平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

2代目・北条義時の承久の乱により武士の時代は確立した

2019年02月02日 | 鎌倉・室町時代

【11世紀】

【1163年】北条義時誕生(江間小四郎義時 次男)@伊豆 父北条時政は伊豆豪族の主

【1181年】源頼朝は江間小四郎義時を身辺警護に当たらせる親衛隊の筆頭にしている @吾妻鑑

【1182年】頼朝の子頼家誕生 北条政子に妾の存在がばれる

【1185年】鎌倉幕府開く 合議制

【1199年】頼朝は落馬で急死 2代は頼家18歳 御家人は不安定

     頼家の補佐に宿老13人(梶原景時、大江広元、北条時政、比企能員、北条義時) 

【1200年】宿老・梶原景時はクーデターを起こそうとしたため(?)一族が滅亡(梶原景時の変)

【1203年】二代鎌倉殿・源頼家が危篤 後継者には頼家の子・一幡(母は若狭局)

     北条時政は、源頼家の側室の父・比企能員を謀殺(比企能員の変 世継ぎ・一幡は義時の郎党により刺殺)

     かくして宿老が次々と暗殺され、北条時政が初代執権となる

     源実朝を3代鎌倉殿として、北条時政が後ろ盾となる→独裁政権

     病から回復した頼家は伊豆修善寺に追放 By 北条時政 後に刺客を送って頼家暗殺

【1205年】北条時政は謀反の罪で畠山重忠を滅ぼして武蔵の国を取得 → 義時は無実の罪だと疑う

     また、源実朝を排して娘婿・平賀朝雅を新将軍として擁立を画策

     北条義時は大江広元、姉・北条政子、三浦義村とともに、父・時政追放を決意(牧氏事件)

     三浦義村は実朝を救出 →御家人は義時邸に終結 →失脚した時政は伊豆に追放

こうした状況のとき、後鳥羽上皇(上皇=太上天皇の略)は鎌倉幕府を支配下に置こうと考えていた。実朝に世継ぎができずに後継問題を抱えていた。実朝は和歌の修業を行い、後鳥羽上皇(新古今和歌集を完成させた達人)と親密になると、上皇は従妹(西八条禅尼1193-1274)を実朝の御台所に選んでいる。

【1209年】実朝は将軍家政所を開設 : 幕府が御家人を束ねて朝廷を守り全国の治安維持を行う

【1213年】北条義時に対する不満分子による義時暗殺計画(和田義盛一族の名もある)

     実朝は赦免(和田胤長以外は。また義盛への辱めあり)

     和田義盛は挙兵(比企、三浦、千葉氏の残党も加入)、将軍御所を襲うが、三浦義村は北条義時と内通

     義村は実朝の身柄を受け取ると、北条氏に渡し、謀反は失敗。和田義盛側230人は斬首

     京では和田残党が御所を襲うとの噂 鎌倉大地震@1213-5 → 実朝の信用失墜

【1216年】善政:御家人の意見聴取

     実朝は5月権中納言→6月左中将に叙任 信頼回復 11月唐船建造@由比ガ浜

     御台所との間に子供なし →後継者問題  

【1217年】かくして実朝は後鳥羽上皇の親王を次の将軍に推す密約が交わされる

【1218年】北条政子は後鳥羽上皇の乳母・卿二位と会見:後鳥羽上皇の親王を次の将軍に迎える為

     実朝は3月左近衛大将、10月内大臣、12月右大臣

 

 日本の歴史の中で上皇は権力の中心にあった。新古今和歌集の選者として有名な後鳥羽上皇は自らの和歌を数多く残している。その才能は和歌だけではなく、菊御作という刀剣にも残されている。備前や備中、山背から御番鍛冶と呼ばれる鍛冶名人を集めて作られたものである。では後鳥羽上皇は何故刀を必要としたのか。後鳥羽天皇即位の二年後に勃発した壇ノ浦の戦いでは三種の神器のひとつ草薙の剣が失われた。天皇の権威の象徴が失われたことが菊御作の背景にあるという。後鳥羽上皇の時代には王統の正当性が揺らぎ、権威の象徴を造らざるを得ないほどに追い込まれていた。後鳥羽天皇は1198年に19才で譲位して上皇となると諸芸の習得を重視したが、なかでも和歌は重視した。

