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平時忠と義経側室夕花姫

2009年04月01日 | 平家物語

 『平家にあらずんば人にあらず』、という有名な台詞は時忠のものである。 平時忠は、平氏ではあるが清盛とは別系統の公家の平氏で、桓武天皇の子孫で京に残った。 清盛の出世によって縁ができ、姉の時子が清盛の妻となった。 また妹の滋子は後白河法皇の寵愛を受けて憲仁親王を産み、後に出家して建春門院といった。  当時院政を引いていた後白河法皇は政権を思いのままにしていたが、唯一英明な二条天皇を嫌っていた。 そこで時忠は滋子が産んだ憲仁親王を天皇にすべく陰謀をめぐらしたが、二条天皇の知るところとなり時忠は出雲へ流罪となる。 ところが流罪の間に二条天皇は死に、後白河は再び時忠を都に呼び寄せた。 そして憲仁親王は即位して高倉天皇となる。 高倉天皇の后には時忠の姉で清盛の妻・時子が産んだ徳子(後の建礼門院)が選ばれ、安徳天皇を産むことになる。 時子を姉に持ち、政界にゆるぎない地位を持つ滋子を妹に持つ時忠は、法皇と清盛の対立に巻き込まれ、二度目の流罪となる。 しかし幸運なことに清盛の力が後白河を圧倒するようになると再び呼び戻されて大納言に返り咲く。 平家一門が都落ちしたとき時忠の官職だけはそのままであった。 その後、源義経の快進撃によって平家一族が追い詰められ壇ノ浦で時子が安徳天皇とともに入水したとき、時忠は神鏡をいちやはく確保し源氏に投降して渡している。 また、義経には娘を嫁にやって助命されているのであるが、能登への流罪が命ぜられ62歳の生涯を閉じた。 平家物語によると、義経が兄・頼朝に追い詰められて奥州平泉に逃げ延びる途中に、平時忠を訪ねて能登に立ち寄ったというから、義経と時忠娘・夕花姫との仲は並々ならぬものであったのかもしれない。

 

待賢門院   
  ┣後白河天皇77代1127-1192(紀伊の局が乳母)           
鳥羽天皇  ┃  (藤原通憲(信西)、後白河側近で平治の乱で死す)  
74代┃   ┃     ┣藤原成範
  ┣近衛 ┃  藤原朝子┗小督?-?           
  ┃76代 ┃  (紀伊局) ┃ ┃        
美福門院  ┃      ┃ 藤原隆房        
      ┃      ┃ ┃       修明門院藤原重子
      ┃   葵前 ┃ 清盛・娘四女     ┃ 藤原立子(東一条院)
      ┃   ┣  ┣範子内親王1177-1210斎院┃  ┣85仲恭天皇
      ┣憲仁親王80代高倉天皇1161-1181    ┣84順徳天皇
    
      ┃         ┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239平棟子         
      ┃         ┃ ┣守貞親王(後高倉院) ┣83土御門天皇┣宗尊親王   
      ┃       ┃ ┃  ┣86後堀河天皇 ┃  ┣88後嵯峨天皇
       ┃       ┃ ┃  ┃ ┣87四条天皇┃源通子   ┣89後深草天皇
      ┃       ┃ ┃  ┃ 藤原竴子   ┃      ┣90亀山天皇
  藤原祐子┃   平清盛┃ ┃北白河院・藤原陳子 承明門院源在子 西園寺姞子 
     ┣滋子1142-1176 ┃ ┃藤原殖子(七条院)                 

     ┃(建春門院)  ┃ ┣言仁親王トキヒト(81代安徳天皇1178-1185)       
   平時信       ┣徳子1155-1214(建礼門院)              
    ┣時子1126-1185┛                           
    ┣時忠1127-1189院政期の政治家                      
    ┣親宗1142-1199   ┣讃岐中将時実                   
   藤原家範娘      ┣右大弁時宗                   
              ┃  ┗娘(敦盛の許婚)                   
              ┣夕花の君(壇ノ浦後義経凱旋し、妻室に迎えた)                   
              ┣ゆかり姫                    
           師の局(安徳乳母 待賢門院に出仕) 

