「盛俊、もとは平家の一門、源氏に頼もうなどとは、思いもよらず。源氏も又、盛俊を頼もうなどとは、よもや思うまい。憎っき口を聞く奴め」、真っ赤になって怒った盛俊が、太刀を振り上げ、まさに首を切らんとした時、それを押し留めんと猪俣は、  「情けなや、既に降参している者の、首を切ろうとなさるのか」と、また、口を聞きす。これを聞いて盛俊、 「それもそうだ、ならば助けん」と、とうとう許してしまったのです。   戦い疲れた二人が一息付いていると、緋嚇の鎧着て、金覆輪の鞍置き、月毛の馬に乗った武者一騎、こちらへ鞭打ち馳せ来ましす。 猪俣は一瞬、ギクッとした盛俊を見て、  「あれは、日頃から、拙者が親しくしている人見四郎と言う者にて、猪俣がここに居るのを見て、伺い来るのであろう」と、口では申しながらその瞬間に、猪俣、両足を踏ん張って立ち上がり、盛俊の胸板を一突きし、不意を付かれた盛俊に太刀突き刺して首を刎ねてしまいます。  猪俣は素早く盛俊の首を太刀の先に貫き、高々と差し上げて、  「日頃、平家の鬼神と唱われた越中前司盛俊を、武蔵の住人猪俣小平六則綱召し取ったり」と、大音声を挙げ 功名をたてたのでした。

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