 新古今和歌集は王の権威をとりもどす狙いがあったと考えられる。それは東国の政治情勢である。源頼朝が鎌倉幕府を創設、従来荘園の下級役人に過ぎなかった武士が守護や地頭として勢力を拡大し荘園経営に口出しし始めたことは、公家にとっては大きな打撃である。1204年、鎌倉幕府の執権・北条義時(畠山重忠を謀反の罪に陥れて暗殺した北条時政は、御家人の信頼を失い、代わって北条義時が政権を握るようになる)が3代将軍・実朝の正室として公家から迎え入れたいと申し出てきた。後鳥羽上皇は、自分の従兄弟にあたる坊門信清卿の女を送りこむことで実朝を取り込もうと図った。その効果は絶大で、婚姻の数か月後に実朝は和歌をたしなむようになった。1213年、実朝は自ら金槐和歌集を編纂した。実朝は後鳥羽上皇に対して恭順の意を表したのである。かくして上皇は実朝の官位を僅か1年の間に左大将、内大臣、右大臣にまで昇進させている。この裏には二人の間にて密かに進められていた計画があったと愚管抄には記載がある。つまり頼仁親王を将軍とし、実朝にはその補佐をさせるということである。天皇の権威の元、この国を再びまとめるという計画は実現寸前までこぎつけていたのである。

 

【1219年1月27日】 実朝暗殺

 鶴岡八幡宮で右大臣昇進祝賀(付き添い源仲章?-1219/2)のために参拝していた実朝が、二代将軍頼家の子・公暁によって暗殺された。公暁はすぐさま三浦義村のもとへ駆け寄るが、殺害された。

    黒幕は義時?御家人?上皇?

自ら将軍になることを目論んでの犯行である。北条義時は京へ使者を派遣し、頼仁親王を鎌倉へ下向させるように要請した。将軍をも暗殺するような危険な鎌倉へ、頼仁親王を送りこむことを後鳥羽上皇は拒んだ。「実朝の身の安全を祈祷していた陰陽師がすべて罷免された」という吾妻鏡の記述は後鳥羽上皇の御沙汰だという。後鳥羽上皇は北条義時の本心を確かめるべく、摂津、長江、倉橋の荘園地頭の罷免を申し出た。

【1219年2月27日】 阿野全成1153-1203の息子・阿野時元(頼朝直系)暗殺By義時  
            ┗源頼朝の異母弟 

【1219年3月】 朝廷-幕府の関係悪化

摂津から鎌倉の御家人を追い出せということである。この荘園の地頭は北条義時。どこまで朝廷に従う気があるのかを試したのである。ところが義時は1000騎の兵を京に派遣し、内裏に火を放つなど、この要求を拒否している。かくして朝廷と北条義時の関係は悪化していく。

【1219年7月】 後鳥羽上皇は摂政・九条道家の子・三寅を関東に下向させるという苦渋の選択をした。

ところがその裏で源頼茂1179-1219が将軍就任を目論み、実朝の後継者には三寅1218-1256(藤原頼経)よりも自分がふさわしいとした。これを知った後鳥羽上皇は頼茂討伐に踏み切る。1219年8月源頼茂は討伐されたが、混乱のさなか大内裏が焼失した。王権の象徴である内裏の焼失は我慢ならないものであった。後鳥羽上皇は再建を進めたが、公家寺社は年貢の増大に反発、さらに幕府までもが反対し、内裏再建は頓挫したのである。そして・・・