平家物語・能登での再開

 夕花の姫は平大納言時忠の娘である。 時忠との契りによって犠牲者を最小限にとどめることができたあの壇ノ浦の戦いのあと、義経は夕花の姫を側室に向かいいれていた。父・時忠としても源氏の総大将の今後を考えての嫁入りであった。 しかし 頼朝からの厳しい追補のため、やむなく都落ちをする際に、夕花を能登の配所へと向かわせていた。 能登の配所は 時忠、妻の師の局らが流された場所である。 能登の最北端の珠洲岬の近くに配所はある。 もと讃岐の国の平家方・桜間の介能遠を護衛につけて大浦の浜で、義経一向と夕花は分かれたが、 義経一向は嵐に見舞われ、頼朝の追補をのがれ、あれから2年後の今、 安宅の関を越えて能登の麓まできたところを桜間の介と再会したのである。 もちろん 能登へも義経一向が山伏姿に身を潜めて奥州へ向かっているという噂は届いていたので、 時忠は桜間の介に義経一向を待つようにと命じていたのである。 かくして能登の配所で、義経、時忠、夕花が再会を果たし、歓喜に浸ったのはいうまでもない。 おそらく10日近くは滞在したに違いない。  配所の近郷には地頭の長谷部兵衛尉信連という者がいた。 昔三条以仁王に仕えていた宮侍で、鎌倉に取り立てられた。 義経一向が配所を訪れたときに、小事件すら起こっていないところをみると、そ知らぬ風をしていたようである。 それから約2年後に平時忠は配所で病死している。

 かくして義経一向は配所を後にして平泉へ向かい、 藤原秀衡に手厚く歓迎され奥州の総大将としての座を秀衡に託されたのである。 そして間もなく衣川の舘にて僅かな随臣とともにつつましい生活を送っていた。 その少しのちに河越小太郎を伴って百合野が平泉に来ている。 そのときには百合野の父河越重頼やその一族はことごとく幕府に取り潰されていた。 百合野はもとより、一生を義経とともにと願っていたので、ここ平泉の地でほんとうの妻の座を得たといえよう。  ところが、間もなく秀衡が忽然と病死するのである。 藤原家三代は大きく揺れ動き始める。 その間に義経と百合野に子供が授かりしばらくは平和があったが、そのうちに鎌倉から秀衡の嫡子・泰衡に対して 義経逮捕の勅命をくだし賜りたい といってきた。 そのときの様相はちょうど平清盛が死んだあとの平家のようである。 泰衡の動揺は隠しきれなかった。 頼朝の度重なる要求にもはや拒むことはできない状況にある。 長男国衡は、母が蝦夷の娘であった為に跡継ぎにはならなかったが、父の遺命に従って忠衡とともに義経を保護する。 しかし後継者の泰衡は頼朝の要求に屈し、弟の頼衡を殺したあと義経に夜襲をかけた。  義経はこのとき、泰衡の動きを見抜いていた。 選ばれた道は落ち延びるか 頼朝追討にでるか、自決するかである。 恐らくこれ以上の血を流したくないと切望していた義経は頼朝追討は念頭あらず、 また落ち延びることももはやできない。 すると事あらば自害・・・と覚悟はできていたのかもしれない。 そして義経一行の精鋭20名程度が1000騎に及ぶ泰衡の夜襲に打ち勝てるはずもなく、 百合野と姫君を自分の手で殺し、自害を図ったのである。 家臣一同は無事に最期を遂げられるようにとの思いだけで、主を守ったことであろう。  その後、泰衡は弟・忠衡をも殺害し頼朝に義経の首を献上したが、主を売る犬め との罵倒を受けて斬られている。 そして平泉は頼朝軍に攻め入られ、すべての所領を失い、藤原4代に続いた奥州平泉の繁栄は途絶えたのである。 後に義経に対する色々な伝説は伝えられているが、平泉の衣川の館で31歳の見事な、そして頼朝でさえうらやむ家臣に恵まれて幸せに過ごした生涯を終えたという事が史実であろうと思われる。

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