楠木正成とは、日本で最も有名になった土豪であり、大楠公として歴史に名を遺す英雄、険しい山に城を築き奇想天外な戦法で大軍と戦った武略の天才である。天皇の命令に従い悲劇的な死を遂げた忠臣として長く語り継がれた。今年は明治150年にあたるが、明治維新に大きく影響を与えた人物でもある。ほんとうに悲劇の忠臣なのか?1336年に足利尊氏と湊川の戦で敗れて自刃したが、その三か月前に尊氏をあと一歩のところまで追いつめていた。出自も不明な謎多き正成が歴史に登場したのは1331年8月、150年に渡った鎌倉武家政権と時の後醍醐天皇との対立が表面化した。わが子への皇位継承を望む後醍醐天皇は、これを阻む幕府に不満を募らせていた。天皇に政の実権を取り戻すことを目論んでいたのである。これに応えたのが河内の土豪・楠木正成である。大阪南部を拠点にしていた正成は武力を財力を兼ね備えた有力者であった。当時、中国宗からの銭の普及を背景に交通、流通をとりしきることで台頭した武士たちのひとりである。彼らは権威を振りかざし権益を独占する鎌倉幕府に憤りを感じていた。正成は後醍醐天皇の元にはせ参じ、武力と智謀にて天下を改めるべく動いたのである。かくして楠木正成は500の手勢を用いて河内の山城・赤坂城で蜂起した。幕府は30万とも言われる大軍勢を差し向け、赤坂城を攻撃したが、大木熱湯などで大軍を撃退。これに手を焼いた幕府軍は兵糧攻めに転じるや、楠木正成は自害を装って城に火を放ち夜陰に紛れて逃げたのである。
倒幕戦に敗れた後醍醐天皇は隠岐に流され、楠木正成の行方も不明であった。赤坂城脱出の1年後楠木正成は紀伊で挙兵する。河内一帯を取り戻した楠木正成は金剛山の麓に新たな千早城を築いた。約500段の階段を上ると千早城四ノ丸跡がある。峰の奥には金剛山まで続く道がある要塞であったようだ。金剛山には幕府軍を迎え撃つ正成の書状がのこされている。千早城は金剛山の出城みたいな存在であり、正成は金剛山と密接な関係を結んでいたと思われる。
1332年2月鎌倉幕府の大軍が千早城に襲い掛かった。正成は奇策で第軍勢を迎え撃つ。籠城は100日以上にもおよんだことから兵糧を受け入れるネットワークがあった。逆に幕府軍の戦意は衰え、また正成奮戦の効果は日本各地に及び、日本各地で蜂起が始まったのである。激変は幕府内部でも発生。幕府軍の大将・足利尊氏が後醍醐天皇側に寝返った。1333年5月、尊氏は幕府の京都拠点・六波羅探題を攻め落とし、幕府方の新田義貞も鎌倉を襲撃し壊滅させた。かくして1333年5月22日鎌倉幕府は滅亡した。隠岐を脱出した後醍醐天皇は正成に先導されて京都に凱旋した。6月には天皇親政である建武の親政を開始した。後醍醐天皇は所領争いなどに前例を顧みない判決を行い破格の人事を次々と実施した。地方の土豪に過ぎなかった正成も天皇の親衛隊長とも言える武者所に大抜擢された。しかしこれらは武家だけではなく朝廷内にもわだかまりを残すこととなる。
鎌倉幕府倒幕から二年後、旧幕府残党の氾濫を抑えるため鎌倉に下っていた足利尊氏が後醍醐政権から離反する。反乱の鎮圧後も鎌倉から動かない尊氏を後醍醐天皇が討伐しようとしたからである。ところが尊氏はこの戦いに勝利して京都を制圧。比叡山に逃れた後醍醐天皇の元に正成ら朝廷軍は集結した。1336年1月朝廷軍は尊氏軍に総攻撃をしかけ洛中から駆逐したのである。ここでも正成は戦死したとみせかけて散り尻に逃げたが、尊氏により差し向けられた追手に襲い掛かった。かくして正成は尊氏を追い詰めたが、優勢な朝廷軍の中には逃げる朝敵に付き従う武士が多数居たのである。彼らは所領の拡大など功績に見合った恩賞が無いとして不満を持っていたのである。正成はこの光景を見て尊氏を追い込むことはやめて撤退した。ある意味尊氏との決戦をさけて尊氏を取り込み、後醍醐天皇の治世継続を狙ったと言える。そして都に戻った正成は後醍醐天皇に思い切った策を進言した。つまり尊氏との和睦案を進言し、尊氏の反撃をかわそうとしたのである。ところが、この進言は聞き入れられなかった。
二か月後、九州に落ち延びていた尊氏は大軍勢を率いて京都に進軍した。かくして天皇を比叡山に逃し京都を空にして尊氏軍を引き込み、兵糧のルートを新田軍と絶ったうえで市中殲滅を狙うものであった。だが、公家たちからは反対され出陣を強いられたのである。かくして菊水の旗印のもとわずか500騎で兵庫湊川に向かった正成は、足利の大軍を相手に激闘し、1336年5月25日やつきた正成は弟正季と「七たび人間に生まれ変わっても、朝敵を滅ぼす」と誓い、刺し違えて死んだという。