【1221年4月28日】 承久の乱

後鳥羽天皇は京に1000騎の軍勢を招集、承久の乱勃発である   
 ・
西国の守護である御家人に上皇が挙兵を呼び掛けた命令が残されている  
 ・
計画は次である  
 ・
北条義時に対して相模の三浦義村(鎌倉幕府創設以来のライバル)がクーデターを起こす  
 ・
失敗したら西国の上皇方御家人が北条義時を討つ   
 ・ 

 ・
ところが、北条義時は上皇の挙兵をすばやく察知  
 ・
三浦義村が義時に上皇の書状を提出(5月19日後鳥羽上皇による義時追討命令)  
 ・
東国御家人達に対する北条政子の情報操作演説(実は安達景盛)が威力を見せ、武田信光などは一番に賛同  
 ・
僅か8騎の幕府軍の軍勢は1万を超えるまでに膨れ上がった

【1221年6月5日】岐阜県木曽川で両軍は対峙  
   
 ・
上皇軍は大敗し京へ撤退する  
 ・
幕府軍(武田信光の東山道、北条朝時の北陸道、北条泰時の東海道は恩賞の確約を取り付ける)はそのまま京へなだれ込んだ  
 ・
一方北条に捕えられていた上皇の密使・押松は、京に送り返され、東国武士の団結を後鳥羽上皇に知らせた  
 ・
上皇は西国武士を整えるが時は遅く、恩賞の保証がない院宣には従わないのも道理  
 ・
6月14日京都宇治で総大将泰時が覚悟するほどの最後の決戦が行われ、鎌倉幕府軍の勝利となった   
  

 ・
上皇は義時追討の院宣を取り消した  
 ・
朝廷敗北によって西国の守護はことごとく処分され日本全土は東国の守護により配置  
 ・
朝廷の所領3000か所が幕府の所領となった  
 ・
東国の武士に西国の所領が与えられ、それぞれに移住し、武士の考え方や秩序が西国にまで及ぶようになる  
 ・
また、幕府によってそれまでの天皇(仲恭天皇、その父・順徳天皇、その前の土御門天皇)は廃される  
 ・
上皇の兄の子にあたる後堀河天皇が即位  
 ・
つまり皇位継承に幕府が口出しをするという前代未聞の事態が発生  
   
 ・
上皇への処分も過酷を極め、上皇41歳の1221年隠岐の島へ流された  
 ・
隠岐の島の中ノ島海土町には上皇が暮らした行在所跡が今でも残っている  
 ・
上皇は失意の中でも決して都への思いは忘れず、島で上皇と接した一族が村上家  
 ・
村上家は帰還を願う後鳥羽上皇の便りを京へ運び上皇はその返事を求めて村上家を訪ねたという  
 ・
しかし上皇の願いが叶うことはなく、流罪になってから18年後の1239年2月、後鳥羽上皇は病に倒れ、この地で崩御した  
 ・
上皇の遺骨の一部は京から20km離れた大原に葬られた。死して尚都の地を踏むことは許されなかったのである。

 ・また、承久の乱の三年後、1224年に北条義時は自分の役割を終えたかのようにこの世を去った  
 ・
この後武士の世は640年間続く  
 ・
新井白石などは朱子学の元、北条義時を悪人と批判している 

 

┏源頼朝 1147-1199 (急死 乳母比企の局)    
┣義賢   ┃          ┣比企能員
┃     ┃藤原忠通1097-1164┣丹後局   
┣範頼   ┃┃         ┗長女   
┗妹坊門姫 ┃┃ ┏玉日姫(親鸞室)┣-
 ┣高能  ┃┣九条兼実      藤九郎盛長
 ┣良経室 ┃加賀┣九条良通1167-1188        
 ┣全子  ┃  ┣九条良経1169-1206      
 ┣保子  ┃   ┃┣九条道家1193-1252     
 一条能保 ┃   ┃┃┣九条教実1211-1235     
      ┃   ┃┃┣二条良実1216-1271     
      ┃   ┃┃┣藤原頼経1218-1256 鎌倉4代将軍(幼名は三寅)     
      ┃   ┃┃┃┣九条頼嗣1239-1256鎌倉5代将軍      
      ┃   ┃┃┃大宮殿(藤原親能娘)  ┣-    
      ┃   ┃┃┣一条実経1223-1284  桧皮姫1230-1247北条経時妹   
      ┃   ┃┃西園寺綸子     
      ┃   ┃┣九条教家1194-1255     
         ┃   ┃┣九条立子1192-1248     
      ┃   ┃一条能保娘     
      ┃  ┣中宮任子1173-1238      
      ┃ 兼子┃     
      ┃   ┣昇子内親王1195-1211     
      ┃82後鳥羽天皇1180-1239      
      ┃ ┃ ┣83土御門天皇1196-1231    
      ┃ ┃源在子       ┣後嵯峨天皇1220-1272   
      ┃ ┃  ┏西園寺姞子1225-1292 ┣宗尊親王1242-1274鎌倉6代将軍
      ┃ ┃西園寺実氏1194-1269    平棟子  ┗惟康親王1264-1326鎌倉7代将軍
      ┣大姫1178-1197       
      ┣頼家1182-1204(乳母は比企一族 北条時政により暗殺 手を下したのは義時)       
      ┃ ┃ ┣ 禅暁 ?-1220/5(母は辻殿)暗殺By義時 →頼朝直系滅亡      

      ┃ ┃ ┣ 公暁1200-1219/1(母は 乳母は三浦一族)     
      ┃ ┃ 辻殿:足立娘             
      ┃ ┃   (三浦義村は実朝・義時暗殺を計画) 
      ┃ ┣ 一幡(嫡男:藤原氏に敗れる) 
      ┃若狭局:側室・比企能員(よしかず)娘         
      ┃
      ┃藤原棟子       
      ┃ ┣86後堀河 藤原重子  藤原立子1192-1247   
      ┃守貞親王(後高倉院)┃    ┣85仲恭天皇1218-1234(懐成親王) 
      ┃            ┣84順徳天皇1197-1242
      ┃82後鳥羽天皇1180-1239    
      ┃    ┣道助入道親王1196-1249仁和寺御室 
      ┃    ┣禮子内親王(嘉陽門院)1200-1273 
      ┃坊門信清┣頼仁親王1201-1264 承久の乱後備前へ配流    
      ┃ ┣坊門局    
      ┃ ┗西八条禅尼(後鳥羽上皇の従妹)    
      ┃   ┣ ---   
      ┣実朝1192-1219(幼名は千幡 乳母は北条・阿波局 公暁により暗殺される)---清和源氏      
      ┃ ・師匠:藤原定家1162-1241   
      ┃ ・先生:源仲章?-1219                      ---宇多源氏:藤原摂関家と結びつく     

      ┣三幡(乙姫)1186-1199後鳥羽天皇入内を図るが暗殺の疑       
  ┏北条政子1157-1225尼御台 
 ┃姫の前(比企朝宗娘)    
 ┃  ┣北条朝時1193-1245         
 ┃ ┃ ┣北条光時?-?(宮騒動) 
 ┃ ┃ ┗娘
 ┃ ┃  ┣家氏?-?
 ┃ ┃ 足利泰氏1216-1270
 ┃ ┃  ┣頼氏1240-1297    北条時盛娘
 ┃ ┃ 北条時氏娘(時頼兄妹)     ┣北条義宗1253-1277六波羅探題北方
 ┃ ┣北条重時1198-1261(極楽寺流)┃       ┃
 ┣②北条義時1163-1224 ┣⑥北条長時(1229-1264) ┗北条久時1272-1307
 ┃ ┃┣⑦政村1205-  ┣北条時茂1240-1270探題   ┃
 ┃ ┃┃        ┣北条義政1242-1282探題   ┃
 ┃ ┃┃        ┣北条時頼室(葛西殿)    ┃
 ┃ ┃┃        ┣安達泰盛室・藤岡     ┃
 ┃ ┃┣実泰1208-1263 平基親娘(治部卿)       ┃
 ┃ ┃┃ ┗実時1224-1276(金沢流)          ┃
 ┃ ┃伊賀の方 ┗顕時1243-1301 (室:安達千代野) ┃
 ┃ ┃                                   ┃
 ┃ ┣③北条泰時(承久の乱時総司令官)1183-1242   ┃
 ┃ ┃ (頼時)  ┃ ┃              ┣⑯北条守時1295-1233
 ┃阿波局?-?:妾   ┃ ┣北条時実1212-1227    ┃
 ┣北条宗時?-1180    ┃ 安保実員娘        ┃
 ┃         ┣北条時氏1203-1230      ┣赤橋登子1306-1365
 ┃         ┃ ┣桧皮姫1230-1247        ┃   ┃
 ┃         ┃ ┣北条時定-1290宝治合戦  ┃   ┃
 ┃三浦義澄1127-1200 ┃ ┣④北条経時1224-1246  北条宗頼娘┣足利義詮1330-1367
 ┃ ┣三浦義村-1239 ┃ ┃   ┣隆政            ┃┣義満1358-1408
 ┃伊東 ┣矢部禅尼1187- ┃    ┗頼助1245-1296       ┃┃
 ┃祐親娘┃          1256┃大江広元1148-1245         ┃┃
 ┃   ┣三浦泰村1184- ┃┗毛利季光1201-1247(宝治合戦)  ┃┃
 ┃   ┣三浦光村1205- ┃  ┣経光?-?・・・毛利元就    ┃┃
 ┃   ┣土岐光定室  ┃  ┣娘              ┃┃
 ┃   ┣━━━━━━━┃ ━娘┣北条時宗(否定説)      ┃┃
 ┃ 一条忠頼娘(公暁乳母)┃   ┃辻殿            ┃┃
 ┃            ┃   ┃┣北条宗頼?-1279      ┃┣満詮1364-1418
 ┃              ┃    ┃┃                 ┃紀良子
 ┃              ┃    ┃┃     小山長村娘     ┃
 ┃              ┃    ┃┃讃岐局┣時朝       ┃
 ┃     家時(報国寺)┃   ┃┃┣北条時輔1248-1272   ┣足利基氏1340-1367
①北条時政     ┣-  ┣⑤北条時頼1227-1263        ┣足利頼子?-1353鶴王
  ┃        ┃  ┃    ┃            ┃           ┃
 ┣阿波 平賀朝雅 ┏娘 ┏松下禅尼┣北条宗政1253-1281   足利尊氏1305-1358┣-
 ┣鏡子 ┣- ┏常葉時茂┃ ?-?   ┃┣⑩師時1275-1311                崇光天皇
 ┣百合子┏重時1198- ┃    ┃北条政村娘
 ┣江馬四郎義時1163- ┃    ┣⑧北条時宗1251-1284     
牧の方         ┃   北条重時娘   ┣⑨貞時1272-1311(乳母)         
            ┃   (葛西殿)   ┃┣⑭高時1303-1333┃
             安達景盛-1248       ┃北条宗政娘    ┣宗綱?-?
            ┃               ┃      ┏平頼綱1241-1293(日蓮を配流)
            ┣安達義景1210-1253 ┃ 平盛綱?-?得宗家執事
          武藤頼佐娘┣堀内殿1252-1306覚山尼
                ┣安達泰盛1231-1285        
                ┃ ┣宗景1259-1285         
                ┃北条重時娘・藤岡         
                  北条時房娘

コメント    この記事についてブログを書く
« ユダヤ-6 オランダでのユダヤ人 | トップ | Miao妙妙@台北-3-3 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

鎌倉・室町時代」カテゴリの最新記事